神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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7-1 盛岡藩『鹿追物』悪魔の検分

数日後。

 

出羽の山を越えた先、盛岡藩(南部藩)の領地に、深い霧が立ち込めていた。

 

演習場へ向かう山道は、馬でも足を取られるほどぬかるんでいた。前を行く南部藩の案内役の足軽が「もう少しでございます」と言い続けて、すでに半刻が過ぎていた。

 

「もう少しって、さっきも言ってたよね」

 

杏が馬上から足軽の背中に声をかける。足軽が「も、申し訳ございません」と首をすくめた。

 

「杏、道が悪いから揺れるよ。気をつけて」

 

光昭が隣から声をかける。肩の包帯が、羽織の下で白く覗いていた。黒川の森での銃傷は、桃華の治癒の奇跡で塞がっていたが、激しい動きはまだ控えるよう言われていた。それでも光昭は、杏が「来て」と言えばどこへでもついてきた。

 

「光昭、肩は大丈夫?」

 

「大丈夫だよ。君の方こそ、夕べちゃんと眠れた?」

 

「……まあまあ」

 

杏が視線を前に戻した。まあまあ、という言葉の意味を、光昭は聞けなかった。聞いても、本当のことを教えてくれるかどうか分からなかったから。

 

隊列の後方では、牧野忠訓が馬上で落ち着かなそうに体を動かしていた。

 

「河井殿、本当に今日見せてもらえるのか? サンプルだけでなく、実際の規模で」

 

「左様でございます」

 

「どれほどの範囲に効く」

 

「風向きと量次第でございます。スネル殿に詳しく聞かれるとよい」

 

「うむ……うむ」

 

牧野が何度も頷く。その横で、酒井忠篤が無言のまま馬を進めていた。南部利剛は終始口を閉じ、霧の中を鋭い目で見渡していた。

 

光昭は、その大名たちの横顔をそっと見渡した。

 

みんな、どこか普通ではなかった。笑っていない。雑談もしない。山道の雑踏の中で、それぞれが頭の中で何かを計算し続けているような目をしていた。

 

 

 

 

演習場は山奥の盆地に設けられていた。四方を急峻な斜面に囲まれ、外からは何も見えない。何も聞こえない。南部藩が代々この地を秘匿してきたのは、『鹿追物』という軍事訓練の神事を外部の目から遠ざけるためだと聞いていた。

 

柵に近づくにつれ、獣の臭いが濃くなった。土と草と、それから何か別の、鉄錆に似た臭いが混ざっている。光昭は鼻の奥がつんと痛んだ。

 

「広いな」

 

牧野忠訓が馬を降りながら、柵の規模を見渡して呟いた。

 

「南部藩の演習場は、東北随一と聞いております」

 

案内役の足軽が誇らしげに答える。

 

「ふむ。……で、あれが今日の『実験材料』か」

 

牧野が顎で柵の中を指した。広大な柵の内側で、数百頭の野生の鹿が群れをなしていた。霧の中で不安げに身を寄せ合い、時折、出口を探すように柵の端へ走っては戻ってくる。

 

光昭は、その鹿たちから目を逸らした。

 

見学席は、柵から二十間ほど離れた小高い台の上に設けられていた。南部藩の大工が急ごしらえで組んだ木の台に、座布団が並べられている。その質素な作りが、この場の「建前」をよく表していた。あくまで神事の見学席。誰が見ても、ただの伝統行事だ。

 

「杏様、足元にお気をつけを」

 

南部藩の重臣が杏に手を貸そうとすると、杏は「平気」と一言で断り、自分で台に上がった。光昭がその後に続く。

 

席に着くと、スネル兄弟がすでに待っていた。ヘンリーが薄く笑い、エドワルドが分厚い手順書を膝の上に広げている。その手順書の表紙に、光昭には読めない異国の文字が並んでいた。

 

大名たちが順に席に着いていく。

 

牧野忠訓は最前列の中央に陣取り、柵を食い入るように見つめた。膝を軽く叩き続ける癖が出ている。落ち着かないのではなく、興奮しているのだと光昭には分かった。

 

「スネル殿、今日は全量を使うのか? それとも一部か?」

 

「今日はまず半量でございます。効果の範囲と速度をご確認いただくための検分ですので」

 

「半量で、あの鹿の数が全て片付くか?」

 

「十分すぎるほどに」

 

牧野が満足げに頷き、また膝を叩いた。

 

酒井忠篤は、牧野から一つ離れた席に静かに腰を下ろし、腕を組んだまま微動だにしなかった。柵を見ているのか、霧を見ているのか、それとも全く別の何かを見ているのか、その目は読めなかった。ただ時折、隣の南部利剛と短く言葉を交わしては、また黙った。

 

南部利剛は、終始、自分の領地を見渡す目をしていた。演習場の地形を確かめるように、柵の位置を、風の向きを、斜面の角度を、順に目で辿っていく。この土地の主として、今日見るものを自分の版図の中にどう組み込むかを、すでに計算し始めているようだった。

 

河井継之助だけが、全員から少し距離を置いた位置に座っていた。

 

光昭の斜め後方だった。光昭は一度だけ振り返り、河井の顔を確かめた。河井は光昭と目が合うと、わずかに頷いた。それだけだった。その目に何が宿っているか、光昭には読めなかった。

 

(この人たちは今日、何を見に来ているのだろう)

 

分かっていた。分かっていても、光昭は心の中でその答えを認めたくなかった。

 

杏が隣で、静かに柵を見ていた。

 

その赤目が、じっと鹿の群れを捉えていた。

 

柵の中の鹿たちが、何かを察知したように、一斉にこちらを向いた気がした。光昭の胸に、言いようのない不吉な予感が走った。

 

早く、ここを離れたかった。しかし離れられなかった。

 

「では、始めましょう」

 

ヘンリー・スネルが立ち上がり、そう告げた。

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