見学席に着く前に、ヘンリー・スネルが参加者全員に革製の小さな袋を配った。
「口と鼻を覆うものでございます。万が一、風向きが変わった際にお使いください」
「万が一とは」
南部利剛が眉を上げる。
「滅多にございません。ただ、念のため」
スネルが笑顔で答えた。その笑顔が、光昭には胡散臭くてたまらなかった。
「杏様、これ……」
「持っておきなさい、光昭。使わないに越したことはないけど」
杏が革袋を受け取り、光昭の手に押しつけた。その手が、一瞬だけ光昭の指に触れた。温かかった。光昭はその温もりを、手の中に握りしめた。
見学席の最前列に、杏は座った。その隣に光昭が控え、さらに横に南部利剛、酒井忠篤、牧野忠訓、河井継之助が並んだ。
「……シューウウウウウウウウッ!!!」
不気味な高音の排気音が、霧の中に響き渡った。
樽の栓が抜かれた瞬間、黄色い煙が柵の内側へと流れ込んだ。風はほとんどない。霧と混ざり合いながら、黄色い靄が地面を這うように広がっていく。鹿たちが異変を感じ取り、柵の端へと逃げ惑い始めた。蹄の音が、地響きのように演習場を揺らす。
しかし、逃げ場はなかった。
最初に倒れたのは、霧の中心に取り残された一頭だった。走りながら、突然、足がもつれた。鼻から血の泡が吹き出す。肺を内側から焼き溶かされ、悲鳴すら上げられないまま、その体が地面に崩れ落ちた。皮膚がじくじくと焼け爛れ、目が白く濁っていく。
それが連鎖した。
二頭、三頭、十頭。霧に触れた鹿たちが、次々と地面に倒れていく。のたうち回りながら血の泡を吐き、足を痙攣させ、やがて動かなくなる。
光昭は、目を背けようとした。
背けられなかった。
隣に座る杏が、微動だにせず見ていたから。目を背けたら、杏と違う場所を見ることになる気がしたから。それが怖かった。杏の見ているものを、自分も見続けなければならないと、光昭は思った。思ってしまった。
(これは、おかしい。私はおかしくなっている)
そう思いながら、目を背けられなかった。
「……素晴らしい」
牧野忠訓が、身を乗り出して呟いた。
「鉄の銃弾を万挺揃えるより、この一樽の霧の方が遥かに確実だ。狙いも要らない。風向きさえ読めば、陣地ごと消せる」
「補充の手間も、銃弾の輸送も要らない」
酒井が淡々と続ける。
「戦線の維持にかかる人的損耗も、格段に減る。兵の命が、温存できる」
兵の命を守るために、この霧を使う。その論理が、光昭の頭の中でぐるぐると回った。間違っていると思った。しかし、どこが間違っているのかを言葉にできなかった。
「我が南部の『鹿追物』の伝統など、この威力の前には児戯に等しい」
南部利剛が、ごくりと喉を鳴らした。その目には、もはや迷いがなかった。
河井継之助は最後まで何も言わなかった。ただ視線だけが演習場を動いていた。鹿が倒れる順番を、霧の広がる速度を、風が変わった時の挙動を、全て目に焼き付けるように見ていた。
その横顔を見た時、光昭は初めて、河井継之助という男が本当に怖いと思った。感情がないのではない。全部飲み込んで、計算に変えているのだ。
柵の中が、静かになっていた。
数百頭の鹿が、黄色い霧の中に横たわっていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
その沈黙の中で、光昭だけが、革袋を両手でぎゅっと握りしめていた。