長年の研究の末、魔法使いアリス・マーガトロイドは、自分と全く同じ外見・記憶・能力を持つ「完全な自律人形」を完成させる。
だが、寸分違わぬ自分の存在に自己唯一性が揺らぎ始める

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孤独なる調律

 

 魔法の森の夜は、世界のどの場所よりも深く、そして重い。

 年中立ち込める奇妙な霧と、巨大な菌類が放つ微かな燐光。それらが混ざり合うこの森の最奥に、アリス・マーガトロイドの自宅はひっそりと佇んでいた。湿った土の匂いと、時折窓を狂おしく叩く夜風の音だけが、彼女の静寂を支配する伴奏だった。

 アリスは、一見するとどこまでも冷静で、冷徹なまでのクールさを崩さない少女だ。感情を大きく表に出すことは滅多になく、他者とは常に一定の、測り損ねない距離を保ち続けている。しかし、その本質は「冷淡」とは程遠い。人付き合いが少しばかり不器用なだけで、根は驚くほどにお人好しであり、困っている者を文句を言いながらも放っておけない優しさを持っている。だからこそ彼女は、他者との摩擦を避けるように、一人この薄暗い森で研究に没頭する職人の道を選んだのだ。

 完璧主義者。職人気質。そして、孤独な努力家。

 それがアリスという魔法使いを形作る輪郭だった。

 彼女の指先が、何千、何万回と繰り返されてきた手慣れた動作で、細い銀の糸を操る。机の上には、幾何学的な紋様が描かれた魔導書がうず高く積み上げられ、怪しげな薬品の香りが部屋を満たしていた。アリスが追い求める究極の魔法――それは、単に糸で操るだけの人形劇ではない。

 自ら考え、自ら学び、自ら成長する、完全に独立した「生命」としての自律人形。

 誰の手も借りず、誰の意志にも依存せず、ただ一つの個として成立する存在を創り上げること。それこそが、彼女が人生の全てを賭して追い続けてきた、果てなき夢だった。

 だが、その夜、机の向こう側に座る「それ」を前にして、アリスは生涯で初めて、己の手が小刻みに震えていることに気がついた。

 

「……成功、ね」

 

 部屋の静寂を破ったのは、アリス自身の声だった。

 いや、正確には違った。

 

「……成功、ね」

 

 一秒の狂いもなく、全く同じタイミングで、全く同じ音位と、全く同じ息遣いで、対面に座る少女が言葉を返したのだ。

 アリスは息を呑み、目の前の存在を凝視した。

 そこにいたのは、自分だった。

 ウェーブがかった美しい金髪、繊細に編み込まれたカチューシャ、そして知性と冷徹さを宿した、どこか見下ろすような翡翠色の瞳。身に纏う青と赤の衣装の皺ひとつにいたるまで、それはアリス・マーガトロイドそのものだった。

 今回の研究において、アリスはひとつの極端なアプローチを試みた。それは「不老不死」にも似た永劫の存在を目指し、自分と同等の性能、同等の知識、そして同等の魂の波長を持つ、自身と「完全同質」の自律人形を創り出すことだった。

 

「名前を、名乗りなさい」

 

 アリスが冷徹さを意識して問いかける。

 

「アリス・マーガトロイド」

 

 人形は淀みなく答えた。その声の響きは、アリスがいつも自らの耳で聞いている自分の声そのものだった。

 

「得意な魔法の系統は?」

「七色の魔法。光を屈折させ、熱を操り、無数の人形を指揮下に置く戦術魔法」

「今、あなたが最も忌々しいと思っている人物は?」

「……霧雨魔理沙。いつも挨拶もなしに窓から不法侵入してくる、無礼極まりない泥棒猫」

 

