2019年編 #1-3
春の風が、都心の大通りを舞い抜けていく。満開を過ぎた桜の木々からは、はらはらと花びらが零れ落ち、歩道を淡いピンクの絨毯に染め上げていた。道行く人々はその光景に目を細め、写真を撮ったり、春の訪れを喜んだりしている。けれど東美穂にとって、この美しい風景はただそこにあるだけで、心を揺さぶるものは何もなかった。むしろその鮮やかなピンク色は、5年前に見た血の色と重なり、目にするたびに胸の奥が締めつけられるような痛みを覚えるのだ。
美穂は都内にある小さな商社のビルの前で立ち止まり、深く息を吐いた。鏡代わりに携帯の画面を覗き込み、髪を整え、表情を作る。目元にはわずかにクマが浮かんでいるが、化粧でうまく隠せている。口元にはいつもの、角の立たない柔らかな笑みを浮かべる。これが今の自分の「正体」であり、外の世界に見せるための仮面だった。
「おはよう、東さん」
「おはようございます、課長」
挨拶を交わす声は自然で、明るく、そして何の淀みもない。誰も、この声の主の心の中が、今もなお嵐のように荒れ狂い、暗い闇に包まれているなどとは想像もしないだろう。
事務職としての仕事は、締め切りと正確さが命の細かな作業の連続だった。伝票の整理、請求書の作成、電話の応対、来客の案内……。美穂は与えられた仕事に黙々と取り組み、ミスをすることもなく、周囲の期待に応え続けた。同僚たちは彼女のことを「控えめだけど仕事ができる、真面目で良い子」と口を揃える。時折、食事に誘われることもあったが、「用事があるので」と丁寧に断り、いつも一人で過ごす時間を確保した。
彼女にとってこの職場は、安全な「殻」のようなものだった。ここにいる限り、5年前のあの日の出来事は遠い世界の話になり、自分はただの「東美穂」として存在できる。だがその平穏は、いつ崩れ去るかわからない、ガラス細工のように脆いものでもあった。
昼休み、美穂は社内の休憩室で持ってきたおにぎりを食べながら、窓の外の桜並木を眺めていた。隣の席では同僚たちが楽しそうに旅行の話やテレビの話題で盛り上がっている。その笑い声は遠く、まるで別の空間の出来事のように感じられた。
ふと、5年前の自分たちの姿が脳裏に浮かぶ。当時、美穂は大学でちひろ、大悟、悠真、朔也、そして紫苑と共に過ごしていた。ちひろは誰からも好かれる明るい性格で、美穂にとっては何でも話せる一番の親友だった。大悟はいつも場を盛り上げるムードメーカーで、皆のリーダー的存在だった。悠真は大雑把だが直情的、朔也は冷静にみんなをまとめてくれるバランサー、そして鷹宮紫苑——彼は少し不器用で口数が少なかったが、誰よりも優しく、いつも美穂のことを陰から支えてくれていた。六人で過ごす時間は輝いていて、この先もずっとこの関係が続くのだと、疑いもなく信じていた。
だが、あの日、すべてが壊れた。
あれは冬も終わりに近い、ちひろが息を引き取った翌朝だった。突然キャンパス内に奇妙な「重さ」が生まれ、空気が張りつめ、音が遠くなるような感覚に襲われた。それが後に「重加速」と呼ばれる現象だと知るのは、もっと後のことだ。
次の瞬間、彼らの目の前に大悟が現れた。体が異形に変形し、皮膚は黒く染まり、目は赤く濁り、声は獣のような唸り声へと変わっていく。美穂たちはただただ恐怖に凍りつき、助けを呼ぶことも逃げることもできなかった。大悟は自分たちが知っていた友人ではなく、禍々しい姿へと変貌し、牙を剥く。
その時、彼女たちを庇うように前に出たのが紫苑だった。紫苑はポケットから取り出した不思議なデバイスをブレスに装填すると、まばゆい青い光に包まれ、重厚な金属の装甲を身にまとった戦士へと変身した。
美穂は息を呑んだ。それは当時ニュースで度々報じられていた、謎の怪人と戦う「青い戦士」そのものだった。自分の知っている紫苑が、なぜ、どうして……。混乱と恐怖の中で、紫苑は言葉を発することなく、怪物と化した大悟に向かっていった。
戦いは凄惨だった。力と力のぶつかり合い、火花が散り、叫び声と咆哮が辺りに響く。美穂たちはただその場にうずくまり、震えながら事態が収まるのを待つしかなかった。そして——悲劇は起きた。大悟の放った攻撃が、紫苑に直撃した。
「紫苑!」
倒れこんだ紫苑を庇うように美穂は紫苑の腕にしがみついた。
戦いが終わり、青い光が消え、紫苑は元の姿に戻った。美穂は涙を流しながら彼のもとへ駆け寄ろうとした。だが紫苑は、美穂の方を向くことなく、ただ背中を向けたままだった。
彼は何も言わなかった。「ごめん」も「大丈夫か」も「さようなら」も、何一つ言葉を発さず、大学の外へと歩き出し、やがて消えていった。
それが、美穂が見た紫苑の最後の姿だった。
そして、その夜、遠くで巨大な光柱が立つのが自宅からも見えた。
「紫苑....」
