2014年編 #13-5
冬の大気は凍てつき、息を吐けば白く染まった空気がすぐに消えていく。午前2時を回った大学のキャンパスは、まるで時間そのものが凍りついたかのような静けさに包まれていた。
普段ならば夜遅くまで語り合う学生たちの笑い声や、講義棟から漏れる灯り、部活動の掛け声などが溢れているこの広場も、今はただ冷たい月光が石畳の上を滑るように照らしているだけだ。建物の影は濃く重く、まるで底知れぬ闇が口を開けて待っているようにも見えた。
ここは紫苑にとって、特別な場所だった。入学してからの二年間、親友の大悟とこれからの夢を語り、美穂や悠真、朔也たちとともに何気ない日常を紡いできた場所。そして、最愛のちひろと出会い、想いを通わせた思い出の地でもある。
だが今、紫苑の瞳に映る光景は、過ぎ去った日々の面影を微塵も留めていない。昨日までそこにあったはずの温もりは完全に失われ、ただ冷たい風が枯れた木々の枝を鳴らしているだけだ。
紫苑はゆっくりと、まるで何か重いものを背負っているかのような足取りで広場の中心へと向かった。いつも集まっていたベンチのあったその場所には、朝に美穂がそっと手向けた花束が置かれていた。赤や白、黄色の花々が夜露に濡れ、わずかな光を受けて艶やかに輝いている。その美しさがかえって、この世界がいかに脆く、壊れやすいものであったかを紫苑に思い知らせた。
ちひろがいなくなってからというもの、時間の流れが急に速くなったように感じる。あるいは、自分だけが時間の流れから取り残されてしまったのかもしれない。
「ちひろ……」
声に出した瞬間、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。それは悲しみであり、後悔であり、そして沸き上がるような怒りでもあった。紫苑は分厚いコートのポケットに両手を突っ込み、指先で一つの小さな金属の塊を確かめた。
ゆっくりとそれを取り出す。月明かりを受けて銀色に鈍く輝く、細いブレスレット。
一昨日、ちひろの二十回目の誕生日に贈ったものだった。だがその日は、同時に彼女がラフロイミュードとしての使命を終え、人間だった頃の心を取り戻したままこの世を去った「命日」になってしまった。
混乱の中で繰り広げられた戦いの最中、最期の瞬間、彼女の腕には確かにこのブレスレットが巻かれていた。紫苑は倒れた彼女の側に駆けつけ、誰にも気づかれないようにそれを外し、自分のものとした。それが唯一、彼女がこの世界に残した、触れることのできる形あるものだったから。
紫苑は両手でそのブレスレットを包み込み、自分の体温を移すように強く握りしめた。冷たい金属の感触が、一昨日の出来事を鮮明に呼び起こす。
苦しみに歪められていたちひろの表情が、最期の瞬間だけは嘘のように穏やかになり、自分に向かって微笑んだ。「ありがとう、紫苑くん」――そう囁いた彼女の声が、今も耳の奥に残っている。
「俺はあの時、君を救うことができなかった」
紫苑は静かに呟いた。
「君を殺したのは、怪物なんかじゃない。この俺だ。俺が戦うことを選び、俺がこの運命の渦中にいたから、君は巻き込まれ、命を落としたんだ」
自責の念が何度も何度も胸を刺す。だが、それで泣き崩れているわけにはいかない。紫苑の心の奥底では、悲しみを押し流すようにして、ある種の覚悟と決意が固まりつつあった。
大悟は言った。日常など、脆い砂上の楼閣だと。
今となっては、それが真実だったことが痛いほどわかる。自分たちが当たり前だと思っていた平穏な日々は、実は多くのものの上に成り立つ、はかない幻想に過ぎなかったのだ。
それでも紫苑には守りたいものがあった。ちひろが愛し、ちひろが生きた証であるこの街、この場所、そして美穂や悠真、朔也といった仲間たちの存在だ。たとえそれが脆いものだったとしても、失われて良いはずがない。
「ちひろ、君が大好きだったこの場所、この時間だけは……俺が絶対に守る」
紫苑の声は夜風に震えながらも、はっきりとした意志を帯びていた。その瞳に浮かんでいるのは、悲しみではない。これから起こることすべてを受け入れ、自らの進む道を定めた者だけが持つ、冷徹なまでの光だった。
