「……河井殿」
低く、静かな声だった。
「はい」
「藩を守るための剣は必要だ」
鷹山は継之助を見据えたまま、一拍おいた。本殿の柱が、遠い風の音を吸い込むように軋む。
「――だが剣は、人を守るために抜くものだ。抜くことそのものが目的になった時、人は戻れなくなる」
継之助は、無言だった。
杏も、さっきまでの笑顔を消していた。
鷹山が制するより早く動いたのは、やはり杏だった。
「あはは! 面白いじゃない、継之助! フランスのお鉄砲も、あなたたちの科学の知恵も――防衛の盾になるなら、いくらでも神宮の金貨をあげるわ!」
「……ありがたき幸せ」
継之助が、深く頭を垂れる。
「必ず」
桃華の祈りの光が、ふたりの上に静かに差した。
――遠い異国、プロイセン。
夜の執務机の上に、黄色い液体を満たした小さな瓶が置かれている。
「極東の猿共は、面白い玩具を見つけたな」
スネル兄弟の片割れが、瓶を指先で軽く弾きながら、薄く笑った。
世界の破滅へ向けた最初の狂気の歯車が、この極東の山奥で――カチリと、冷酷に噛み合った。
辞去の挨拶を済ませ、継之助が石畳を踏んで境内を歩き出した時だった。
井戸端で、色白で小柄な千代が桶を抱えてせっせと水を汲んでいた。その背中に、竈の前のおりんが大声で呼びかける。
「千代ー! 今夜のお味噌汁、舞茸にしたよ! 杏様が山で採ってきてくれたやつ!」
「まあ、嬉しい! 杏様ったら、また山に入ったんですか?」
「朝のうちにこっそり抜け出したみたい。桃華様には内緒だって」
千代がくすくすと笑いながら桶を置き、ふと石畳の端を見やった。
「さくらさん、また一人でやってる。手伝いますよ」
「……いい」
さくらが短く答え、箒を動かし続ける。しかし千代がそれでも隣に並んで箒を手に取ると、さくらは少しだけ箒の動きを緩めた。二人並んで、散った桃の花びらを黙々と掃いていく。
「ねえ千代、さくら」
おりんが竈から顔を出し、にやにやしながら声を潜めた。
「さっきの人、見た? 泥だらけの袴の、すごい目をした侍」
「見ました。何度か来てる方ですよね」
「あの人、絶対ただの参拝客じゃないよね。桃華様に何か頼みに来てるんじゃないかな」
さくらが箒を止め、ちらりとおりんを見た。
「……余計なことを考えるな」
「分かってるよ、でも気になるじゃない」
おりんが肩をすくめて笑う。千代はまた静かに桃の花びらを掃きながら、ぽつりと呟いた。
「……桃華様が、守ってくださるから」
それきり、三人は黙った。夕暮れの風が、境内をゆっくりと通り抜けていく。
継之助は足を止め、しばらくその光景を見ていた。
(……守るべきものとは、これだ)
そう思った。思ってしまった。
泥に汚れた草履を踏み出し、継之助は振り返らずに山道を下っていった。