2019年編#3-1
戦闘の熱気がまだ街の空気を灼き、コンクリートの破片が太陽の光を鈍く反射させている中、ビルの壁際に身を寄せた美穂は、自分の心臓の音だけが世界中に響いているように感じていた。
激しい戦いが終わり、辺りに静寂が戻ってきたというのに、彼女の全身には安堵などという感情は一片も湧いてこなかった。それどころか、先ほど目の当たりにした光景が、生々しい映像となって脳裏に焼きつき、体の芯から凍てつくような恐怖と、内臓が締め付けられるような強い拒絶感が波のように押し寄せてくる。
「はっ……はっ……!!」
喉が痙攣を起こし、空気を吸い込もうとするたびに肺が悲鳴を上げる。心臓は太鼓のように激しく脈打ち、そのたびに頭蓋骨の内側に鋭い痛みが走り、視界は端から徐々に暗く染まり、まるで底の見えない穴の中へと落ちていくような感覚に襲われた。
これは五年前の、あの忌まわしい記憶の再来だった。
二月の冷たい日差しが降り注ぐ大学のキャンパス。いつものように笑い声が溢れていたはずの場所が、一瞬にして地獄へと変わったあの日。親友だった大悟が突如として異形の怪物へと変貌し、周囲の人々が恐怖の底に沈む中で、ただ一人、紫苑だけが立ち向かってくれた。だがその戦いはあまりにも凄惨で、美穂が見守ることしかできなかったその場で、紫苑は絶望の淵へと消えていったのだ。まるで闇に喰われるかのように、何もかもを残さずに――。
そして今、目の前で繰り広げられていた光景は、まさにその悪夢を再現するかのようだった。
かつて自分たちと同じように、笑い、悩み、未来に夢を描いていたはずの一人の青年が、目の前で怪物を次々と両断し、屠っていく。その姿は人間の営みとは程遠く、冷徹な殺戮兵器そのものであり、彼の振るう一撃一撃には、感情も、躊躇も、何も存在していなかった。
彼が生きていた。それだけでも奇跡的な出来事だというのに、再会した彼は、美穂の知っていた紫苑とはまるで別の生き物へと変わり果てていたのだ。
長年心の奥底に封じ込め、決して開けてはならないと誓っていた記憶の蓋が、目の前の現実によって強引にこじ開けられ、抑えきれなかったトラウマが一気に噴き出す。これがPTSDの発作であることは、彼女自身が一番よくわかっていた。
「うっ……ああ……!」
震えが止まらない指で鞄を探り、常備していた薬瓶を取り出す。蓋を開ける指も思うように動かず、何度も滑りながらもようやく開封すると、水も飲まずに錠剤を口に放り込み、強引に喉の奥へと流し込んだ。
力が抜け、美穂は冷たいコンクリートの壁に背中を預けるようにして、ずるずると地面に膝をつく。荒い呼吸を繰り返しながらも、彼女の視線はどうしても戦いの中心にいる男のもとへと向かってしまう。
「紫苑……」
かすれた声が震えながら漏れ出す。
そこに立つ男に、かつて自分が信頼し、憧れていた親友の面影など、微塵も残ってはいなかった。全身に刻まれた生々しい傷跡、右腕を覆う金属の義手、そして何より、暗い光を湛えたその瞳――まるで機械が発するような赤い光が、彼の人間性を奪い去ったことを証明していた。
その立ち姿から漂うのは、深い孤独と、長い年月にわたる苦難と絶望が凝縮されたような重圧感だけ。美穂は過去の優しかった記憶と、現在の冷徹な姿とのあまりのギャップに押しつぶされそうになり、体を小刻みに震わせながら、何とか壁を伝って立ち上がる。
これ以上この場にいてはならない。このままでは自分が壊れてしまう。彼に見つかる前に、何も見なかったことにして逃げ出さなければ――それだけが美穂の頭の中を支配していた。彼女は足元をふらつかせながらも、まるで化け物から逃れるかのように、路地裏へと続く道を足早に立ち去っていった。
美穂の姿が建物の陰へと消えていくのを最後に、戦場には再び重苦しい静寂が戻ってきた。風が瓦礫の破片を転がすカラカラという乾いた音だけが、がらんとした空間に虚しく響き渡る。
やがて、その静けさの中心で、二つの光が弾けるようにして消滅した。
紫苑と蒼は、ほぼ同時に変身を解除する。白銀に輝いていた装甲も、蒼い炎をまとっていた鎧も、細かい粒子となって風に散り、二人の素顔が日差しのもとへと現れた。
紫苑の右半分の体は、まるで地獄の業火に焼かれたかのような傷跡が覆い尽くし、赤く輝く義眼は、見つめる者の心臓さえ凍らせるような冷たい光を放っている。その体から発せられる圧力は、この五年間でどれほどの死線を潜り抜けてきたのかを物語っており、近づくことさえはばかられるような雰囲気が漂っていた。
一方の蒼は、荒々しい戦いの疲れが顔に刻まれながらも、若者特有のみずみずしい生命力に満ちていた。汗に濡れた前髪の下からは、まっすぐに相手を射抜くような強い瞳が光り、その眼差しには、未熟ではあっても決して折れることのない固い意志が宿っている。
