出羽の桃園神宮、本殿の裏手にある静かな桃の庭園。一万石の小藩ゆえに列強や新政府の影に怯え、常に心を休める場所のなかった若き藩主・柳沢光昭は、この庭園を訪れる時だけは、一人の穏やかな青年に戻ることができた。
「光昭、遅い! 待ちくたびれちゃったじゃない」
振り返った杏は、まだ返り血など一滴も浴びていない、純白と緋色の普通の巫女服に身を包んでいた。ツインテールを揺らし、ぷくっと頬を膨らませる姿は、どこにでもいる可憐な少女そのものだった。
「すまない、杏。私の藩の年貢の計算が長引いてしまって……。あ、これ、お土産だよ。新潟の美味しい飴菓子を見つけたんだ」
光昭が気恥ずかしそうに懐から包みを取り出すと、杏の瞳がぱっと輝いた。
「わあ、嬉しい! やっぱり光昭は優しいね。上杉の古い先生(鷹山)は怖いことばかり言うし、お姉様(桃華)は祈ってばかりだから、あなたとお話ししている時が、私、一番楽しいの」
二人は並んで縁側に腰掛け、飴を口に含みながら、ひらひらと舞い散る桃の花びらを見つめていた。光昭の胸は、隣にいる少女の素朴な愛らしさに、うっすらと、けれど確かに高鳴っていた。一万石の頼りない自分を、身分に関係なく「光昭」と名前で呼んでくれる、世界でたった一人の大切な女の子。杏にとっても、光昭は己の戦闘力や神宮の富を離れて「ただの杏」でいられる、唯一の無垢な居場所だった。
飴を舐め終えた杏が、少し真面目な顔をして、光昭の着物の袖をきゅっと掴んだ。
「ねえ、光昭。……明日ね、長岡藩の河井様と、庄内の酒井様が、新しい『南蛮の商人』を連れてくるの。何だか、フランスのルトルースよりも、もっとすごくて強い『霧のおもちゃ』を持ってるんだって」
「南蛮の商人? フランスではなく、別の国かい?」
「うん。プロイセンの、スネルっていう兄弟。長岡で商談をするから、私にも来てほしいって言われてるの。……でもね、河井様も酒井様も、お姉様のことになるとすごく真剣なお顔になるの。私、何か失礼をしちゃいそうで……。大事なお話らしいから、余計に緊張しちゃって」
杏が膝の上で指を絡め、珍しく視線を落とした。
「お姉様はね、『光昭様なら大丈夫』って言ってくださったの。神宮側の付き添いとして、一緒に来てほしいって。……でも本当は、私が、光昭に来てほしいんだ」
潤んだ赤目がそっと光昭を見上げる。
「河井様も酒井様も、きっと私のことを、神宮の『牙』として見てる。でも光昭だけは、私のことをただの杏として見てくれるから。……あなたが隣にいてくれたら、私、どんなおっかない男の人の前でも平気な気がするの」
光昭は胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。いつもはチート級の技量でお姉様を守ると息巻いている強がりな彼女が、自分にだけ、こんな小さな子供のような弱音を見せてくれている。
「……ああ、もちろんだよ、杏。一万石の私じゃ、長岡や庄内の大名たちの前でどれだけ役に立てるか分からないけれど。でも、君が不安なら、私はどこまでだって一緒に行くよ。君の隣で、君の盾になる」
「本当に? 約束だよ、光昭!」
杏は満面の笑みを浮かべ、光昭の手をぎゅっと握りしめた。光昭の顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。
しばらく、二人は黙って桃の花びらが舞い落ちるのを見ていた。
やがて杏が、握った手をほんの少しだけ強くして、ぽつりと言った。
「ねえ、光昭」
「なんだい」
「……ずっと一緒だよね? どんなことがあっても」
光昭は、杏の横顔を見た。笑っていた。けれどその笑顔の奥に、何か小さな翳りのようなものが過ぎったのを、光昭は見た気がした。
「うん。ずっと一緒だよ」
光昭は、迷わずそう答えた。
その約束の言葉が、これほど残酷な重さを持つことになるとは、この時の二人には、まだ知る由もなかった。
翌日。光昭を伴い、普通の巫女服を揺らして長岡の本陣へと足を踏み入れた杏。だが、その部屋の奥で、冷酷な笑みを浮かべて待っていたのは、プロイセンの死の商人、ヘンリー&エドワルド・スネル兄弟だった。この商談の席で、彼らが提示した「塩素ガスと黄リン」という悪魔の設計図、そしてその圧倒的な破壊力の魔力が、これから二人の運命、そして日本全土の運命をどのように変えていくのか。この時の二人は、まだ知る由もなかった――。