2019年編#3-5
闇がすべてを呑み込んだような、巨大な廃棄施設。
かつては人の営みで賑わっていたはずの空間は、今では時が完全に止まり、湿りきった空気とコンクリートが長い年月を経て染み出す腐敗のような、重く濁った臭いがあらゆる隙間に充満していた。天井からは蜘蛛の巣が幾重にも垂れ下がり、わずかに崩れた壁の亀裂からは、雑草がこの場所の死を嘲笑うかのように、力強く生え伸びている。壁面の塗装ははがれ落ち、鉄骨は錆びて赤茶けた染みをつくり、風が通り抜けるたびに低いうめき声のような音が廊下を這っていく。
紫苑と蒼の二人は、手にした懐中電灯の細い光だけを頼りに、足元に転がるコンクリートの破片や木くず、割れたガラスの破片を注意深く避けながら、この施設の深部へとゆっくりと歩みを進めていた。光の輪が照らす範囲はわずか数メートルで、その先は濃い闇が待ち構え、まるでこちらの存在をじっと観察しているかのようだった。
数日前、S.H.I.F.T.本部の無機質な会議室で、紫苑が提示した一枚のデータファイルが、この任務の始まりだった。それは彼が単独で敵地へ潜入し、銃声と警戒網の合間を縫って命を懸け、解析を続けた末に手に入れた、「刈谷派」と呼ばれる非合法研究チームが長年にわたって隠蔽し続けてきたデータベースの断片だった。
「刈谷義孝の足取り、そしてあの男が今もなお目論んでいる計画の全容……その核心へと繋がる決定的な手がかりは、この廃墟に残されている」
紫苑が指し示したディスプレイの地図上に浮かんだのは、市街地の喧騒から遠く離れた外縁部、人の往来もなく、草木が生い茂って長らく忘れ去られた地域に、ぽつんと佇む古い施設の所在地だった。周囲には道路標識もなく、衛星写真でも建物の輪郭が曖昧になるほど、自然に飲み込まれかかっている場所だ。
「ここは……かつて、地域の孤児院として使われていた場所だ」
紫苑の静かな言葉に、その場にいた朔也が怪訝そうに眉を深くひそめた。指先で机を叩きながら、彼は疑問をぶつける。
「孤児院……? ロイミュードの研究と、親を失った子供たちを預かる福祉施設に、一体どんな接点があるんだ? まさか偶然の場所だとでも言うのか?」
朔也の率直な問いかけに、紫苑はすぐに答えることができなかった。彼はただ、遠い昔の記憶の底を探るような、何もない虚空を見つめる遠い目をしていた。彼の胸の奥には、今でも消えることのないあの日々の感触が、まだ生々しく残っていた。
かつて、自分が父親に導かれるままにこの施設に預けられ、同じように悲しみや不安を抱えた子供たちと共に生活を送っていた日々。質素ながらも暖かい食事、小さな遊戯室、夜になると並んだベッドで語り合った他愛もない夢。そこには、自分と同い年で、共に孤独という名の敵と戦う頼れる「戦友」だった少年が伴にいた。
——大悟。
穏やかで正義感に満ちていたはずの少年が、後に「ロイミュードの王」と呼ばれ、人類との境界線を引き、世界に大きな混乱と反乱を引き起こす存在へと変貌したのは、本当に単なる偶然などではなかったのだ。紫苑は長い間、自分に言い聞かせてきた。だが今、確信が彼の心を締め付ける。あるいはこの孤児院という看板の下にある場所自体が、最初から刈谷義孝の計画のために用意された「隠された実験場」に過ぎなかったのかもしれない。子供たちの笑い声は、ただ研究を隠すためのカモフラージュに過ぎなかったのだと。
廃墟の内部は予想以上に広く、迷路のように曲がりくねった廊下が四方へと伸びている。一歩進むごとに乾いた埃が舞い上がり、懐中電灯の光がその塵を浮かび上がらせ、まるで時の流れが視覚化されたかのようだ。空気は重く、呼吸するたびに喉の奥に埃が張り付く感覚があった。