光と陰。過去と未来。絶望を生き抜いた男と、希望を胸に歩み始めた少年。二人のライダーの視線が、太陽が照りつける戦場の中心で、鋭く、静かに、しかし確かに交わり合った。
「……お前が、刈谷蒼か」
最初に声を発したのは紫苑だった。その声は低く、ゆっくりとした口調でありながら、感情の起伏が一切感じられず、まるで機械が音声を発しているかのような無機質な響きを持っていた。
蒼は、目の前の男から流れ込んでくる圧倒的な存在感と、言いようのない孤独感に、思わず一歩、後ずさりそうになる自分を感じた。だが彼はすぐに奥歯を噛みしめ、自分の弱さを打ち消すようにその場に踏みとどまり、紫苑の瞳を正面から見据え返す。
「何者だ……あんたは?」
疑問と警戒心が混ざり合った蒼の声が、静寂の中に響く。
「なぜ俺の名前を知っている? それに……あんたの腰に巻かれているそのベルト……」
言葉を詰まらせる蒼に対し、紫苑はただ無表情のまま、彼の若々しい顔をじっと見つめ返しているだけで、何の説明も、言い訳も、語ろうとはしない。
五年という長く、果てしない時間の隔たりを超え、かつて伝説と呼ばれた男が地獄の底から這い上がり、未来を背負って立とうとする若者と、この場所で出会った。これは単なる偶然などではなく、見えない何者かの手によって紡がれた運命の糸が、再び結びつけられた瞬間に他ならなかった。
二人の間に張りつめた緊張感が走り、次にどちらが言葉を発するのか――そんな空気が流れたその時、
「キキキキキィーーーッ!!」
まるで空気そのものを引き裂くような、激しいタイヤの軋む音と、重厚なエンジンの唸り声が近づいてきた。
黒く塗りつぶされた重装甲車両が数台、砂煙を巻き上げながら現場に急行し、鋭いブレーキ音を立てて停止する。車両の扉が開かれるや否や、S.H.I.F.T.のマークを腕につけた実戦部隊員たちが、銃を構えながら次々と飛び出し、即座に周囲を包囲して警戒態勢を敷く。
「現場を確保せよ! 周辺にまだ敵が潜んでいないか、入念に探れ!」
部隊全体に指示を飛ばしていたのは、チームのリーダーである朔也だった。彼は最新鋭のアサルトライフルを構え、鋭い目つきで状況を把握しようと視線を巡らせる。
だが、戦場の中心に立つ二人の姿を認めた瞬間、朔也の体は完全に動きを停止し、まるでその場で石化してしまったかのように凍りついた。手にしていた銃口がだらりと地面へと向けられ、指先から力が抜け、武器が滑り落ちそうになるのも気にかけず、彼はただただ、紫苑の姿を見つめ続けた。
「……お前……」
信じられない、あり得ない、頭の中でその言葉が何度も反響する。朔也は口を大きく開き、呼吸することさえ忘れて紫苑を凝視し、やがて喉の奥から絞り出すような、叫び声にも似た言葉を発した。
「紫苑……! お前なのか……? 本当に、お前なのか!?」
その声には、抑えきれない驚きと混乱、そして五年間もの間、心の奥底に閉じ込めていた懐かしさと喜びが入り混じっていた。
彼は忘れるはずもなかった。同じ大学の同じ学部で学び、同じ時間を笑い合い、時には喧嘩もし、そしてあの悪夢のような事件を共に体験した、最も身近で、最も信頼できる親友。誰もが、そして何より朔也自身が、紫苑はあの日に命を落としたのだと信じていた。遺体さえ見つからなかったが、あの状況で生き残ることなど不可能だと、誰もが思い込んでいたのだ。
だが今、目の前にいる男は確かに紫苑だった。
次の瞬間、朔也はその喜びが一気に氷水で冷やされるのを感じた。彼の知っていたかつての紫苑は、明るく、優しく、誰に対しても誠実な青年だった。だが目の前に立つ男は、あまりにも変わり果て、傷つき、そして人間味の感じられない冷たい機械のような存在へと変貌していたのだ。
紫苑は朔也の叫びに対しても、眉一つ動かさず、ただゆっくりと視線を向けただけだった。その瞳の奥に、かすかに波紋のような感情が浮かんだように見えたのは、朔也の願望が見せた幻に過ぎなかったのかもしれない。
「朔也……か」
紫苑がぽつりと呟く。そのわずか一言が、彼が確かに過去の記憶を保っており、自分たちがかつて共有した時間が確かに存在していたことを証明していた。
周囲の隊員たちは、普段は冷静な指揮官である朔也が見せたあまりの変わりように呆然とし、銃を構えたままどうしてよいかわからず、ただその場に立ち尽くしている。
かつて同じ時代を生き、共に苦しんだ親友・朔也。
過去を背負い、姿形まで変えられ、伝説となって蘇った男・紫苑。
そして、その意志と力を受け継ぎ、新たな道を歩み始めた若き戦士・蒼。
運命という見えない糸に翻弄され、時には引き裂かれ、それでもなお前へと進もうとする三人の男たちが、瓦礫の散らばるこの戦場で、ついに一堂に会した。
これは新たな戦いの幕開けであり、長らく封印されていた過去の因縁が、今、解き放たれようとしている瞬間でもあった。夏の日差しが三人の影を長く、重く地面に落とし、次の時代への物語が、静かに、しかし確かに動き始めていた。
(続)