2019年編#3-4
柔らかな日差しが、街路樹を鮮やかに照らし出す休日の昼下がり。風は穏やかに吹き抜け、道行く人々の笑い声や店先から漂う食べ物の香りが、町全体を緩やかに包み込んでいた。美穂は、少しだけ慣れない足取りで人波に身を任せながら、目指す店の前に立つまで、何度も胸元で手を組み直し、深呼吸を繰り返していた。
目の前にある木製の看板には、くっきりとした文字で「かげやまフラワー」と書かれている。看板の周りには色とりどりの季節の花々が飾られ、道行く人の目を楽しませると同時に、近づくほどにふわりと甘く優しい香りが漂ってくる。美穂はもう一度ゆっくりと深呼吸をして、心の中で「大丈夫」と自分に言い聞かせ、ガラス戸をそっと押し開けた。
「いらっしゃいませ……って、あれ?」
ドアベルの涼やかな音が店内に響くと同時に、迎える声が上がった。一歩足を踏み入れた瞬間、花々の香りが一層濃くなり、まるで柔らかな布に包まれるように彼女の全身を包み込む。それまで張り詰めていた心の糸が、少しずつ解けていくような微かな安らぎが広がっていく。
カウンターの奥、作業台の前では、紺色のエプロンを身に着けた青年が手を動かしていた。花鋏で茎を整え、リボンを結ぶその姿は、昔の彼からは想像もつかないほどに熟練し、穏やかな空気をまとっている。美穂の姿を認めると、彼は手をふと止め、驚きと懐かしさが入り混じった笑顔を浮かべてゆっくりと顔を上げた。
「美穂! 久しぶりだな、元気にしてたか?」
「……悠真。うん、久しぶり」
彼の名前を口にすると、思い出が一気に押し寄せてくる。かつて同じ場所で過ごし、同じ困難に立ち向かい、同じ苦しみを分かち合ってきたかけがえのない存在。そんな悠真がこうして花屋を営み、穏やかで満ち足りた日常を送っている姿を目の当たりにするのは、美穂にとって何よりも嬉しく、同時に少しだけ胸の奥が熱くなる光景だった。
「随分と久しぶりだな。この店を開いてからも、なかなか顔を出してくれないから、少し心配してたんだぜ」
悠真は手元の鋏を作業台に置き、カウンターから出て来ると、美穂に向かって柔らかく笑いかけ、空いている丸椅子を勧めた。
「座ってゆっくり話せよ。お茶でも淹れるから」
「ありがとう……。でも、お客さんが来たらすぐに仕事に戻ってね。邪魔になっちゃ悪いから」
美穂が遠慮がちに言うと、悠真は「大丈夫、今はちょうど一段落ついたところだから」と手を振り、奥の給湯室へと向かった。彼の後ろ姿を見つめながら、美穂は言われた通りに椅子に腰を下ろし、店内を改めて見渡す。棚には色とりどりの花々が整然と並べられ、壁には美しい花の絵やドライフラワーが飾られ、どこを見ても温かみと生命力に満ちている。
「はい」
悠真が木製のトレイに載せたカップをテーブルに置くと、湯気が立ち上り、また一つ香りが増えた。美穂はカップを両手で包み込むように持ち、その温もりを手のひらから感じながら、口を開く。
「順調そうで安心した。さっきの作業も、すごく慣れた手つきだったね。」
「はは、そんな大したことじゃないさ。毎日花と向き合って、お客さんの要望に応えてるだけだよ。それに、俺にはこの仕事が性に合ってるみたいでな。忙しいけど、充実してる」
悠真はカップを置き、指でテーブルの縁を軽く叩きながら話し続ける。
「そっちはどうなんだ? 会社の方は随分と忙しくしてるのか?体を壊したりしてないか?」
「まあまあだよ。毎日、パソコンとにらめっこの日々で、目も肩も凝っちゃってね。それなりにやりがいはあるし、周りの人にも恵まれてるから、充実はしてるのかな……たぶん」