一見すると、ここがただ老朽化し、時代に取り残された福祉施設であることを示す痕跡ばかりが目についた。子供たちが描いたと思われる色とりどりの絵が、煤と汚れにまみれた壁にかすかな輪郭を残し、壊れた木製の机や背もたれの折れたイスが、無造作に積まれたまま放置されている。読みかけの絵本の破片、割れたおもちゃ、かつては明るかっただろう窓枠は板で塞がれ、外界の光を完全に遮断していた。
だが紫苑は、過去の自分の記憶を手掛かりに、何かを探し求めるように、あちこちの壁の継ぎ目や床のタイル、扉の位置を丹念に調べながら進んでいく。蒼もまた、自分の父である刈谷義孝の行方と、その行いの真相を追うことで、自分自身の存在意義やルーツを知ろうと、緊張した面持ちで彼の後を追っていた。彼の手は軽く震え、懐中電灯の光が不安定に揺れる。父が行ったとされる研究の闇が、次第に自分にも降りかかってくるような予感がしていた。
そして二人が施設の最奥部へとたどり着いたとき、紫苑の足がぴたりと止まった。そこはかつて洗濯室として使われていたらしい区画で、大きな金属製の水槽が錆びて転がり、洗濯用の棚は倒れて埃に埋もれている。だが紫苑は、さらにその裏手、外壁と内壁の間の狭い通路へと回り込んだ。
「……あった」
彼が指し示す壁の一部分だけが、周囲の灰色のコンクリートとは明らかに色も質感も異なり、継ぎ目にはわずかな隙間が光の筋となって見えていた。長い年月が経っているにもかかわらず、そのラインは直線的で幾何学的であり、自然の崩壊で生まれるものではない、明らかに人の手によって作られた不自然な境界線だった。
紫苑が壁面に両手をつき、体重をかけて力強く押し込むと、軋みと鈍い振動が足元に伝わり、重い油の切れた機械音を立てながら壁がゆっくりと横にスライドした。開いた隙間から冷たい風が吹き出し、やがて人一人がやっと通れるほどの、隠された空間の入り口が姿を現した。
「こんなところに……壁の裏に、扉が隠されていたのか?」
蒼は息を呑み、懐中電灯をその開口部へと向ける。扉の先には、さらに地下深くへと続く、一段一段が冷たく固いコンクリート製の階段が、闇の中へと沈んでいるように伸びていた。そこからは地上の淀んだ空気とはまったく異なる、肌を刺すような冷たさと、鼻の奥に突き刺さる刺激臭——薬品のような、消毒のような、それでいて何か生々しいものが混ざった不快な臭いが、はっきりと立ち上ってくる。
二人は黙って顔を見合わせた。紫苑の目には過去への怒りと覚悟が、蒼の目には真実への恐れと探究心が浮かんでいた。互いに軽く頷き合い、腕で口を塞ぎながらその暗く長い階段をゆっくりと降り始めた。一歩ごとに、彼らは過去の闇の核心へと近づいていくのを感じていた。
階段を降りきり、前方に立つ分厚い鉄製の扉の取っ手に手をかけた瞬間、錆びついた蝶番が悲鳴のような音を上げて扉が開いた。その瞬間、蒼は自分の目が信じられなくなり、足を踏み出すことを一瞬ためらった。
目の前に広がっていたのは、およそ孤児院の地下に存在するなどとは誰も想像もつかない、冷徹なまでの「白」で統一された空間だった。
まるで未来的な病院の手術室のように無機質で、壁も床も天井もすべてが光沢のある白い塗料で塗られ、至る所にステンレス製の金属棚や、大きなコンピューター端末、冷却装置、配管が張り巡らされている。長い年月が経過し、地上の施設が朽ち果てているにもかかわらず、この地下空間だけは別の時間軸にあるかのようだった。空気は乾ききって清浄に保たれ、腐敗の臭いは一切感じられない。だがその清潔さが、逆に何の感情も持たない冷酷さを示しているように二人には映った。
「……なんだ、ここは……一体、何の場所なんだ」
蒼の声は思わず震え、部屋の壁に反響して小さく消えた。彼は懐中電灯をゆっくりと回し、室内全体を照らし出す。
破損して画面が割れた古いモニターの残骸、配線がむき出しになった錆びついたサーバーラック、そして床のあちこちに散乱する無数の使用済み注射針、蓋の開いた試験管、血液の痕跡がわずかに残る採取器具——それらすべてが、この場所で長期間にわたって、綿密かつ大規模な何らかの医療的、あるいは生物学的な実験が組織的に行われていたことを雄弁に語っていた。
