「なるほど……それが、仏法の伝来とともに姿を変えたのね」
杏は別の分厚い梵書を引き抜き、激しくページを捲った。
平安の初め、異国から伝わった『密教』は、この古代の音の技術をさらに磨き上げていた。
それが『真言』であり『声明』だった。
意味を理解させず、ただ音の響きそのものに呪力を込めて数千人の僧侶が一斉に唱える声明は、空間の振動そのものを変質させ、聴く者の脳内に幻覚を強制的に咲かせる。
指先が震えたまま、ページを繰り続けた。
呼吸が、また速くなっていた。
(同じだ。同じ仕組みだ。時代が変わっても、人の脳の作りは変わっていない。お姉様の声は、今も昔も、同じ道を通って人々の心に届いている)
しかし、これほど強力な技術が、なぜ歴史の表舞台から消えたのか。
杏は、室町期に編纂された芸能の秘伝書へと視線を移した。
「……隠蔽されたのよ。時の権力者たちが、その力を恐れて『芸能』の枠に閉じ込めた」
呪法は、民衆の娯楽である『神楽』や『能楽』へと姿を変え、牙を抜かれた。
太鼓の拍子、笛の怪しげな旋律、そして巫女たちが舞いながら口ずさむ「童歌」。
それらはすべて、かつて民衆を一瞬でトランス状態へと引き込んでいた技術の残骸だった。人々はそれが呪いだとも気づかず、「お祭り」として無邪気にその音を浴び、心地よい陶酔感に浸っていた。
杏は、本を閉じた。
薄暗い書庫の天井を見上げた。
燈籠の火が揺れていた。
(だとしたら)
心臓が、速く打っていた。
頭の中で、何かが繋がりかけていた。まだ完全には見えていなかった。しかし、形が見えかけていた。
(あの歌には、何かがある)
黒川の森で生まれたあの歌。
誰も教えていないのに、みんなが歌えた。泥の中で松平や織田が涙を流した。あの歌が流れている時、みんなの目が、どこか遠くを向いていた。怖くなかった。苦しくなかった。ただ、温かかった。
お姉様の奇跡が、人々に届く時も、同じだった。
あの歌を、もっとたくさんの人に届けられたら。
お姉様の光を、もっと遠くまで届けられたら。
まだ知らない人たちに、お姉様が本物の救いであることを、言葉ではなく、もっと直接的に、心に届けられたら。
そうすれば、お姉様を傷つけようとする者が、減る。
わざわざ戦わなくても、お姉様の御世を理解してもらえるかもしれない。
それは、お姉様が望む世界に、きっと近い。
「……試してみましょうか」
杏は小さく呟いた。
書庫の空気が、少し揺れた気がした。
まだ形になってはいなかった。何をどうすれば届くのかも、分かっていなかった。ただ、確信だけがあった。
黒川の森で生まれたあの歌には、人の心を繋ぐ何かがある。
そして、お姉様の光と混ざり合えば、それはきっと、もっと遠くまで届けられる。
杏は竹簡を閉じた。
この感覚を、まだ「恐ろしいもの」と思っていなかった。
ただ、嬉しかった。お姉様のために、何かできそうだという、純粋な嬉しさだった。
その嬉しさの先に何があるかを、この夜の杏はまだ知らなかった。
知らないから、暗い書庫を出ていった。