神の霧が去る時に ~幕末化学兵器異聞~   作:公家麻呂

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1-3 狂気の歯車が噛み合う瞬間

 

「……河井殿」

 

低く、静かな声だった。

 

「はい」

 

「藩を守るための剣は必要だ」

 

鷹山は継之助を見据えたまま、一拍おいた。本殿の柱が、遠い風の音を吸い込むように軋む。

 

「――だが剣は、人を守るために抜くものだ。抜くことそのものが目的になった時、人は戻れなくなる」

 

継之助は、無言だった。

 

杏も、さっきまでの笑顔を消していた。

 

鷹山が制するより早く動いたのは、やはり杏だった。

 

「あはは! 面白いじゃない、継之助! フランスのお鉄砲も、あなたたちの科学の知恵も――防衛の盾になるなら、いくらでも神宮の金貨をあげるわ!」

 

「……ありがたき幸せ」

 

継之助が、深く頭を垂れる。

 

「必ず」

 

桃華の祈りの光が、ふたりの上に静かに差した。

 

――遠い異国、プロイセン。

 

夜の執務机の上に、黄色い液体を満たした小さな瓶が置かれている。

 

「極東の猿共は、面白い玩具を見つけたな」

 

スネル兄弟の片割れが、瓶を指先で軽く弾きながら、薄く笑った。

 

世界の破滅へ向けた最初の狂気の歯車が、この極東の山奥で――カチリと、冷酷に噛み合った。

 

 

 

 

 

 

 

辞去の挨拶を済ませ、継之助が石畳を踏んで境内を歩き出した時だった。

 

井戸端で、色白で小柄な千代が桶を抱えてせっせと水を汲んでいた。その背中に、竈の前のおりんが大声で呼びかける。

 

「千代ー! 今夜のお味噌汁、舞茸にしたよ! 杏様が山で採ってきてくれたやつ!」

 

「まあ、嬉しい! 杏様ったら、また山に入ったんですか?」

 

「朝のうちにこっそり抜け出したみたい。桃華様には内緒だって」

 

千代がくすくすと笑いながら桶を置き、ふと石畳の端を見やった。

 

「さくらさん、また一人でやってる。手伝いますよ」

 

「……いい」

 

さくらが短く答え、箒を動かし続ける。しかし千代がそれでも隣に並んで箒を手に取ると、さくらは少しだけ箒の動きを緩めた。二人並んで、散った桃の花びらを黙々と掃いていく。

 

「ねえ千代、さくら」

 

おりんが竈から顔を出し、にやにやしながら声を潜めた。

 

「さっきの人、見た? 泥だらけの袴の、すごい目をした侍」

 

「見ました。何度か来てる方ですよね」

 

「あの人、絶対ただの参拝客じゃないよね。桃華様に何か頼みに来てるんじゃないかな」

 

さくらが箒を止め、ちらりとおりんを見た。

 

「……余計なことを考えるな」

 

「分かってるよ、でも気になるじゃない」

 

おりんが肩をすくめて笑う。千代はまた静かに桃の花びらを掃きながら、ぽつりと呟いた。

 

「……桃華様が、守ってくださるから」

 

それきり、三人は黙った。夕暮れの風が、境内をゆっくりと通り抜けていく。

 

継之助は足を止め、しばらくその光景を見ていた。

 

(……守るべきものとは、これだ)

 

そう思った。思ってしまった。

 

泥に汚れた草履を踏み出し、継之助は振り返らずに山道を下っていった。

 

 

 

 

 

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