「……お怪我がなくて何よりにございます、杏様」
背後の薄暗い帳から、厳格な顔を覗かせたのは上杉鷹山だった。
その声は穏やかだった。しかし老軍師の鋭い眼光は、杏の衣服に付着した、硝石とも硫黄とも違う「異国の奇妙な薬品の臭い」を正確に捉えていた。百戦錬磨の老将の鼻は、戦場の臭いを嗅ぎ分けることにかけては、誰にも負けない。そしてあの臭いは、ルトルースのフランス製火薬とも、長岡の鉄砲の硝煙とも、明らかに違った。どこかで嗅いだことがある。そう、あのスネル兄弟が商談の席に持ち込んだ、あの黄色い液体の瓶から漂っていた臭いと……よく似ていた。
鷹山は眉根を深く寄せたまま、静かに前へ出た。
「杏様。少々お聞きしてもよろしいか」
「なあに、鷹山」
杏の声は明るかった。桃華の腕の中に収まったまま、こちらを振り返る赤目に、警戒の色はない。それがかえって、鷹山の胸に冷たいものを落とした。
「野盗は、何人ほどでございましたか」
「十人くらいかな。薩長崩れの汚い連中だったわ」
「そうでございますか」
鷹山は頷き、しかし視線を外さなかった。間を置いて、次の問いを重ねる。
「御一行の中に、お怪我をされた方は」
「光昭が肩を掠られたけど、大したことない。あとは巫女たちが少し突き飛ばされたくらい」
「それは災難でございました」
また間を置く。鷹山の問いは、矢のように速くはない。むしろゆっくりと、丁寧に、一つひとつ積み上げていく。それが却って、答える側の僅かな揺らぎを浮かび上がらせる。長年、藩政の修羅場を潜り抜けてきた老将の、静かな尋問の技だった。
「……野盗の生き残りは」
一瞬、杏の目が動いた。ほんの一瞬だった。桃華には見えなかったかもしれない。しかし鷹山は、その一瞬を見逃さなかった。まばたき一つ分にも満たない、赤目の揺れ。それだけで十分だった。
「……いないよ」
「全員、でございますか」
「そう。全員」
「十人ほどを、御一行で」
「……そうよ」
短い沈黙が落ちた。桃華が杏の背中をそっと撫でている。名もない巫女たちが周囲でざわめいている。その温かな喧騒の中で、鷹山と杏の間だけに、張り詰めた静寂が漂っていた。
鷹山は黙って、杏の衣服をもう一度だけ見た。
泥。返り血。そして、あの臭い。
十人の近代武装の野盗を、全員。逃げた者も、降参した者も、一人も残さず。しかも黒川の重臣たちの怯え方が異常だったと、先ほど早馬で届いた報告にあった。天童の織田と上山の松平が、腰を抜かしたまま神宮を拝み倒して山を下りたとも。大名が二人、重臣たちが揃って平伏するほどの「何か」が、あの森で起きた。
ただの野盗退治で、起きることではない。
(杏様。あなたは懐に、あの小瓶を持っていたのではないですか)
鷹山はその言葉を、飲み込んだ。
桃華が妹を抱きしめたまま、安堵の涙を流している。この場で言うべきことではない。言ったところで、杏は認めないだろう。今は証がない。
「……そうでございますか。よくご無事で」
それだけ言って、鷹山は帳の奥へと引いた。
しかしその背中は、杏から離れながらも、老いた耳を澄まし続けていた。足音を殺して帳の向こうへ消えながら、鷹山は静かに目を閉じた。
(時間がない。このままでは、あの娘は取り返しのつかない場所へ行ってしまう)
聖域の底で、何かが決定的に歪み始めていた。その音を、この老将だけが、確かに聞いていた