「少し休憩を」
スネルが告げ、南部藩の従者たちが茶と菓子を運んできた。
演習場を背にした見学席で、茶を受け取りながら、牧野忠訓が感嘆の息を吐いた。
「いや、まさかここまでとは。スネル殿、あれは風が止まっている条件でのものか? 風があればもっと広がるのか?」
「風速と方向次第でございますが、概ね三倍から五倍の範囲をカバーできます」
「三倍……五倍」
牧野が指で膝を叩きながら、何かを計算している。
光昭は茶碗を受け取ったが、口をつけられなかった。さっきの光景が、目の裏に焼き付いていた。茶の湯気が、あの黄色い煙と重なって見えた。
「杏、お茶飲まないの?」
杏が光昭の茶碗を覗き込む。
「……ああ、うん。飲むよ」
光昭は無理やり一口含んだ。味がしなかった。
「顔色悪いよ、光昭」
「大丈夫。ちょっと、霧の臭いが残ってて」
「そっか。無理しないで」
杏が光昭の背中をぽんと叩いた。いつもと変わらない、普通の仕草だった。その普通さが、光昭には堪らなかった。あれだけのものを見た後で、どうして君はそんなに普通でいられるのか。
その時、南部利剛が酒井忠篤の方へ身を寄せた。
「酒井殿」
声を低く落とし、周囲に聞こえないよう抑えながら言った。
「新政府への恭順をいち早く決め込もうとしている、隣国の久保田藩(秋田)。奴らの防衛陣地にこれを撃ち込めば、どうなると思う」
酒井忠篤が、溶けた鹿の山から視線を上げた。
「……一網打尽、だな」
「左様。久保田が薩長を東北へ引き込む前に、この霧で奴らの息の根を止める。先手を打てば、奥羽全体の防衛線が一気に整う」
「反論はない」
酒井が短く答え、杏へと視線を向けた。
「杏様。久保田は新政府と通じ、桃園神宮を取り囲む包囲網の一角を担おうとしております。放置すれば、いずれお姉様への脅威となる。この霧の、最初の使い道として、いかがか」
杏は、溶けた鹿の山を見つめたまま、しばらく黙っていた。
茶碗を両手で包み、湯気を眺めている。その横顔は穏やかだった。怒ってもいない。興奮してもいない。ただ、静かに考えている顔だった。
光昭は、その横顔を見ながら、胸の中で必死に何かを探していた。止める言葉を。反論を。「それは違う」と言えるだけの、何かを。
見つからなかった。
久保田が薩長を引き込めば、東北が戦場になる。お姉様の神宮が危うくなる。その論理は、光昭にも分かった。分かってしまった。
「いいよ」
杏が静かに言った。
「久保田藩が本当にお姉様を裏切るなら……このおもちゃ、最初に試してあげようね」
その声は穏やかだった。まるで明日の天気を告げるような、静かな声だった。
牧野忠訓が満足げに頷いた。南部利剛が目を細めた。酒井忠篤が、わずかに口元を緩めた。
誰も笑顔の数え歌を歌っていない。誰も泥に額を擦り付けてもいない。しかしこの場にいる全員が、悪魔の兵器を「有効な軍事手段」として冷徹に品定めし、生きた人間への使用を、まるで兵站の計算でもするように淡々と検討していた。
狂信の炎はまだ見えない。しかしそれは、炎がないのではなかった。燃え上がる前の、息を潜めた熾火だった。
河井継之助は最後まで何も語らなかった。ただその目だけが、杏の横顔から、溶けた鹿の山へと、静かに移っていった。
光昭は、空になった茶碗を持ったまま、立ち上がれなかった。
止めるべきだった。今ここで、声を上げるべきだった。しかし声は出なかった。杏の「いいよ」という一言が、光昭の中の何かを、静かに、しかし確実に塗り替えていた。
この人の隣にいると決めた。どこまでもついていくと誓った。
ならば、これも、見届けなければならないのか。
光昭には、まだ答えが出なかった。
だいぶ 怪しくなってきた。 感想待ってます