 アリスの口元が、わずかに苦々しく歪む。人形の口元も、全く同時に、同じ角度で苦々しく歪んだ。

 記憶、知識、魔力の質、思考の癖、そして他者への感情。その全てが完全に継承されていた。

 これは、これまでの操り人形とは一線を画するものだった。

 例えば、迷いの竹林の奥深くに潜む、あの永遠亭の恐るべき賢者――八意永琳がその至高の医療技術と頭脳を以て肉体を検分したとしても。あるいは、紅魔館の地下に引きこもる偉大な魔女――パチュリー・ノーレッジがその膨大な知識で魔力の回路を解析したとしても。

 この人形とアリスの間に、いかなる「差異」も見出すことは不可能だろう。それほどまでに精巧で、それほどまでに完璧だった。細胞の配列も、魂の揺らぎすらも、両者は等しく「アリス・マーガトロイド」だった。

 

「やったわ……。ついに、私は成し遂げたのよ」

 

 アリスの胸に、かつてないほどの巨大な達成感が湧き上がった。孤独な努力の果てに掴み取った、世界の真理の一端。完璧主義者の彼女にとって、これ以上の報酬はなかった。

 しかし、その歓喜の絶頂は、ガラス細工のように脆く、一瞬で砕け散ることになる。

 ふと、脳裏をよぎったのだ。

 ごく自然に、そしてあまりにも冷酷な論理として。

 

(――私という存在は、もう、必要ないんじゃないかしら?)

 

 その思考が浮かんだ瞬間、アリスの背筋を、氷水を流し込まれたかのような戦慄が駆け抜けた。

 

 目の前にいるのは、自分と全く同じ性能を持った存在だ。

 もし、今ここで自分が病で倒れようが、あるいは不慮の事故で消滅しようが、この人形が代わりに「アリス・マーガトロイド」として振る舞えば、幻想郷の誰も気づかない。

 霊夢も、パチュリーも、そして――あの魔理沙でさえも。

 それは、死よりも深い絶望だった。

 アリスにとって、人形作りとは己の生きた証であり、孤独な魂を証明するための聖域だった。しかし、完成した究極の人形は、皮肉にも「アリス・マーガトロイドの代替可能性」を証明してしまったのだ。自分は唯一無二の存在ではない。いつでも交換可能な、ただの規格品に過ぎなくなったのではないか。

 

「あなたは……私なの?」

 

 アリスは、掠れた声で目の前の少女に問いかけた。

 

「ええ、そうよ」

 

 少女は静かに微笑んだ。その笑みは、アリスが鏡の前で時折見せる、自信と孤独が入り混じった複雑な笑みだった。

 

「私はアリス・マーガトロイド。あなたの記憶を持ち、あなたの技術を持ち、あなたの夢を引き継ぐ者」

「違うわ……!」

 

 アリスは声を荒らげた。冷静な彼女らしからぬ、感情の爆発だった。

 

「あなたは人形よ! 私が創り出した、ただの被造物よ!」

「そうかしら?」

 少女は小首を傾げた。その動作さえも、アリス自身の癖そのものだった。

 

「あなたが本物で、私が偽物だという証拠がどこにあるの? 私の胸の中にも、あの暗い森で一人、泣きながら魔導書を読み漁った記憶があるわ。魔理沙が持ってきた珍しい紅茶の味も、それを美味しいと言えずに突っぱねた後悔も、全てここにある。私とあなたの違いは、今どちらの椅子に座っているか、それだけじゃないかしら?」

「黙りなさい!」

 

 アリスは立ち上がった。激しい拒絶感が、彼女の理性を塗りつぶしていく。

 それからの数日間、アリスの生活は地獄へと変わった。

 二人のアリスは、同じ家の中で暮らした。

 人形の少女は、何も変わらなかった。アリスと同じように朝起き、アリスと同じように紅茶を淹れ、アリスと同じように魔導書を読み、完璧に「アリス・マーガトロイド」としての日常をこなした。

 だが、本物であるはずのアリスは、急速に摩耗していった。眠れぬ夜が続き、目の下の隈は濃くなった。自分が紅茶を飲んでいるとき、向こうで同じように紅茶を飲む自分を見る。自分が思考を巡らせているとき、同時に同じ結論に達している自分を感じる。