美穂は少しだけ瞳を伏せ、カップの中の液体を見つめながら答えた。
「それにしても悠真、すっかり花屋の主人って感じになっちゃって。昔の面影も残ってるけど、全然違う雰囲気になったね。とても似合ってるよ、心からそう思う」
「ありがとう。そう言ってもらえると、これまで頑張ってきた甲斐があるよ」
悠真は柔らかく微笑んだが、やがてその表情を少しだけ曇らせ、前のめりになるようにして美穂に問いかけた。
「……ところで、具合は大丈夫なのか?」
その言葉に、美穂の心の奥にわずかながら緊張が走った。悠真がこうして問いかけてくるのは、彼女が長年抱え続けている心の傷、PTSDのことを気遣ってくれているからに他ならなかった。かつての出来事が原因で、時折理由もなく不安に襲われ、過呼吸になったり、過去の光景が鮮明に蘇ってきたりすることを、悠真も朔也も知っていた。だからこそ美穂は、自分のそんな姿を見せて彼らを心配させまいと、出来る限り会わないように距離を置いていたのだ。
「うん、大丈夫。最近は薬も調子良く効いてるし、発作が起きることも少なくなってきたの。それに……悠真に会って話してたら、なんだか心がすっと軽くなってきたよ」
美穂が笑顔を作って答えると、悠真はようやく安心したように息をつき、また元の柔らかな表情に戻った。
店内には再び穏やかな沈黙が流れ、二人は昔話や近況報告など、他愛のない会話を続けた。その時間はまるで時間がゆっくりと流れているかのようで、美穂はこのまま時間が止まってしまえば良いのにとさえ願った。だが、いくら楽しい時間を過ごしていても、美穂の胸の奥底には、数日前に偶然目撃した光景が、鋭い棘のように深く突き刺さったまま、どうしても消えることはなかった。
――白銀の重装甲に身を包み、凄絶な戦いを繰り広げる一人の戦士の姿。そして、その仮面の下から垣間見えた瞳は、かつて彼女たちが知っていた優しくて繊細な面影など微塵もなく、冷徹で機械的な光を宿し、まるで人間ではない何かのように無感情だった……。
「……そうだ、今日はどうしたの? ただ俺に会いに来てくれただけじゃないだろう? 誰かに贈り物でもするのかい?」
悠真がにこやかな表情で問いかけると、美穂はわずかに視線を伏せ、テーブルの上に飾られていた一輪の白い花をじっと見つめた。
「うん、ちょっとね……。今日は、ちひろのお墓に行こうと思って。あの子、すごくお花が好きでね。いつも綺麗なお花を見ると目を輝かせていたから、何か心のこもった綺麗なものを持って行ってあげたくて……悠真のお店なら、きっと良いものが見つかると思ったの」
「そうか……」
悠真の表情が、美穂の言葉を聞いて柔らかく、そしてどこか遠い目をしたものへと変わる。二人の心の中には、言葉にしなくても自然と、五年前のあの悲しい出来事が浮かび上がっていた。突然の別れ、救えなかった後悔、そして永遠にこの世を去ってしまった最愛の友の存在。
美穂はこの時、心の中で激しく葛藤していた。今ここで、悠真に真実を伝えるべきなのだろうか。紫苑がまだ生きていたこと、そしてあまりにも変わり果てた姿で、今もなお過酷な戦いの中に身を置いていることを……。
もしかしたら、悠真は何かを知っているのかもしれない。あるいは、知らないからこそ今の穏やかな日々を送れているのかもしれない。美穂は口を開きかけては閉じ、言葉を探した。だが、結局彼女は最後まで、その言葉を口にすることはできなかった。
