2019年編#3-6
地下施設の空気は重く、澱んでいた。長い年月、外の光と隔絶されたこの空間には、古い紙と錆びた金属、そして言い知れぬ冷たさが混ざり合った独特の臭いが漂っている。蒼は足元に注意を払いながら、周囲の通路と部屋の出入り口を目視で確認し、安全に問題がないことを何度も確かめた上で、耳元に固定した通信機へと口を近づけた。
「こちら蒼。状況を報告します。」
電波のわずかなノイズを挟みながら、本部で待機する三原の応答が返ってくる。蒼は手元に拾い上げた実験記録の断片を一瞥し、声を落ち着かせて続けた。
「調査の結果、この孤児院跡の地下には、予想をはるかに超える規模の研究施設が存在していました。壁際には無数の棚が設置され、過去の実験記録や未整理のデータ、それに専門的な機材が大量に残されています。規模から判断すると、単なる臨床実験の場ではなく、何か体系立てられた研究が長期にわたって行われていた可能性が極めて高い」
少し間を置き、散乱する資料の山を見渡す蒼の眉間には、自然と深い皺が刻まれる。書かれている内容の断片から浮かび上がる光景は、想像するだけで胸の奥が締め付けられるような不快感を伴っていた。
「至急、調査班の派遣を要請します。人員と装備は十分な規模でお願いします」
『状況は理解した。だがそこまで深刻なのか? 』
三原の問いに、蒼は一度唇を噛み、はっきりとした口調で答えた。
「……ええ、念のために強調しておきます。現場は単なる廃墟や資料の保管場所ではなく、極めて重要かつ危険度の高い事案です。調査班には、最大限の装備を整え、万全の警戒態勢で現地に向かうよう伝えてください。何が潜んでいるか、まだ全容は掴めていません」
通信の向こうで三原が短く息を飲む気配が伝わる。やがて、いつもの冷静さの中に少しの厳しさを込めた声が届いた。
『了解。すぐに必要な人員と資機材を手配する。だが蒼、無茶だけはするなよ。』
「了解です」
蒼がそう答えて通信を切断すると、静寂が再び地下を支配する。彼はゆっくりと立ち上がり、この場所に漂う異質な雰囲気を改めて全身で感じ取った。紙に記された数字、図面に描かれた装置の形、それらが示すのは「生命」を扱うことへの敬意を完全に失った、狂気に満ちた試行錯誤の軌跡だった。
「蒼、そろそろここを離れた方がいい。いつまでも長居する場所じゃない」
少し離れた場所で周囲を警戒していた紫苑が、静かに声をかける。蒼は頷き、「ああ」と短く応じて彼のもとへと歩み寄った。二人は来た道を戻り、忌まわしい過去の痕跡が詰まったこの空間を後にしようと、出口へ向かって歩き始めた。
だが、地下通路を抜け、外光がわずかに差し込む出口のすぐそばまで来たその瞬間——
それまで完全な静寂だった闇の奥深くから、何かが動き出す兆しが伝わってきた。金属の部品同士が擦れ合い、歯車が重く軋みを上げるような、無機質で冷たい音。最初は低く微かだったその響きは、時間と共に徐々に周波数を上げ、音量を増しながら、二人の周囲全体を包み込むように広がっていく。
「何だ……!?」
蒼の全身の神経が一気に研ぎ澄まされる。彼は懐中電灯を強く握り、光源をまっすぐ音の発生源へと向けた。光の円錐が闇を切り裂くように伸び、その先に浮かび上がった光景に、二人の呼吸が一瞬止まった。
光の中から、まるで闇そのものが実体を持って浮かび上がってきたかのように、複数の異形の影が姿を現す。硬い外殻と不自然な手足の曲がり方、生体と機械が奇妙に融合したような輪郭——ロイミュードだ。彼らは這うような低い姿勢で、まるで地面に吸い付くように音もなく進み、二人が出口へ向かう唯一の通路を完全に塞いでしまった。
だが、それだけでは終わらなかった。
這い出てきたロイミュードの群れが自然と左右に分かれ、まるで道を開くようにして空間が生まれると、その中心からただ一人の男がゆっくりと前へと歩み出てきた。
全身を厚手の黒いロングコートで覆い、フードを深く目の上までかぶることで、顔立ちはおろか、わずかな肌の色や表情の変化さえも完全に隠されている。足音もなく立つその姿は、周囲の空気から自分の存在を消し去るかのような、異常なまでの静寂を纏っていた。まるで生身の人間ではなく、長い年月を経て朽ちた死者が、あるいは悪意だけが形を得てこの世に現れたかのような、この世のものとは思えない不気味な雰囲気が、男の周囲を渦巻いている。
男は何も言わず、フードの奥から蒼と紫苑の姿をじっと見つめているようだった。視線を感じるだけで背筋に冷たい汗が伝うような、圧倒的な威圧感。やがて、彼はゆっくりと、まるで時間がゆっくりと流れているかのような動作で左腕を上げ、手首に巻きつけるように装着されたブレス型のデバイスへと指を伸ばした。