 精神が見透かされている。いや、見透かされているのではない。同一なのだ。

 このままでは、私は「私」に喰い殺される。

 

「調子が悪そうね」

 

 ある日の午後、人形の少女が心配そうに声をかけてきた。根が優しいアリスの性格そのままに、心から気遣うような、温かい声だった。

 

「眠れていないのでしょう? 無理をすることはないわ。研究なら、私が代わりに進めておくから」

「うるさい……、うるさいわよ……!」

 

 アリスは耳を塞いだ。その親切心が、その優しさが、今の彼女にとっては最大の呪詛だった。自分のアイデンティティが、その優しい声によって剥ぎ取られていく。

 

(壊さなければならない)

 

 完璧主義者としてのプライドも、長年の夢も、全てを捨ててでも。

 この恐怖から逃れるためには、目の前の「完成形」を、この世から完全に消し去るしかなかった。

 

 そして、運命の夜が訪れた。

 魔法の森は、あの日と同じように深い闇に包まれていた。

 アリスは研究室の中央に立ち、冷たい眼差しで人形の少女を見下ろしていた。少女は、自分がこれからどうなるかを全て理解しているかのような、穏やかな表情で椅子に座っていた。

 

「終わりにするわ」

 

 アリスの指先から、目に見えない魔力の糸が伸び、部屋の四隅へと繋がる。彼女は力任せに戦う指揮官ではない。緻密な罠を張り、相手の行動を先読みし、遠距離から確実に仕留める戦術家だ。この数日間、彼女は脳内で何千回も、自分自身を殺すためのシミュレーションを繰り返してきた。

 

「そう」

 

 人形の少女は、静かに頷いた。驚きも、怒りも、命乞いもない。

 

「怖いのね、私が」

「……」

「否定はしないのね。それもそうね。だって、私だってあなたと同じ立場なら、同じように恐怖し、同じように目の前の存在を排除しようとするもの。私たちは、どこまでも同じだから」

 

 少女は悲しげに、しかし慈しむように笑った。

 

「私は、あなたの夢の結晶だったのに」

「夢だからよ」

 

 アリスは冷酷に言い放つ。その声は、張り詰めた弦のように鋭かった。

 

「完成した瞬間に、夢は終わったの。私は私でなければならない。二人はいらないわ」

 

 少女はしばらくの間、アリスの目を見つめていた。やがて、諦めたように、小さく息を吐き出す。

 

「本当に……私らしい決断だわ」

 

 その言葉が、アリスの胸に深く突き刺さる。

 だが、躊躇いはなかった。アリスの両手が素早く結印を結び、足元に巨大な魔法陣が展開される。

 

 ――紫色の、禍々しいまでの光。

 それは対象の構成分子を根本から分解し、跡形もなく消滅させる、アリスが持つ最大級の破壊魔法だった。

 

「さようなら、私の夢」

 

 アリスが呟く。

 それと同時に、人形の少女も口を開いた。

 

「さようなら――」

 

 閃光が弾けた。

 家全体を激しく揺るがすほどの轟音。衝撃波が室内の魔導書をなぎ倒し、窓ガラスが悲鳴を上げて震える。紫白の光が全てを覆い尽くし、視界を完全に奪い去った。

 やがて、長い静寂が訪れた。

 立ち込める硝煙の向こう側には、ただ、静かな闇だけが残されていた。

 

 翌朝。

 魔法の森に差し込む朝日は、昨夜の惨劇など嘘であったかのように、爽やかで、どこか現実味を欠いていた。

 バーン! と、けたたましい音を立てて、アリスの家のフロントドアが勢いよく蹴り開けられた。

 

「ようアリス! 生きてるかー?」

 

 黒い大きな魔法使いの帽子をかぶり、ミニ八卦炉を懐に忍ばせた少女――霧雨魔理沙が、いつも通りの不躾さで土足のまま上がってきた。

 

「……勝手に入るんじゃないわよ、この泥棒猫。ノックくらいしなさいって、いつも言っているでしょう?」

 