「だから、もう少しだけ待っててくれよ」
紫苑はゆっくりと膝をつき、美穂の花束の隣の空いたスペースに、その銀色のブレスレットをそっと置いた。色鮮やかな花々と冷たい金属が、月光の下で寄り添うように並ぶ。
これは、紫苑がまだ一人の人間、鷹宮紫苑であるこの場所に残していく、最後の未練であり、愛の証だった。
「全部すんだら、ずっと君のそばにいる。もう二度と、君をひとりぼっちにはさせないからな。約束だ」
この言葉は、自分自身への宣言であると同時に、一種の死の宣告でもあった。
これから向かう先に待っているのは、かつての親友であり、現在は敵対する存在となった大悟との決着。そして、この世界の歪みの根源であるロイミュードたちとの最後の戦いだ。
紫苑にはもう、生きて帰るという選択肢はなかった。ちひろを失い、自分の手で彼女を葬った責任。そして、この世界の歪みを正すために戦う者としての使命。それらすべてを背負い、この命を果てさせることこそが、自分に課せられた贖罪であり、ちひろの元へと行くための唯一の道だと信じていた。
紫苑はゆっくりと立ち上がり、一度も振り返ることなく、広場の脇に停めてある相棒――ライドストライダーへと歩みを進めた。
背後からは相変わらず、静寂だけが彼を見送っている。だが、もう悲しみに立ち尽くす鷹宮紫苑はそこにはいなかった。
バイクの横に立つと、彼は黒いジャケットの前を整え、頭から重厚なヘルメットを被った。カチリという音とともに留め金がはまり、バイザーを下ろすと、外界の光はさらに暗くなり、視界は冷たいガラス越しのものとなる。
その瞬間、この場にいたのは一人の大学生である鷹宮紫苑ではなくなった。彼は己の意志と覚悟をもって、ただ一人の「仮面ライダー」へと変貌を遂げたのだ。
「行こうか」
ヘルメットの中で、低く呟く声が響く。紫苑はシートに跨り、グリップを握りしめる。手のひらに伝わるエンジンの冷たさが、逆に心を静かにさせた。
親指でスターターボタンを押す。
次の瞬間、凍てついた深夜の大学構内に、まるで眠れる獣が目を覚ましたかのような、重く太い排気音が轟き渡った。それは静寂を引き裂き、建物の壁に反響し、暗い空へと昇っていく。アクセルを少しだけ捻ると、エンジンはさらに高く鳴り、力強いトルクが車体を前へと押し出す。
タイヤがアスファルトを強く掻き、砂利を巻き上げながら、ライドストライダーは弾かれたように加速を始めた。
バックミラーには、あっという間に後方へと流れていくキャンパスの景色が映っていた。月明かりに照らされた校舎、あの花束とブレスレットの置かれた広場、そして自分が過ごした二年間の日々。それらが次第に小さく、遠くなっていく。
これから自分が走り去る先には、美穂や悠真、朔也たち、守るべき者たちの住む街が広がっている。彼らはまだ、これから起ころうとしていることなど何も知らずに、安らかな眠りについていることだろう。紫苑は彼らの平穏な日常を背負うようにして、ただ一人、運命の中心地へと向かっていた。
行く手にあるのはエリア0。
この街の深くに存在する、すべての始まりの場所。紫苑の父・矢切周平が非業の死を遂げた場所。そして、紫苑自身が仮面ライダーとしての力を得、戦いに身を投じることになった、すべての因縁が渦巻く地点だ。
ライドストライダーの強力なヘッドライトが、漆黒の闇を両断するように進む。その光の先に待っているのが救いなのか、それとも破滅なのか、紫苑にはわからない。いや、おそらく救いなど存在しないだろう。それでも彼はアクセルを緩めることなく、ただ真っ直ぐに道を駆け続けた。
愛する者の魂が待つ場所へ。
そして、かつての親友との、地獄のような決着をつけるための戦いの舞台へ。
時刻は2015年2月16日、未明。
空はまだ暗く、夜明けは遠い。
最後の戦士は、己の背中にあるすべての想いと覚悟を乗せて、加速し、漆黒の夜そのものへと溶け込むように消えていった。彼の走り去った道には、残された排気ガスの白い靄が、月の光に照らされながら、ゆっくりと、だが確かに消えていくばかりだった。
(続)