紫苑は無言で室内の中央へと進み、壁一面に棚に整理され、あるいはそのまま貼られたり積まれたりした大量の記録用紙やグラフ、データシートに目を向けた。ラベルには日付、管理番号、対象者コードが記されている。彼はその中から一枚を取り上げ、文字を追い始めた。
次の瞬間、後ろから覗き込んだ蒼は、全身の血が足元から凍りついていくような感覚を覚えた。
そこに書かれていたのは、対象者の生年月日や身長、体重、血液型といった一般的な健康データに混じって、幼い子供たちの日々の体温変化、心拍数、血中成分の推移、脳波パターン、そして「生体反応レベル」「薬剤耐性値」「遺伝子適合値」「ロイミュード因子適合率」といった、専門的であると同時に、子供に対して用いるにはあまりに不気味で理解しがたい用語が並べられていた。
しかも、記録の最上部に記載された名前の欄には、この孤児院で生活していた子供たちの実名や、施設内で使われていた愛称が次々と記載されていた。
「適合率……?」
蒼は手に取った一枚の記録用紙を、指の骨が白く浮き出るほど、ぎりぎりと音を立てるように強く握りしめた。紙が皺になり、端が破れても力が抜けない。
「親父は……刈谷義孝は……こんな隠れた部屋で、一体何を……! 親もなく、自分の居場所を求めていただけの無抵抗な子供たちを相手に、いったいどんな酷いことを繰り返していたっていうんだよ……!」
怒りと悲しみ、そして自分の血を引く父親に対する強い嫌悪感と、自身もその罪の一部を受け継いでいるのではないかという恐怖がないまぜになり、蒼の声は慄きに震え、最後は喉の奥で詰まった。彼は自分がこのデータの中に、自分自身の出自に関する記録を見つけてしまうことを、心のどこかで恐れていた。
紫苑は静かに蒼の肩に手を置き、震える体を支えるように力を込めた。そして再び室内全体を冷ややかに見渡しながら、低く重い、それでいてはっきりとした声で答えた。その声には、かつて同じように不安な夜を過ごし、知らない間に薬を投与され、検査を受けていた自分自身への深い絶望と、過去の真実を暴き、この連鎖を断ち切らなければならないという者の冷静さが混ざり合っていた。
「……見ればすぐに分かるだろ、蒼。ここは最初から福祉施設などではなかった。子供たちに愛情を与える場所でも、安心を与える場所でもない。この施設全体が、刈谷の恐ろしい研究を隠し、進めるために用意された『箱』に過ぎなかったんだ」
紫苑の前髪が少し動き、彼の右目がゆっくりと闇の中で輝き始める。眼球の奥に埋め込まれた補助機構が、機械的な軋み音を上げながら起動し、濃い闇の中で鈍く、それでいて鮮やかな赤色の光を放った。
「刈谷は、親友であった俺の父をも利用し、その息子である俺さえも例外なく実験台にした男だ。彼にとって、孤独で行き場のない子供たちは、その魂も心も体も、ただロイミュードという新しい兵器、新しい生命体を作り出すための材料にしか見えていなかったんだ……適合率が高ければ利用し、低ければ捨てる。それだけの価値しかなかった」
白い壁に囲まれた無機質な研究室は、二人にとってまるでこの世に築かれた地獄のように感じられた。過去の悲鳴や苦しみ、無邪気だった夢がこの空間に閉じ込められ、冷たい記録となって残されているようだった。
二人はその場に立ち尽くし、息を殺すようにして、刈谷義孝という科学者の底知れぬ悪意と、狂気の研究の痕跡をただ黙って見つめ続けていた。この事実は、過去だけでなく、現在のロイミュードとの戦いの根源にまで繋がっている。紫苑は心に誓った。この闇の記録を決して無駄にはしない。真実を明らかにし、この場所で失われた子供たちの未来のために、そして今なお続く計画を阻止するために、自分たちはこれからさらに厳しい道を進まなければならないのだ、と。
(続)