神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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5-3 狂信の始まり、第一の歌の初鳴き

最初に変わったのは、おりんの目だった。

 

野盗に腕を掴まれた時、「やめて」と叫んでいたおりんが、地面に座ったまま、じっと杏を見ていた。泣いていた。しかしその涙は、恐怖からではなかった。頬が紅潮し、瞳の焦点がどこか遠くへ向いている。

 

「……おりんさん?」

 

千代が覗き込む。

 

おりんは答えなかった。ただ、口元が、微かに動き始めた。声にならない音が、喉の奥から漏れてくる。くく、くく、と、笑い声とも泣き声ともつかない音が、だんだん大きくなっていく。

 

「おりん、大丈夫……?」

 

千代が肩に触れた瞬間、おりんがぱっと顔を上げた。

 

笑っていた。涙を流しながら、この世のものとは思えないほど晴れやかな顔で、笑っていた。

 

「千代……なんか、おかしいね、私」

 

「……おりんさん?」

 

「なんか、すごく、嬉しいの。なんでだろ。分かんないけど、すごく、嬉しいんだ。胸が、いっぱいで……なんか、歌いたい」

 

次の瞬間、おりんが立ち上がった。

 

誰も命じていない。誰も促していない。ただ立ち上がって、天を仰いで、口を開いた。

 

「一つ(ひとーつ) ひばり(天)が 鳴いたなら♪」

 

澄んだ声が、森に響いた。

 

千代が息を呑んだ。さくらが顔を上げた。他の側近巫女たちが、一斉におりんを見た。

 

「聖女(ひめ)のみおあし(御足)が 動き出す♪」

 

誰も教えていない歌だった。今この瞬間、生まれた歌だった。なのに、千代の唇が、それに続く言葉を知っていた。胸の奥から、勝手に溢れてくる。止められない。止めたくない。

 

「二つ(ふたーつ) ふたごの 白い雲♪」

 

千代の声が重なった。自分でも気づかないうちに、立ち上がっていた。頬が熱い。胸が痛いほど高鳴っている。怖くない。怖くないのに、涙が出る。おかしい、とどこかで思った。思ったのに、止まれなかった。

 

「異国(から)の知恵なる 神の霧♪」

 

さくらが加わった。無口なさくらが、目を潤ませて、誰よりも美しい声で歌っていた。さくらが歌うのを、千代は一度も聞いたことがなかった。なのにさくらは歌っていた。頬に涙を伝わせながら、一度も歌詞を間違えずに、歌っていた。

 

気づけば全員が立っていた。

 

気づけば全員が歌っていた。

 

気づけば手が繋がっていた。

 

いつ立ったのか、いつ手を繋いだのか、誰も覚えていなかった。ただ気づいた時には、巫女たちは輪になって、平伏する大名たちの周りをゆっくりと回っていた。歌いながら、泣きながら、笑いながら。溶けた死体の傍らを、幼い足が踏んでいく。花びらのように、静かに、静かに回っていく。

 

「三つ(みっつ) みんなで 手をつなぎ♪」

 

「聖女(ひめ)のおそばで 夢を見る♪」

 

平伏する大名たちの背中に、少女たちの可憐な歌声と、まだ晴れぬ黄色い煙が降り注いでいた。

 

杏は歌わなかった。ただ、その光景を見ていた。

 

見ながら、口元の歪みが、少しずつ、大きくなっていった。

 

「お姉様……私、分かっちゃった」

 

誰に言うでもなく、呟いた。

 

「この霧があれば、お姉様を脅かす悪い虫を、みーんな優しく包んで消してあげられる……」

 

巫女たちが歌い続けている。大名たちが泥に額を擦り付け続けている。光昭が、動けないまま見つめ続けている。

 

 

これより、純白を捨てる。

 

禍々しい黒が、この身を包む。

 

泥の中で、光昭はその一部始終を見ていた。恐怖があった。崇拝があった。どちらが勝っているか、もはや自分でも分からなかった。ただ、目が離せなかった。離してはいけないと思った。この人から離れたら、自分は何者でもなくなる気がした。

 

こうして、普通の巫女服を纏った少女と、彼女を護ると誓った青年の純粋な物語は、黒川の森の惨劇によって決定的に塗り替えられた。

 

『二本松少年少女親衛隊』の数え歌が、この日初めて、森の空へと響き渡った。

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