神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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5-2 じゅくじゅくの地獄、揺れる光昭

(お姉様が、みんなが、またあの新政府の理不尽に焼き殺される……!)

 

地面に倒れた光昭を見た瞬間、杏の中で何かが弾けた。

 

二本松の子供たちの顔がよぎる。手足をもぎ取られ、泥の上で泣き叫んでいたあの子たちの顔。薩長の大砲に焼かれた、あの子たちの顔。

 

そして今、千代が地面に倒れている。おりんが腕を掴まれている。さくらが踏みつけられている。

 

守れなかった。守れなかった。また守れなかった。

 

首領の汚れた手が、杏の髪を掴もうと伸びてくる。

 

その瞬間、杏の手は無意識に動いていた。

 

普通の巫女服の懐。スネルから「お試しに」と手渡されたあの試作の小瓶。ずっと持ち歩いていた。使うつもりなど、なかった。……本当に、なかったはずだった。

 

「――触るな、この虫ケラどもがぁッ!!」

 

杏が叫び、首領の顔面へ向けて、その小瓶を全力で叩きつけた。

 

パリン、と、ガラスの割れる美しい音が森に響いた。

 

直後、現世のものとは思えぬ地獄が爆発した。

 

空気と触れた白燐の炎が、首領の頭部を一瞬で包み込んだ。水では絶対に消えない白煙が吹き上がり、顔面の皮膚、目、鼻が、文字通り「じゅくじゅく」と音を立てて骨まで溶けていく。さらに漏れ出た黄色い塩素ガスの濃縮霧が、肺腑を内側から焼き裂いた。

 

「あ、が、あぁぁぁぁぁぁッ!!! ぎゃあああああああッ!!」

 

首領だったものは、自らの顔を掻きむしり、指先までドロドロに溶け落としながら、血の泡を吐いて絶命した。

 

周囲の野盗たちも、飛び散った毒液を浴びた者から順に、皮膚を沸騰させてのたうち回る。おりんの腕を掴んでいた男が、断末魔の叫びを上げながら地面を転げ回った。残った野盗どもは銃を投げ捨てて逃げ出したが、塩素の霧を吸い込んだ者は十歩も走らぬうちに膝から崩れ落ちた。

 

森が、静まり返った。

 

あとに残ったのは、白い煙と、焼けた肉の匂いと、泥の上に転がる死体だけだった。

 

 

「……あ……ああ……」

 

肩から血を流した光昭は、目の前で起きた光景に、呼吸を忘れて呆然と座り込んでいた。

 

凄惨だった。人間が、人間ではないものに変わっていく様を、光昭は確かに見た。あれは戦ではない。裁きでもない。ただの、消去だ。

 

しかし。

 

毒煙の向こうで、返り血を巫女服に浴びながら、それでも真っ直ぐに立っている杏の姿を見た瞬間、光昭の胸に、理性では説明のつかない何かが走った。

 

(……狂気だ。これは悍ましい悪魔の業だ。だけど……なんで、なんでこんなに)

 

美しいのだ。

 

汚れた煙の中で、赤目を輝かせて立つ少女の姿が、現世のあらゆる穢れを滅ぼす「神聖な何か」のように、光昭の目には映ってしまった。理性が「違う」と叫んでいる。魂が「そうだ」と囁いている。その二つが、光昭の中で激しくぶつかり合い、どちらにも決着がつかないまま、彼の体を地面に縫い付けていた。

 

光昭が動けないでいる中、周囲の大人たちが先に動いた。

 

最初に動いたのは、織田信敏だった。

 

さっきまで泥の上で「命だけは」と哀願していた天童藩主が、ドロドロに溶ける死体の臭いの中で、ガタガタと震えながら立ち上がり……そのまま杏の足元へ、額から崩れるように倒れ込んだ。

 

「せ、聖女様……!」

 

嗚咽だった。土下座ですらなかった。全身で地面に貼り付くように伏せ、両手で杏の足元の泥を握りしめながら、織田信敏は泣き叫んだ。

 

「これぞ……これぞ神宮の、天上の奇跡……! 私はずっと間違っておりました……! 大名などという器では、この御方のお力は理解できぬ……! この命、この藩の全て、桃園神宮の御旗のもとに捧げます……! 捧げさせてください……! どうか、どうか……!」

 

その背中を見た松平信庸の目が、かっと見開いた。

 

「お、織田殿……! そ、そうだ……そうだ……!」

 

松平が膝で泥の上を這い、織田の隣に並んで平伏した。頭を上げようとしない。ただ、泥の中に顔を埋めたまま、震える声を絞り出す。

 

「私は……私は上山藩主として、ずっと薩長の顔色を伺い、民を守れずにおりました……! だが、この御方は違う……! 一人の少女が、悪鬼を一瞬で滅ぼした……! これは神の御業以外の何物でもない……! 杏様……! 杏様こそが、この乱世に現れた真の救世主……! 上山の全ては、あなた様のものだ……!」

 

さらに、主人の光昭を差し置いて、黒川藩の重臣たちまでもが、雪崩を打つように膝をつき、泥の中に額を擦り付けた。

 

「神宮の杏様……! 我ら黒川の武士一同、すべてをあなた様に捧げます……!」

 

杏は、しばらく黙ってその光景を見ていた。

 

大名が泥に塗れている。重臣が額を擦り付けている。さっきまで自分たちを殴りつけていた野盗どもは、溶けて転がっている。

 

杏の口元が、ゆっくりと歪んだ。

 

 

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