もしここで真実を話してしまえば、今ここにある悠真の穏やかな日常、彼がこの五年間かけて守り続け、築き上げてきた静かで温かな時間までもが、音を立てて崩れ去ってしまうような気がしたからだ。それはあまりにも残酷なことのように思えた。自分一人だけがこの重い秘密を抱え、この平和でかけがえのない時間を預かっていれば良い。美穂はそう自分に言い聞かせ、胸の内に押し込めることを選んだ。
「じゃあ、ちひろに贈る花束を俺に作らせてくれないか。白いカスミソウを中心に、少しだけバラを添えて……清楚で、だけど心に残るようなものを作るよ」
「……うん、お願いする。悠真が作ってくれるなら、ちひろもきっと喜んでくれると思う」
悠真は頷くと、慣れた手つきで花を選び、手際よく茎を整え、紐で結い上げていく。その作業する姿は真剣でありながらも、どこか慈しむような優しさに満ちていた。十分ほどの時間が経ち、悠真は美しく仕上がった花束を両手で差し出した。白い花々が太陽の光を受けて輝き、柔らかな香りが一層強く立ち上る。
「はい、出来上がり。どうだい?」
「……綺麗。本当に、ありがとう悠真」
美穂は丁寧にその花束を受け取り、胸元に抱える。まるでちひろの温もりがそこに宿っているかのような、そんな気がした。
「じゃあ、行ってくるね。またいつか、ここに来ても良い?」
「当たり前だろ。いつでも来いよ。待ってるから」
悠真は笑顔で彼女を送り出す。美穂は一歩一歩ゆっくりと店を出て、再び日差しの降り注ぐ通りへと戻っていく。ガラス戸が閉まる直前、彼女はもう一度悠真の方を振り返り、彼はまた手を振ってくれていた。
美穂の姿が店先から遠ざかり、日差しの中へと消えていくまで、悠真は店の戸口に立ったまま、物思いに耽るようにその背中を見送り続けていた。風が彼の髪をなびかせ、店先の花々をそっと揺らした。
「影山さん、影山さん!」
そこへ、奥の作業場から元気な声が響き、アルバイトの少女である遥が走ってくる。彼女は興味津々といった様子で瞳を輝かせ、悠真の腕を小さな手でつついた。
「今の綺麗な人、誰なんですか~? すごく雰囲気の良い人でしたね! 知り合いなんですか? もしかして……彼女さんとか!? そうなんでしょう!?」
遥は一気にまくし立てるように問いかけ、期待に満ちた眼差しを悠真に向ける。
「こらこら、仕事の手を止めちゃダメだぞ。お客さんが来たらどうするんだ」
悠真は苦笑いを浮かべながら、手に持っていた剪定バサミを軽く振ってみせる。
「いや、そんなんじゃないよ。ただ……昔からの、大切な親友だよ。俺にとっても、あいつにとってもね」
悠真の視線は、美穂が消えていった通りの彼方、さらにその上に広がる青空へと向けられていた。その瞳の先には、もうこの世にはいないはずの二人の親友――ちひろと、そして今もどこかで生きているかもしれない紫苑の姿を追いかけるかのようでもあった。その横顔には、普段の明るさからは想像もつかない、深い寂しさと悲しみが一瞬だけよぎっていた。
遥はそんな悠真の横顔の変化にはっと気づき、それ以上は何も聞くことができず、ただ黙って「はい」と小さく答えると、急いで作業台の方へと戻っていくのだった。
それからしばらくの時間が過ぎ、美穂は町外れにある小高い丘の上に作られた霊園へと足を運んでいた。
辺りは木々の緑に囲まれ、鳥のさえずりが響き渡り、町の喧騒が嘘のように静かで、穏やかな空気が流れている区画。そこに一基の墓石が、ひっそりと佇んでいた。
美穂は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ゆっくりとその墓石の前にしゃがみ込み、手に持っていた花束を丁寧に供えた。供えられたばかりの瑞々しい花々が、午後の柔らかな風にそっと揺れ、ほのかな清らかな香りを周囲に漂わせる。
