仙台藩の使者が桃園神宮を訪れたのは、朝餉の片付けが終わった頃だった。
名もない巫女が「お客様です」と告げに来た時、杏はちょうど境内で宝刀の手入れをしていた。使者の口上を聞き終えると、杏は刀を鞘に収め、立ち上がった。
「分かった。行くよ」
「杏様、少々お待ちを」
鷹山が静かに進み出た。使者を下がらせ、杏の前に立つ。
「仙台は議論の場でございます。百戦錬磨の重臣たちが居並ぶ中、決して感情で動いてはなりませぬ。言葉で押し返すのが、この場の作法にございます」
「分かってるよ、鷹山」
杏が笑顔で答えた。
鷹山は黙って、その笑顔を見た。
(……言葉で押し返す気など、最初からない目だ)
何かが引っかかった。しかし言葉にならなかった。証がない。ただの老爺の杞憂かもしれない。
その時、本殿から桃華が出てきた。旅支度を整えた杏を見て、心配そうに眉を寄せる。
「杏、仙台へ行くのですね。……無理をしないでね」
「大丈夫だよ、お姉様」
「仙台の方々と、仲良くお話してきてね。戦にならないのが一番だから」
「そうだね」
桃華が微笑む。杏も微笑む。姉妹の間に、穏やかな空気が流れた。
桃華は安心したように頷き、杏の手をそっと握った。
「あなたなら大丈夫。気をつけてね」
「うん」
杏が踵を返し、山道へと歩き出す。光昭がその後に続いた。
鷹山だけが、その背中を見送ったまま、動かなかった。
桃華が隣に並んだ。
「鷹山、どうかしましたか?」
「……いいえ」
鷹山は短く答えた。桃華には、これ以上言えなかった。杏なら大丈夫、と信じているこの人に。
(あの目は、話し合いに向かう者の目ではない)
山道に消えていく杏の背中を、老将はいつまでも目で追っていた。
その頃、奥州の各地で、奇妙な噂が広がり始めていた。
天童や上山の境界の森から、夜な夜な太鼓の音と歌声が聞こえてくる。その歌が、伝言のように山を越え、村から村へと伝わっていく。
「一つ、ひばりが鳴いたなら……」
最初に不審に思ったのは、出羽の小藩、鶴岡近郊の小藩主だった。
「この歌は何だ。誰が作った」
家臣に問うても、誰も知らなかった。ただ、領内の若者たちが、いつの間にかこの歌を口ずさんでいた。どこで覚えたか問うと、「気づいたら知っていた」と答えた。
別の小藩の家老が、似たような報告を受けたのは、ほぼ同じ時期だった。
「鷹狩りの惨劇の話は聞いていたが……その頃から、この歌も広まり始めたのではないか」
家老が首を捻る。
「偶然にしては、広まり方が早すぎる。それに……」
家老は言葉を切った。
「この歌を聞いた者が、皆、妙に明るい顔をしているのが……気になる」
誰も命じていない。誰も教えていない。しかし歌は、奥州の山野を、静かに、確実に、伝染していた。
仙台藩一門、および重臣たちが居並ぶ青葉城の大広間は、緊迫した空気に包まれていた。
新政府軍(薩長)の要求に対し、奥羽の諸藩が結束して立ち上がるべきか、それとも恭順すべきか。藩論は真っ二つに割れていた。廊下の外まで、重臣たちの息を詰めた気配が漂っていた。
「――静粛に。本日は、我が奥羽の行く末を照らす『桃園神宮』より、桃ノ宮杏様を論客としてお招きした」
上座に座る仙台藩主・伊達慶邦が声を響かせる。慶邦は、神宮の闇金融がもたらす富と世に聞こえた桃華の奇跡の威光を政治的に利用し、一気に「奥羽越列藩同盟」の結成へ向けて藩論を強硬にまとめ上げようとしていた。
普通の巫女服を揺らし、光昭を伴って静かに大広間へ進み出る杏。百戦錬磨の仙台藩の重臣たちの視線を浴びても、微塵も臆していなかった。その赤目の奥には、冷徹な絶対的暴力を確信する光が宿っている。
廊下の外で、光昭は杏の後ろに控えながら、大広間の空気を吸い込んだ。
重い。何もかもが重かった。重臣たちの視線も、慶邦の野心も、杏の赤目の静けさも、全部が光昭の胸に圧し掛かってくる。
(鷹山の言う通りだ。ここは言葉の場だ。杏は言葉で戦うはずだ)
そう思いながら、光昭は杏の袖をそっと見た。懐が、わずかに膨らんでいた。
胸が冷えた。
「……ふん、神を騙るカルトの小娘を会議の席に招くとは、我が主君ながら正気を疑う!」
沈黙を破り、痛烈な反論の声を上げたのは、新政府への恭順を主張する仙台藩の宿老だった。
「薩長は近代的な大砲と銃を持っているのだぞ! 独自の祝詞だの、病を癒やす光だの、そんな迷信で戦に勝てると思うてか! 我ら仙台藩が生き残る道は、新政府への恭順のみ。神宮などという胡散臭い泥船に、我が藩の命運を預けるわけにはいかぬ!」
重臣たちの多くが、その言葉に深く頷く。藩論が恭順へと傾きかけたその瞬間、伊達慶邦が焦りの表情を浮かべた。
しかし杏は、一言の反論すら口にしなかった。
ただ、無邪気なほど綺麗な笑みを浮かべただけだった。
「――おじさん、言葉でお話ししても、私の言いたいこと、きっと伝わらないよね」
光昭が、息を呑んだ。