三日目の朝。
隊列の中に、変化が起きていた。
最初に気づいたのは、隣に並んでいた農夫だった。前の晩まで「もう限界だ」「逃げたい」と囁いていた隣の若者が、この朝は黙って前を向いて歩いていた。顔つきが違った。目の焦点が、どこか遠くへ向いている。
「おい……大丈夫か」
農夫が小声で声をかけると、若者はゆっくりと振り返った。
「大丈夫だよ」
「顔色が……」
「昨夜、夢を見たんだ」
若者が前を向いたまま、静かに言った。
「光の夢。すごく、綺麗な光だった。……あれが聖女様なのかな、って思ったら、なんか、頑張れる気がしてきた」
農夫は黙った。
その日の午後、織田信敏が隊列の前に立ち、初めて言葉を語った。訓練の話ではなかった。あの鷹狩りの日に自分が見たものの話だった。
汚れた野盗どもが。純白の巫女服を纏った少女に。一瞬で滅ぼされた。
「あの御方の光は、本物だ。この腐った世の中の、唯一の救いだ」
織田の声は、静かだった。叫んでもいない。脅してもいない。ただ、自分が見たものを語っていた。それだけなのに、隊列の中に、妙な熱が広がっていった。
「俺も……聖女様のために、歩けます」
夕方、隊列の後方から声が上がった。
三日前に膝をついて泣いていた、あの若者だった。
松平が振り返り、その若者を見た。
「そうか」
それだけ言って、また前を向いた。しかしその口元が、わずかに緩んだのを、農夫は見た。
五日目。
「聖女様のために」と言う者が、十人になっていた。
彼らは倒れなかった。疲れた顔をしていなかった。むしろ、目が輝いていた。隊列の中で、彼らの足並みだけが、妙に揃っていた。
「見ろ」
織田が松平に耳打ちした。
「伝わっておる」
松平が静かに頷いた。
七日目の朝。
ドンドコドンドコ、と太鼓が鳴り始めると、隊列の中から、自然と足が動き始めるようになっていた。
叩き起こされる前に目を覚ます者が増えた。誰に言われるでもなく、武練場に集まってくる者が出始めた。農民だった者が、足軽の横に並んで歩いている。子供のような年齢の若者が、老いた藩士の隣で胸を張っている。
「おかしいな」
三日目に「大丈夫だよ」と言っていた若者の隣で、農夫がぼそりと呟いた。
「何が?」
「俺……今朝、太鼓の音を聞いたら、なんか、体が勝手に動いた」
若者が、にっこりと笑った。
「そういうことだよ」
農夫は黙った。自分の足が、ちゃんと動いていることに、今更気づいた。
その日の午後、松平信庸が隊列の前に立ち、太鼓のリズムに合わせて手を叩き始めた。
ドン、ドン、ドンドン、ドン。
「このリズムの後に、声を出せ」
隊列がざわめく。
「声、でございますか」
「そうだ。何でもいい。好きな言葉を叫べ」
ドン、ドン、ドンドン、ドン。
沈黙。
それを破ったのは、あの若者だった。
「聖女様ーッ!!」
透き通るような声が、武練場に響いた。
一瞬の沈黙の後、隣の者が続いた。
「聖女様ーッ!!」
また一人。また一人。波が広がるように、隊列の中から声が上がっていく。最初は戸惑いがちだった声が、だんだん大きくなっていく。揃っていく。
農夫も、気づいたら叫んでいた。
「聖女様ーッ!!」
自分の声が、他の声と混ざり合う。その瞬間、農夫の胸の奥に、言いようのない高揚感が走った。なんだこれは、と思った。おかしい、と思った。しかし止められなかった。
ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ。
「聖女様ーッ!!」「聖女様ーッ!!」
織田信敏が太鼓を叩きながら、恍惚の表情で天を仰いだ。
「あははは! 良いぞ、これぞ神宮の、杏様の軍楽の礎だ!」
「もっと高らかに!」
松平が喉を枯らして叫ぶ。
「太鼓の後に掛け声を入れろ! 声が小さい! 聖女様に届かぬ!」
「聖女様ーッ!!」
数百の声が、森の奥まで響き渡った。鳥が驚いて飛び立つ。木々が揺れる。
しかし歌は、まだ生まれていなかった。
掛け声はある。リズムはある。熱もある。しかし、それらを一つに束ねる「言葉」が、まだなかった。織田も松平も、それを感じていた。何かが足りない。あと一つ、何かが。
その「何か」がどこから来るのかを、二人はまだ知らなかった。
しかし、武練場に響く数百の掛け声を聞きながら、織田信敏はにたりと笑った。
時間の問題だ、と思った。
前線では、盛岡の演習場で久保田討伐が検討されていた。その裏で、山形の森の中では、世界を破滅へ誘うための最悪の【狂信の行進】が、着々と、そして悍ましい熱量で積み重なっていた。
歌はまだ、生まれていない。
しかし、その胎動だけは、すでに始まっていた。