夜明け前から、太鼓の音が森に響いていた。
山形盆地、天童藩と上山藩の境界にある深い森に囲まれた武練場。まだ霧も晴れぬ暗い朝に、数百人の若者と領民が叩き起こされ、泥の上に並ばされていた。
「何なんだ、一体……」
「聞いてないぞ、こんな訓練」
農民上がりの足軽たちが、眠い目をこすりながら小声で囁き合う。その囁きを聞きつけた松平信庸が、西洋の信号ラッパを口から外し、鞭の柄で自分の手のひらをぱんぱんと叩きながら振り返った。
「喋るな。足を動かせ」
静かな声だった。しかしその目が、尋常ではなかった。白目に細い血管が浮き、瞳の奥に異常な熱が燻っている。あの鷹狩りの日から、この大名の目はずっとこうだった。
「左、右、左、右……! 足並みを揃えんか! 杏様の御前で行進するのだぞッ!」
松平が喉を枯らしながらラッパを吹き鳴らす。隊列の端の方で、足並みが乱れた。老いた農夫が足をもつれさせ、隣の若者にぶつかって転んだ。
「立て」
松平が歩み寄り、転んだ農夫を見下ろした。
「立てと言っておる」
「も、申し訳ございません、殿様……足が……」
「聖女様は休まれぬ。お前たちも休むな」
農夫が震えながら立ち上がる。その背中を、松平の鞭が一閃した。農夫が声を上げて前に倒れ、また立ち上がった。
武練場の反対側では、織田信敏が陣太鼓の前に仁王立ちになり、白目を剥きながら連打を続けていた。
ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ。
単調なリズムが、朝霧の中に繰り返し響く。それは軍楽でも祭囃子でもなかった。ただひたすら反復される、呪いのような打音だった。
「叩け! 叩け! 叩けぇいッ! 聖女様の歩みを乱すなッ!」
織田が恍惚の表情で笑いながら太鼓を叩き続ける。その顔に疲れの色はない。朝から一度も休んでいないのに、目だけがギラギラと輝いていた。
昼になった。
休憩の号令はかからなかった。
「殿様……水を……」
隊列の中ほどで、十七、八歳の若者が膝をついた。唇が乾ききって白くなっている。朝から何も口にしていなかった。
「立て」
松平が振り返りもせずに言った。
「立てぬなら、その場で足を動かせ。足が動かぬなら、口で拍子を数えろ。それもできぬなら、聖女様のお名前を唱えろ」
若者は震えながら立ち上がり、また歩き始めた。
夕方になった。
西の空が赤く染まる頃、隊列のあちこちで人が倒れ始めた。足軽が泥の上に膝をつき、農民が嗚咽を漏らしながらうずくまる。子供のような年齢の若者が、声を殺して泣いていた。
「なんで俺たちがこんな目に……」
「聖女様って誰だよ……そんな人、俺は知らねえ……」
倒れた者の隣で、仲間が小声で愚痴をこぼす。
織田信敏がその声を聞きつけ、太鼓の撥を止めた。
武練場が、しんと静まり返った。
織田がゆっくりと歩み寄り、愚痴をこぼした若者の前に立った。
「……聖女様を知らぬ、と言ったか」
若者が顔を上げ、織田の目を見た瞬間、全身が竦んだ。
「明日、教えてやる」
それだけ言って、織田は太鼓の前に戻った。
その夜、武練場に火が焚かれた。倒れた者たちに、ようやく水と握り飯が配られた。しかし、夜が明ける前にまた太鼓が鳴り始めた。