神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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1-1 聖域の静寂と、生かす奇跡

 

 

出羽の深山、朝霧が立ち込める桃園神宮の本殿。そこには、現世の血生臭い動乱から切り離された、圧倒的に美しい静寂があった。

 

「……高天原に神留まり坐す……」

 

純白の巫女服を纏った姉、桃ノ宮桃華が祭壇の前で静かに祝詞を上げる。彼女が細く白い指先を天へ掲げると、本殿の周囲に柔らかな光の粒子が舞い踊った。その光を浴びた境内の枯れ木は一瞬で瑞々しい桃の葉を繁らせ、大輪の花を咲かせる。桃華が持つ、万病を癒やし大地を潤す本物の神通力――【豊穣と治癒】の奇跡だった。

 

「桃華様。今朝も素晴らしい御光にございます」

 

祭壇の影から進み出たのは、厳格な顔に深い皺を刻んだ老武士、上杉鷹山であった。史実で米沢藩の窮地を救った名君は、桃華の「強く生きて、この世の行く末を見守ってほしい」という強い延命の祈りを受け、数十年の時を超えて未だ現役の肉体を維持し続けていた。

 

「鷹山、私の祈りは、本当に人々を救えているのでしょうか。下山した巫女たちの話では、海の向こうでは、薩長という新しい軍隊が、同じ日ノ本の民を銃で撃ち殺し、京の街を焼いていると聞きます……」

 

桃華の美しい瞳から、悲痛な涙が一滴、床にこぼれ落ちる。

 

「姉様は優しすぎるのよ。祈るだけで世界が救えるなら、お侍様なんて最初からいらないわ」

 

本殿の薄暗い帳を乱暴に跳ね上げ、鈴を転がすような声で笑いながら現れたのは、ツインテールを揺らす妹、桃ノ宮杏だった。まだ普通の巫女服を着ているものの、その小柄な体躯からは想像もつかないほど禍々しい「チート級の近接戦闘力」の覇気が、赤目の奥でギラギラと燻っている。

 

「杏、滅多なことを言うものではありません。私たちはただ、神宮に集う苦しい民の盾となるだけです」

 

桃華が窘めるが、杏はつまらなそうに鼻を鳴らした。この時の神宮はまだ、迫り来る新政府の脅威から身を守るための、純粋な防衛の共同体に過ぎなかった。

 

「……ふぅ」

 

祝詞を終えた桃華が、肩の力をそっと抜く。するとどこからともなく、境内の巫女たちが小走りで駆け寄ってきた。

 

「桃華様、お疲れ様でございます! 今朝の御光、いつにも増して綺麗でしたよ」

 

「まあ、ありがとう。皆も朝早くから……」

 

「桃華様ったら、また終わった途端にふらふらしてる。ちゃんとご飯食べた?」

 

杏がずかずかと歩み寄り、姉の頬をぷにぷにと遠慮なく突いた。

 

「や、杏、人前で……」

 

「いいじゃない減るもんじゃなし。ほら、おはぎ作ってもらったから一緒に食べましょ」

 

杏が袂から取り出したのは、小さな竹の皮包みだった。巫女たちがくすくすと笑う。鷹山が遠くで苦笑いを堪えているのが、桃華にはわかった。

 

今日も、穏やかな朝だった。

 

――この聖域が、いつまでもこうであればいい。

 

桃華は淡く微笑みながら、心の底でそっと祈った。

 

――だが、現世の濁流は、この聖域を放っては置かなかった。

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