蒼と紫苑は同時に目を凝らす。そのデバイスに装填されていたものは、二人が使用する「シフトカー」と外形こそ酷似しているものの、その表面には禍々しい漆黒の色彩が塗り込められ、わずかな光でも鈍く不吉な輝きを放っていた。正規品とは明らかに設計思想の異なる、まったく別の代物だった。
男はそれを指先でつまみ、無造作な動作でスライドさせる。
次の瞬間——
低く重い電子音が闇に響き渡ると同時に、男の全身が、燃えるような黒い霧に一瞬で包み込まれた。霧は渦を巻きながら膨らみ、周囲の空気は熱と冷気が同時に存在するかのように歪み、立っているだけで圧迫されるほどの重いエネルギーが周囲に放たれる。蒼たちはその力の濃密さに、まるで見えない壁に体を押しつけられるような衝撃を感じ、無意識のうちに一歩後退した。
数十秒も経たないうちに黒い霧が晴れると、そこに立っていたのは、二人がこれまで遭遇したどの敵、どのライダーともまったく異なる、歪な異形の存在だった。
ライダーが身にまとうはずの装甲が、本来の形を保つことなく無理やり引き剥がされ、ロイミュード特有の異形な肉体の上へと、強引に融合させられているかのような不安定なシルエット。ライダーシステムが持つ制御された力と、ロイミュードの持つ凶暴で野生的な力が、均衡を失ったまま混ざり合い、まさに最悪の形で一つの体に具現化されたような存在だ。どこかに人間の理屈が残っているようでありながら、その動きと放つ気配は完全に破壊と殺戮に向けられている。
「くっ、なんだこいつは……!」
蒼は言葉を詰まらせながら、目の前の存在を凝視する。肌が粟立つような危機感が全身を走り抜ける。
「これまで戦ってきたロイミュードの群れとも、幹部ともまるで違う....」
蒼が低い声で呟く。
「どうやら口封じのようだな」
敵の出現の意味を瞬時に理解した蒼は、懐から変身ベルトを取り出して腰へと固定し、手の中に持ったシフトカーを力強く握り締める。紫苑も同じように装備を整え、二人の間に緊張感が一気に高まった。
「行くぞ、蒼!」
「ああ!」
二人が同時にシフトカーをベルトとブレスデバイスへと装填すると、高い駆動音が空間に響き渡った。
『MACHINE SET!』
蒼の全身が、まるで炉の中で赤熱する鉄のような蒼い炎に包み込まれる。炎は彼の体を守る装甲へと形を変え、機械の駆動音と共に重ねられていく。変身が完了した瞬間、彼は仮面ライダーインフェルナスとなり、シフトブレードを力強く一閃させた。
「行く!」
蒼は地面を強く蹴り、まるで炎そのものが飛翔するかのような勢いで敵へと一直線に斬りかかった。渾身の力を込めた一撃は、敵の体に確実に届く軌道を描いていた。
だが——
刃が敵の表面にわずかに触れた瞬間、見えない黒いエネルギーの壁が瞬時に展開され、激しい火花を散らしながら、蒼の全力の斬撃を軽々と弾き返した。反動は予想以上に大きく、蒼は体勢を大きく崩し、慌てて後方へと飛び退いて距離を取ることを余儀なくされた。
「この硬さ……この力は……」
インフェルナスの視界に映るデータ解析の数値が、危険値を示す赤色へと変化していく。蒼は驚きを隠せないまま声を上げた。
「幹部クラスのロイミュードにも引けを取らないのか!? 」
敵の動きには野生的な荒々しさの中に、明らかに計算された戦術が含まれていた。不用意な攻撃は逆に隙を突かれるだけだ。
「一気に畳み掛けて動きを封じるぞ! 油断するな、蒼!」
紫苑は冷静に状況を把握し、すぐさま次の手を打つ。彼は現在装着しているシフトカーをブレスから抜き取ると、上空から瞬く間に飛来してきたオレンジ色のシフトカーを、迷いなく装置へと押し込んだ。
『TYPE AEGIS!』
重厚で低い電子音が地下空間に響き渡ると、紫苑の周囲には厚みのある装甲板が重なるように出現した。オレンジ色に輝く、防御と打撃力に特化した仮面ライダーGT-X タイプイージスへとフォームチェンジを果たした。この形態は最も重量のあるフォームであり、正面からの力勝負において最大の能力を発揮する。
紫苑は背中に収納されていた長柄の武器、イージスシャフトを力強く引き抜くと、敵が次に放ってくる猛攻を真正面から受け止めるため、体を低く構えて待ち受けた。
次の瞬間、漆黒の融合体が地面を砕くような勢いで突進してくる。両腕に濃縮されたエネルギーを纏い、体当たりと同時に打撃を放とうとするその動きに、紫苑はシャフトを両手で支え、正面からぶつかり合うことで衝撃を受け止めた。
ガラガラガラッ!!