美穂は冷たい石の表面にそっと手を触れ、まるでそこにちひろの魂が宿り、自分の言葉を聞いてくれているかのように感じながら、ゆっくりと語りかけ始めた。
「ちひろ……。聞こえる? ちひろの好きなお花、持ってきたよ。悠真が心を込めて作ってくれたんだよ」
一度言葉を区切り、美穂はゆっくりと深呼吸をする。だが、次の言葉を口にするのには、想像以上の勇気が必要だった。喉の奥が詰まり、胸が締め付けられるように痛み、息が苦しくなる。それでも彼女は、この場所でだけは真実を告げなければならないような気がして、震える声で続けた。
「……ちひろ。実はね、紫苑が、生きてたんだ」
その瞬間、風が少し強く吹き抜け、供えられた花びらがはらはらと舞い上がったように見えた。
「この間、偶然、戦ってるところを見ちゃったの。遠くからだったけど、間違えるはずなんてない。……あれは絶対に紫苑だったの」
美穂の脳裏には、再び数日前の光景が鮮明に蘇る。戦場に立つ雄々しい姿、その仮面の下に隠された幾多の傷跡、そして何よりも忘れられないのは、機械のような赤い光を宿した冷徹な瞳……。
「……でもね、全然違う人みたいだったの。私が知ってる、あの優しくて、いつも静かで、私たちのことを陰から支えてくれていた紫苑じゃなかったんだ。まるで戦うためだけに存在している、冷たい何かになってしまったみたいで……」
再会できたという微かな喜びよりも、五年という歳月の残酷さと、親友の変わり果ててしまった姿を目の当たりにした絶望感が、美穂の心を重く苛み続け、彼女の言葉を一層重く、悲しいものにしていく。
「ちひろ……。そっちで一人ぼっちじゃない? 寂しくない? 私は時々、どうしようもなく寂しくて、怖くて……どうしたら良いのか分からなくなるの」
語りかける声は、次第に湿り気を帯び、わずかずつ震え始める。視界が滲み、墓石の文字がぼやけて見えた。
「どうしてだろうね……。なんで、私じゃなかったんだろう……。私が身代わりになれていれば、今頃ちひろはここにいて、笑って、そして紫苑とも笑い合っていられたのかもしれないのに……」
言葉を詰まらせ、美穂は両手で顔を覆う。こみ上げてくる感情を抑えることができず、肩が小さく波打つように震える。
五年前のあの日から、彼女の時間だけがまるで止まったままだった。生き残ってしまったという罪悪感、自分だけが平和な日常を送っているという後ろめたさ、救えなかった無力感……それらが暗い影となって心の奥深くに巣食い、彼女を今もなお苦しめ続けていた。悠真が立派に生きている姿を見て嬉しいと思う反面、自分だけが置いてけぼりにされているような気分になることもあった。
「ちひろ……! 会いたいよ……ちひろ……!」
もう二度と返事の返ってくることのない冷たい石碑に向かって、美穂は声を殺し、ただ泣き続けた。彼女の零した涙は乾いた地面に吸い込まれて染み込み、供えられた花びらを一層鮮やかに、そして静かに震わせていた。
見上げれば、青空はどこまでも高く、雲一つないほどに澄み渡り、まるでこの世の悲しみなど何も知らないかのような、残酷なまでの明るさで辺り一面を照らしている。風が通り過ぎ、木々の葉擦れの音だけが、いつまでもその場に響き続けていた。
この広い街のどこかには、変わり果てた姿ながらも確かに紫苑が生きていて、戦う朔也がいて、花屋には昔のままの優しい心を持った悠真がいて、そしてこの墓石の下には永遠の眠りについたちひろがいる。
バラバラに引き裂かれてしまった絆の残骸を、ただ一人胸の内に抱えたまま、美穂はただ、誰にも届くはずのない叫びを漏らし続けるしかなかった。
(続)