神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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6-2 神宮の静寂、老将の眼光

「……お怪我がなくて何よりにございます、杏様」

 

背後の薄暗い帳から、厳格な顔を覗かせたのは上杉鷹山だった。

 

その声は穏やかだった。しかし老軍師の鋭い眼光は、杏の衣服に付着した、硝石とも硫黄とも違う「異国の奇妙な薬品の臭い」を正確に捉えていた。百戦錬磨の老将の鼻は、戦場の臭いを嗅ぎ分けることにかけては、誰にも負けない。そしてあの臭いは、ルトルースのフランス製火薬とも、長岡の鉄砲の硝煙とも、明らかに違った。どこかで嗅いだことがある。そう、あのスネル兄弟が商談の席に持ち込んだ、あの黄色い液体の瓶から漂っていた臭いと……よく似ていた。

 

鷹山は眉根を深く寄せたまま、静かに前へ出た。

 

「杏様。少々お聞きしてもよろしいか」

 

「なあに、鷹山」

 

杏の声は明るかった。桃華の腕の中に収まったまま、こちらを振り返る赤目に、警戒の色はない。それがかえって、鷹山の胸に冷たいものを落とした。

 

「野盗は、何人ほどでございましたか」

 

「十人くらいかな。薩長崩れの汚い連中だったわ」

 

「そうでございますか」

 

鷹山は頷き、しかし視線を外さなかった。間を置いて、次の問いを重ねる。

 

「御一行の中に、お怪我をされた方は」

 

「光昭が肩を掠られたけど、大したことない。あとは巫女たちが少し突き飛ばされたくらい」

 

「それは災難でございました」

 

また間を置く。鷹山の問いは、矢のように速くはない。むしろゆっくりと、丁寧に、一つひとつ積み上げていく。それが却って、答える側の僅かな揺らぎを浮かび上がらせる。長年、藩政の修羅場を潜り抜けてきた老将の、静かな尋問の技だった。

 

「……野盗の生き残りは」

 

一瞬、杏の目が動いた。ほんの一瞬だった。桃華には見えなかったかもしれない。しかし鷹山は、その一瞬を見逃さなかった。まばたき一つ分にも満たない、赤目の揺れ。それだけで十分だった。

 

「……いないよ」

 

「全員、でございますか」

 

「そう。全員」

 

「十人ほどを、御一行で」

 

「……そうよ」

 

短い沈黙が落ちた。桃華が杏の背中をそっと撫でている。名もない巫女たちが周囲でざわめいている。その温かな喧騒の中で、鷹山と杏の間だけに、張り詰めた静寂が漂っていた。

 

鷹山は黙って、杏の衣服をもう一度だけ見た。

 

泥。返り血。そして、あの臭い。

 

十人の近代武装の野盗を、全員。逃げた者も、降参した者も、一人も残さず。しかも黒川の重臣たちの怯え方が異常だったと、先ほど早馬で届いた報告にあった。天童の織田と上山の松平が、腰を抜かしたまま神宮を拝み倒して山を下りたとも。大名が二人、重臣たちが揃って平伏するほどの「何か」が、あの森で起きた。

 

ただの野盗退治で、起きることではない。

 

(杏様。あなたは懐に、あの小瓶を持っていたのではないですか)

 

鷹山はその言葉を、飲み込んだ。

 

桃華が妹を抱きしめたまま、安堵の涙を流している。この場で言うべきことではない。言ったところで、杏は認めないだろう。今は証がない。

 

「……そうでございますか。よくご無事で」

 

それだけ言って、鷹山は帳の奥へと引いた。

 

しかしその背中は、杏から離れながらも、老いた耳を澄まし続けていた。足音を殺して帳の向こうへ消えながら、鷹山は静かに目を閉じた。

 

(時間がない。このままでは、あの娘は取り返しのつかない場所へ行ってしまう)

 

聖域の底で、何かが決定的に歪み始めていた。その音を、この老将だけが、確かに聞いていた

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