金属同士が激しく衝突する耳をつんざくような音が地下空間全体に鳴り響き、衝突点からは高熱の火花が雨のように四方へと降り注ぐ。重量級同士の力比べは一瞬、均衡状態を生み出したが、紫苑は敵の力の入り方と流れを読み取る。そして自身の体軸をわずかにずらすことで、正面から受ける衝撃を逃し、敵の力を空回りさせるように攻撃を巧みにいなしてみせた。
「今だ、蒼!」
紫苑はイージスシャフトの先端へ再びシフトカーを装填し、内部のエネルギー回路を最大限に起動させて充填を開始する。同時に蒼もまた、ベルトのバックル部にシフトブレードを戻し、装填してあるシフトカーを全身の力を込めて奥深くまで押し込んだ。
『FULL THROTTLE!』
『LIMIT RELEASE!』
二つのシステムが最大出力へと到達したことを告げる、重々しくも力強い電子音が互いに重なり合い、空間の振動となって伝わる。
紫苑のイージスシャフトには、黄金色の高密度エネルギーが伸びて輝きを増した。彼はそれを力強く横に薙ぎ払い、衝撃波を伴った斬撃を敵の足元へと放つ。漆黒の敵は防御姿勢を取ろうと反応するが、一瞬の遅れが致命的な隙を生み出す。
その瞬間を逃さず、蒼がまるで炎の塊そのものとなって敵の懐へと飛び込んでいく。蒼炎を纏った彼の右足には、システムの限界まで高められたエネルギーが集中し、必殺の飛び蹴りへと変わる。
「これで終わりだ!」
蒼の蹴りが、敵の胴体の中心部へと正確に叩き込まれた。
「ぐああああっ!!」
衝撃は漆黒の体全体に浸透し、装甲の内側から急激に膨張する力が亀裂を生み出す。特に左腕部分には最も大きなダメージが集中し、変身システムの核とも言えるデバイスが内圧に耐え切れず、砕け散って金属片となり周囲へと飛び散った。
システムの根幹を失った漆黒の体からは、一気に制御できなくなった力が抜け出していく。黒い霧が再び噴き出すと、不安定だった融合体の形は崩れ落ち、あっという間に元の黒いコートを着た人間の姿へと戻った。男は苦痛に顔を激しく歪め、体を支えることもままならず、地面へと重く膝をついた。
だが、追撃を受ける前に倒れ込むことはなかった。彼は最後まで抵抗するかのように、素早く体を反転させ、フードの奥から二人を睨みつけると、まるで最初に出現した時と同じように、自身の体を黒い靄で包み込む。わずか数秒のうちに姿は闇の中へと溶け込み、音も痕跡も残さずに完全に消え去ってしまった。
「……逃げたか」
蒼は警戒を解かずに周囲を探りながら、低く息を吐く。
「致命傷を与えることはできたが、生命活動が停止するほどのダメージまでは至らなかったようだ。まだ生きている」
紫苑は変身を解除し、元の姿へと戻ると、静かに敵が逃げ去った闇の彼方を見つめながら、冷静な口調で状況をまとめた。
二人が出口を出ると、三原が手配した調査班の声や足音が近づいてくるのが聞こえてきた。助けが来るという事実は、通常であれば安心感を与えるはずだった。
だが、二人の心にはまったく晴れやかな感情は湧いてこなかった。
地下の研究室で目にした光景が、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。幼い子供たちが拘束されていた痕跡、彼らの体に向けられていた数え切れない注射針、そして何百枚にも及ぶ記録用紙に書かれた「適合率」という冷たい文字。さらには、今目の前で戦った、ライダーの力とロイミュードの技術が結託した悪夢のような存在。
この孤児院跡は、単に過去の悲劇の現場であるだけではない。ここは、刈谷義孝という男が長い年月をかけて撒き散らした、より根深く、より大きな悪意の種が育てられた苗床そのものであったのだ。その事実を強く確信するたび、蒼の胸の奥には冷たい怒りと悲しみが渦巻いた。
彼はコンクリートの冷たい壁に手をつき、口の中で押し殺すような低い声で、名前を呼んだ。
「親父……いや、刈谷義孝……」
一度、深く息を吸い込み、吐き出す。
「あんたは一体、どこまで狂っていたんだ……?」
蒼の震えるような囁きは、誰もいない冷たい空間へと虚しく吸い込まれ、やがて微かな反響も残さずに消えていくのだった。
この闇の中に眠る悪意が、今後どのような形で世界に影響を及ぼすのか——二人にはまだ、その全容を想像することすらできなかった。
#3完