神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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6-1 神宮の静寂、聖女の抱擁

夕暮れの石段を、杏と光昭が登ってくるのを最初に見つけたのは、水汲みの最中だった名もない若い巫女だった。

 

「杏様がお戻りになった……! 杏様がお戻りに……!!」

 

その声が、境内に響き渡った。

 

次の瞬間、神宮の中が一斉に動いた。夕餉の支度をしていた巫女が飛び出し、神事の道具を磨いていた巫女が手を止めて走り出す。掃除の途中だった巫女が箒を放り出し、縁側で繕い物をしていた巫女が針を置いて立ち上がった。石畳の上に、足音が重なった。

 

「杏様、ご無事で……!!」

 

「お怪我は……? その血は……!?」

 

名もない巫女たちが杏を取り囲み、泥と返り血に汚れた巫女服を見て、次々と顔を青ざめさせていく。誰かが今にも泣きそうな声で杏の腕を確かめ、誰かが震える手で杏の頬に触れようとした。

 

その騒ぎを聞きつけ、本殿の奥から走り出てきたのが桃華だった。

 

普段、桃華が走ることはない。祈りの場から離れることもない。しかしこの時ばかりは、純白の巫女服の裾を乱して、石畳を蹴るように駆けてきた。

 

「――杏! 良かった、無事だったのね……!」

 

桃華は妹の小さな体を、きつく、きつく抱きしめた。その美しい瞳からは、純粋に妹を心配する涙が溢れている。

 

「酷い野盗に襲われたと聞きました。怪我は? どこも痛むところは無いの? この血は……この血は杏のものではないわよね……?」

 

桃華の声が震えていた。杏の体を抱きしめたまま、頭から肩から腕から、怪我がないか確かめるように手を動かし続ける。

 

「平気だよ、お姉様。心配しないで」

 

杏は桃華の胸に顔を埋めながら、小さく微笑んだ。

 

「光昭やみんなが守ってくれたし……それに、お姉様から授かったこの力があるもの。悪い虫は、ぜんぶ私が退治したわ」

 

「退治した……どうやって? 野盗は銃を持っていたと聞きましたが……」

 

「みんなで頑張ったの」

 

桃華が顔を上げ、妹の赤目を見つめた。

 

「みんなで……?」

 

「うん。光昭も、巫女たちも、一緒に頑張ってくれたから」

 

桃華は少しの間、杏の顔を見ていた。嘘をついているとは思わなかった。妹が自分に嘘をつくはずがないと、桃華は信じていた。だからこそ、胸の奥にわずかに引っかかった小さな違和感を、そのまま奥へと押し込んだ。

 

「……そう。無事で、良かった」

 

桃華がもう一度、強く抱きしめる。

 

杏は姉の胸に顔を埋めたまま、目を細めた。

 

その赤目の奥に、昨日の惨劇で手に入れた【全能の万能感】の残火が、妖しくチカチカと燻っているのを、桃華は気づかなかった。

 

人が溶けた光景を、杏は言わなかった。

 

大名が泥に額を擦り付けた光景を、杏は言わなかった。

 

巫女たちが誰も命じていない歌を歌いながら輪になって踊った光景を、杏は言わなかった。

 

お姉様を心配させたくないから。お姉様に泣いてほしくないから。

 

そう、杏は思っていた。……本当に、そう思っていた。

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