美穂はその場に倒れ込み、ただ泣き続けた。
それから数ヶ月、美穂の世界は完全に崩壊した。事件は公式には「不可解な集団事故」として処理され、真相は闇に葬られた。だが美穂の心には、消えることのない傷が刻まれた。夜になると、重加速の独特な静寂、怪物の咆哮、ちひろの突然の「死」、そして自分を置いて去っていく紫苑の冷たい背中が、何度も何度もフラッシュバックした。突然動悸が激しくなり、息ができなくなり、冷や汗が止まらなくなる。眠ることも食べることもできなくなり、体重は急激に減り、顔色は悪くなっていった。
医師から告げられた診断名は「心的外傷後ストレス障害」——PTSDだった。
あれから5年の歳月が流れた。美穂は何とか社会復帰を果たし、こうして働き、生活を送るまでに回復した。だがそれは、心の傷が癒えたからではない。彼女は自分の感情を押し殺し、記憶に蓋をし、平穏な日常という名の檻の中に自らを閉じ込めることで、ようやく「普通」であり続けているだけなのだ。
今でも毎月一度はカウンセリングに通い、薬局で処方された抗不安薬を常に鞄に入れている。それがなければ、突然襲ってくる不安や恐怖に耐えることができないからだ。
かつての仲間だった朔也や悠真とは、今ではほとんど連絡を取っていない。彼らに会えば、あの日の記憶が鮮明に蘇り、自分が今まで築き上げてきた平静が崩れ去ってしまうような気がした。
仕事が終わり、美穂は最寄り駅へと向かう人波に身を任せて歩いていたが、ふと足が止まった。気がつくと、彼女は昔通っていた大学の近くまで来ていた。
そこには昔と変わらない古びた公園があり、木々は青々と茂り、ベンチには親子連れや学生たちが座っている。美穂は誘われるように公園の中へと入り、一番奥にある桜の木の下のベンチに腰を下ろした。
夕暮れ時の空は茜色に染まり、風が木々の葉をそよぎ、心地よい音を立てる。美穂は暮れなずむ空を見上げる。かつて、紫苑とちひろと、ここで下らない話をしていたような気がする。
(紫苑……今、どこにいるの?)
美穂は声に出さず、心の中で問いかけた。
あの日以来、彼はどこで何をしているのだろうか。生きているのだろうか。それとも……考えたくもない可能性が頭をよぎり、美穂は首を横に振った。
テレビのニュースでは、今でも時折「重加速」現象の発生や、それに対処する特殊部隊S.H.I.F.T.の活動、そして謎の怪人たちとの戦いが報じられることがある。そんなニュースが流れるたび、美穂は反射的にテレビの電源を消すか、チャンネルを変えた。あの時から始まった非日常の戦いは、今もどこかで続いているのだ。けれど美穂は、その世界から完全に逃げ出し、目を背け、自分は関係ないのだと言い聞かせて生きてきた。このまま平凡な日々が続けばそれで良い、そう思っていた。
鞄の中から、美穂は一冊の手帳を取り出した。表紙は少し汚れ、角は擦り切れている。ページをめくり、あるページで指を止める。そこには5年前の夏、5人で海へ遊びに行った時に撮った集合写真が挟まっていた。
太陽の下で笑うちひろ、肩を組み合う悠真と朔也、少し照れくさそうに笑う紫苑、そして彼らの隣で楽しそうに笑う自分——。写真の中の自分たちは、これから起こる悲劇など予想もしていないかのように、あまりにも幸せそうだった。
美穂は指先で、紫苑とちひろの顔をゆっくりとなぞった。
途端、心の奥底で固く閉ざしていた感情の蓋が、今にも開きそうになる。悲しみ、怒り、戸惑い、そして会いたいという強い思いが渦巻き、涙が溢れそうになる。
美穂は強く目を閉じ、大きく深呼吸をして、その感情を無理やり心の奥へと押し戻した。ここで泣いてはいけない。泣けば、また戻れなくなってしまう。
「……紫苑、ちひろ。どこかで、笑ってるかな」
震える声で、彼女は夕空に向かって囁いた。
その願いは、公園を吹き抜ける冷たい風にさらわれ、街の喧騒の中へと消えていった。
時計を見ると、そろそろ暗くなり始めている。美穂は手帳を鞄にしまい込み、再び表情を作り、感情のない「社会人の顔」へと戻す。
立ち上がり、桜の木をもう一度見上げる。花びらは相変わらず舞い続けていたが、美穂の目にはそれはもう、色褪せた記憶の断片のようにしか映らなかった。
彼女はゆっくりと歩き出し、駅へと向かう人混みの中へと溶け込んでいった。
日常は確かに戻ってきた。仕事があり、生活があり、朝が来て夜が来る。だが、かつて紫苑たちと笑い合っていた頃の「東美穂」は、5年前のあの日、彼の冷たい背中と共に、この世から永遠に失われてしまったのだ。
救いもなく、答えもなく、ただ失われたものの大きさだけがいつまでも心に重くのしかかる。美穂は今日もまた、傷ついた心を隠し、微笑みの仮面をかぶりながら、失われた愛と友情の残骸を抱えて、孤独な道をゆっくりと歩き続けるのだった。
(続)