神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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9-2 熔解の惨劇と、脳内革命

杏が、普通の巫女服の袖から取り出したスネルの液体化学兵器の小瓶を、宿老へ向けて投擲した。

 

パリン、と大広間の畳の上にガラスが砕け散る、美しい音が響く。

 

直後、青葉城の歴史上、最も悍ましい絶叫が木霊した。

 

液体が触れた瞬間、猛烈な白煙と共に、人間の肉と骨が「じくじくと」凄まじい音を立てて沸騰し、溶け始めたのだ。

 

「ぎゃあああああああッ!!! あ、熱い、溶ける、俺の顔が、肉がァァァァッ!!!」

 

宿老は自らの顔を掻きむしるが、その指先までもがドロドロの肉泥と化して床に落ちていく。さらに充満した塩素の濃縮ガスが彼の肺を内側から焼き裂き、彼は大量の血の泡を吐いて畳の上に頽れ、衣服だけを残した肉塊へと姿を変えた。

 

「ひ、ひぃぃぃぃっ……!!」

 

大広間にいた他の重臣たちが、腰を抜かして這いずり逃げる。腰の刀に手をかけた者が一人いたが、充満し始めた黄色い霧を浴びた瞬間、咳き込んで膝をついた。逃げようとした者が将棋倒しになり、廊下へと雪崩れ込んでいく。

 

広間に残ったのは、伊達慶邦だけだった。

 

光昭は、動けなかった。

 

止めるべきだった。懐の膨らみに気づいた時、止めるべきだった。しかし止められなかった。あの瞬間、杏の横顔があまりにも静かで、あまりにも綺麗で、光昭の体は言うことを聞かなかった。

 

(私は……私は何をしているんだ)

 

自分の手が震えていた。足元の畳が、赤黒く染まっていくのが見えた。それでも足は、杏の隣に立ち続けていた。

 

玉座の伊達慶邦が、その光景を凝視していた。

 

名門・伊達家の誇り、近代兵器への恐怖、そして目の前の少女が起こした「悪魔の奇跡(絶対的暴力)」の美しさと悍ましさ――そのすべてが脳の許容量を一瞬で超え、彼の理性を完全に焼き切った。

 

「……あ、ああ……これだ……これこそが、我が求めた……絶対の尊王……。京都の偽物の帝などいらぬ。……我らが仰ぐべき真の天子、真の神は……奇跡を起こされる、桃園神宮の『桃華様』をおいて他にはない……ッ!!」

 

慶邦は玉座から転げ落ちるようにして床に膝を突き、溶けた宿老の血の海の前に立つ杏の足元へ、ガタガタと震えながら這いつくばった。

 

彼の中で、京都の朝廷を滅ぼし、聖女を新たな頂点に据える【桃華天皇構想】が、完全に発芽した瞬間だった。

 

「あはは! 桃華天皇、か。いい響きだね、おじさん」

 

杏はツインテールを揺らし、平伏する慶邦を見下ろして鈴を転がすように笑った。

 

光昭はその横で、恐怖に震えながらも、杏の放つ圧倒的な「神聖さ」の魔力にますます魂を深く囚われていた。理性は「逃げろ」と叫んでいる。しかし足が動かない。この人の隣にいると決めた。どこまでもついていくと誓った。その誓いだけが、光昭を縛り続けていた。

 

杏は扇子の先で、慶邦の焼き切れた頭を小突くようにしながら、冷酷な笑みを深めた。

 

「お姉様が新しい天皇になるなら、それを守るためのお侍さんの親分が必要だよね。……いいよ、おじさん。私の下で、お姉様のために戦う『征夷大将軍』にしてあげる。だから、まずはその牙で、お姉様を裏切る悪い虫を噛み潰してきてよ」

 

慶邦が顔を上げた。溶けた宿老の血が、その額に散っていた。しかし慶邦はそれを拭おうともしなかった。むしろその汚れを、勲章のように受け止めているかのようだった。

 

「ははっ……! この伊達慶邦、神宮の征夷大将軍として、桃華天皇の御世の敵をすべて溶かし尽くしてご覧に入れます……!!」

 

理性を失い、神宮の最高位の操り人形となった伊達慶邦は、震える手で筆を握ると、一枚の軍令書に叩きつけるように署名した。

 

「盛岡藩主・南部利剛に告ぐ……! 新政府へ尻を振る裏切り者、久保田藩(秋田)を……一文字残さず根切りにせよ……! 奥羽越列藩同盟の総意として、久保田討伐の許可を与える……ッ!!」

 

「ははっ! ありがたき幸せッ!!」

 

後方に控えていた盛岡藩の使者が、狂喜の笑みを浮かべてその軍令書をひったくるように受け取り、廊下へと走り去った。その足音が遠ざかっていく。

 

広間に、静寂が落ちた。

 

溶けた肉の臭いが、まだ漂っていた。慶邦が平伏したまま、小刻みに震えている。

 

杏は、その一連の光景を見ながら、静かに笑っていた。

 

ふと、横を見た。光昭が、青白い顔で立っていた。震えていた。それでも、逃げていなかった。

 

「光昭」

 

「……うん」

 

「ちゃんと見てた?」

 

光昭は答えられなかった。見ていた。全部見ていた。だから何も言えなかった。

 

杏が、光昭の手をぎゅっと握った。

 

いつもと同じ、温かい手だった。

 

「大丈夫だよ。これで、お姉様を脅かす人が、また一人いなくなったんだから」

 

光昭は、その手を握り返すことができなかった。

 

廊下の外から、逃げ出した重臣たちの足音がまだ聞こえていた。その足音が遠ざかるにつれ、光昭の胸の中で、何かが静かに、돌이킬 수 없을 정도로――取り返しのつかない形で、沈んでいった。

 

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