黒川の森から帰還したその夜、杏の耳の奥では、絶えずあの旋律が鳴り響いていた。
――一つ ひばりが 鳴いたなら♪
――聖女のみおあしが 動き出す♪
おりんたちが流した涙。松平や織田が泥に塗れて見上げた恍惚の表情。そして、自分が放った白燐の煙。
それらすべてが脳裏でじゅくじゅくと混ざり合い、杏の心を奇妙な高揚感へと引きずり込んでいた。
夜具の上に横になっていた。眠れなかった。目を閉じると、あの歌が聞こえてきた。目を開けると、天井の木目がぼんやりと揺れて見えた。
あの歌は、どこから来たのだろう。
誰も教えていなかった。おりんが最初に歌い出した時、おりん自身も何故歌えるのか分からなそうだった。それなのに、千代もさくらも、続けて歌い始めた。全員が同じ旋律を、同じ言葉で。
(どうして、あんなことが起きたのだろう)
杏は起き上がった。
眠れないなら、調べればいい。
深夜の桃園神宮。
回廊を歩く杏の足音が、石畳に吸い込まれていった。
地下への階段を降りた。燈籠の仄青い火が、うず高く積まれた古文書の山を照らしていた。禁書庫だった。神宮の歴史, あるいはそれ以前の、歴代の朝廷や幕府が「危険」として封じてきた禁忌の書物が眠る場所だった。
杏は最初、何を探しているのか自分でも分からなかった。
ただ、あの歌のことが頭から離れなかった。あの歌が何かを知りたかった。お姉様の御力が、あの歌を通して人々に届いているのだとしたら、その仕組みを知りたかった。もっとうまく届けられるなら、もっとたくさんの人を救えるなら、それを知りたかった。
お姉様を傷つける者が、もう一人もいなくなるなら。
巻物を開いた。次の巻物を開いた。また次の巻物を開いた。
ページを繰る指が、ある古びた竹簡の前でぴたりと止まった。
「……これ」
杏の声が、思ったより小さかった。
息を呑んだ。胸が、一つ、大きく跳ねた。
そこに記されていたのは、『音響呪法』の存在だった。定めの音の高さと旋律を組み合わせることで、人の耳から脳の奥底へと直に働きかけ、己という輪郭を溶かす禁忌の技。言葉による説得や脅しを一切介さず、ただ「聴かせる」だけで、相手の心の扉を強引にこじ開ける精神汚染の術法が、確かに過去の歴史に存在していた。
指先が、震えていた。
自分でも気づかなかった。気づいた時には、竹簡の縁を、両手でしっかりと握りしめていた。
(これが……あの夜に起きたことの、答えなの?)
おりんが歌い出した瞬間を思い出した。誰も教えていないのに、続けて全員が歌った。理由が分からないまま、ただ自然に歌えた。
あれは偶然ではなかった。お姉様の神通力が、何かを通して、人々の心の奥底に直に触れていたのだ。
息が、少し荒くなっていた。
杏の思考は、さらにその源流へと深く潜っていった。
音の呪法の根底にあったのは、大和朝廷が成立する遥か昔、文字を持たなかった古代の民が行っていた『古代祭祀』の記録だった。
当時の神和ぎたちは、神の言葉を伝える際、筋道立った言葉を使わなかった。
ただ、母の鼓動に似た単調な打楽器の律動と、人の骨の髄を震わせる特異な母音の連続の声によって、集落の人間全員を同時に集団の憑依状態へと導いていた。
己という意識を消し去り、ひとつの「巨大な群れ」として神の御意に従わせる。それこそが、太古の呪術の全貌だった。
「……そうなんだ」
杏は、声に出してしまっていた。
書庫に声が反響した。
瞳孔が開いていた。暗い書庫の中で、燈籠の青い火が、杏の赤い目に映り込んでいた。
古代の人たちが、お姉様と同じようなことをしていた。いや、違う。お姉様は純粋に祈っておられるだけだ。
しかしその御力が、古代の人たちが偶然見つけた仕組みと、同じ道筋で人々の心に届いているのだとしたら。
(お姉様の光は、遥か昔から、人の心に届く道を持っていたということ?)
手が震えていた。