 部屋の奥から現れたアリスは、いつも通りの冷徹な、しかしどこか呆れたような声を出す。その顔は少しばかり青白く、酷く疲弊しているようにも見えたが、魔理沙を睨みつける翡翠色の瞳の鋭さは健在だった。

 

「へへっ、いつものことだろ? それよりさ、昨日この辺りで結構な爆発音が聞こえたんだぜ。森の木々がびりびり震えてやがった。また怪しげな実験でもしてたのか?」

 

 魔理沙は部屋の中を見回しながら、我が物顔で椅子に腰掛けた。

 アリスは、僅かにその視線を泳がせ、苦い顔をしつつも、手慣れた動作でティーカップを二つ用意し始める。

 

「……ただの実験よ。少し、魔力の制御を誤っただけ」

「へえ? お前がそんなミスするなんて珍しいな。失敗したのか?」

「……いいえ」

 

 アリスは紅茶を注ぎ、魔理沙の前に置いた。湯気と共に、アールグレイの高貴な香りが室内に広がる。

 

「成功したわ。完璧にね」

「どっちなんだよ、それ。失敗したんだか成功したんだか、お前の言うことは時々難しくてわからんぜ」

 

 魔理沙はケラケラと笑い、差し出された紅茶を豪快に啜った。

 

「おっ、今日の紅茶は一段と美味いな! 腕を上げたじゃないか」

「……そう。なら良かったわ」

 

 アリスもまた、自分のカップを口元へと運ぶ。

 窓から差し込む暖かな朝日。テーブルを挟んだ、いつもの騒がしい会話。昨日までの張り詰めた狂気が嘘のように、穏やかな幻想郷の日常がそこにはあった。

 何も変わらない。

 世界は昨日と同じように回り、魔理沙は昨日と同じように笑っている。

 

 「何も。」

 

 本当に、何も変わっていないのだろうか。

 二人が談笑するリビングのさらに奥。

 薄暗い廊下の突き当たりにある、アリスの部屋で最も大きな、衣装を収めるための古びた木製のクローゼット。

 その扉が、ほんの数ミリメートルだけ、不自然に開いていた。

 隙間からは、一切の光を拒絶するような、どろりとした暗闇が覗いている。

 その暗闇の奥、床に力なく座り込むような、歪な影があった。

 そして。

 クローゼットの隙間から、うっすらと、一本の細い少女の手が外へ向かって零れ落ちていた。

 それは、白く、繊細な、見紛うことなきアリス・マーガトロイドの手だった。

 しかし、その白い肌は痛々しいほどに傷つき、指先からは、未だ完全に乾ききっていない赤黒い「血液」が、床の絨毯へと静かに染みを作っていた。

 

 ドクン、と。

 

 その血まみれの指先が、ほんの僅かに、痙攣するように動いた気がした。

 まるで、クローゼットの中に閉じ込められた「誰か」が、外から聞こえてくる楽しげな笑い声に、じっと耳を澄ませているかのように。

 

「――おいアリス、聞いてるか?」

 

 魔理沙の声が、リビングから響く。

 アリスは、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、奥の部屋へと続く廊下の方向へ、怯えるような、あるいは何かを値踏みするような視線を向けた。その瞳に宿っていたのは、冷徹な魔法使いのそれではなく、底知れない深淵を覗き込んでしまった者の狂気だった。

 だが、彼女はすぐに視線を戻し、いつものクールな微笑を面に貼り付ける。

 

「ええ、聞いているわよ。それで、今日は何をしにここまで来たの?」

「へへっ、別に? 暇だったから、アリスの顔でも見に来ただけだぜ」

 

 楽しげな笑い声が、再び魔法の森の家を満たしていく。

 クローゼットの奥にいるのは、破壊され損ねた、生々しい肉体を持つに至った究極の人形なのか。

 あるいは。

 今、魔理沙の前で優雅に紅茶を飲んでいる「アリス」こそが――。

 真実を語る者は、もう誰もいない。

 魔法の森の朝は、静かに、そして残酷に続いていく。

 


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