朝霧がまだ山裾に残る頃、杏と光昭は桃園神宮の石段を下り始めた。
杏はいつもの緋色の巫女服を纏い、ツインテールを朝風に揺らしながら、軽い足取りで石段を跳ねるように降りていく。光昭はその半歩後ろを、藩主としての羽織袴に身を包んでついていった。
「光昭、遅い!」
「す、すまない。石段が急で……」
「もう、情けないなあ」
杏がくるりと振り返り、にやりと笑う。光昭の顔が赤くなった。
神宮の朝は静かだった。千代が井戸端で水を汲む音。おりんが竈に火を入れる匂い。さくらの箒が石畳を掃く、規則正しい音。今日もいつもと変わらぬ朝の営みが、二人の背中を見送っていた。
山道に入ると、杏は少し黙った。
「……ねえ、光昭」
「うん」
「お姉様、今朝も祈ってたよ。夜明け前からずっと」
「そうか……」
「あの人、自分が倒れるまで止まらないから。私がいないと、誰も止められないの」
光昭は、杏の横顔を見た。笑っていない。珍しく、真っ直ぐ前を向いていた。
「だから、強くならなきゃいけないんだ。私が、お姉様の代わりに全部守れるくらい」
その言葉の重さを、光昭はまだ測りきれなかった。ただ、隣を歩く少女の小さな肩が、今日は心なしか固く見えた。
長岡までの道は、半日ほどかかった。
重々しい沈黙が、長岡藩本陣の奥座敷を支配していた。
一万石の小藩大名である柳沢光昭は、部屋を満たす大藩の首脳陣の威圧感に気圧され、喉を鳴らして杏の斜め後ろに身を縮めていた。上座には河井継之助と牧野忠訓。その斜め向かいに、庄内藩の酒井忠篤が鋼のような無表情で座っている。それぞれが率いる藩の石高と武力を思えば、一万石の自分がこの場にいること自体、場違いにも程があった。
だが、杏の手が不安げに自分の着物の袖を掴んでいるのを感じ、光昭は小さく息を吸って背筋を伸ばす。「君の盾になる」という昨日の誓いだけが、彼の支えだった。
「――お揃いですか。では、始めましょう」
河井継之助が冷徹な声を響かせ、パチリと扇子を閉じた。その隣では、若き藩主・牧野忠訓が、まだ見ぬ異国の技術への期待に胸を躍らせ、落ち着かない様子で膝を揺らしている。
「杏様。こちらが我が庄内藩のルートで極秘裏に接触した、プロイセンの商人、スネル兄弟にございます」
凄まじい規律の覇気を放つ酒井忠篤が短く紹介すると、上座の二人の異国人が、酷薄な笑みを浮かべて微かに頭を下げた。
金髪に灰色の目。背が高く、肩幅の広い体躯。場に合わせた和装を纏っているが、その所作のどこにも、この国への敬意は感じられなかった。ただ、値踏みするような視線だけが、座敷の全員を舐めるように動いた。
「お初にお目にかかります、桃園神宮の可憐な巫女。……いや、出羽の『本物の奇跡』を裏で差配する、若き支配者、杏様とお呼びすべきかな?」
ヘンリー・スネルが、流暢な日本語で杏の赤目を見つめる。エドワルドが不気味な黒い革袋を、畳の上に事もなげに置いた。
杏は表情を変えなかった。ただ、袖を掴む指に、少しだけ力が入った。
「ルトルースのフランス製兵器は確かに優秀だ。だが、あれはただの鉄の塊に過ぎない」
ヘンリーが歪な笑みを浮かべ、革袋から一本の頑丈なガラス瓶と、何枚もの精緻な設計図を取り出した。
「我がプロイセンが提供するのは、次世代の戦術――【神の霧】だ」
ガラス瓶の中に閉じ込められていたのは、ドロドロとした不気味な黄色の液体と、白い結晶の塊。牧野忠訓が、身を乗り出すようにしてその瓶を見つめる。
「これは……何だ? 大砲の弾ではないな?」
「ええ、牧野様。これは『塩素』、そして水では絶対に消えぬ『黄リン』のサンプルです」
エドワルドが静かに、しかし淡々と続けた。まるで天気の話をするように。
「これを特製の樽に詰め、風下に向けて開放する。あるいは簡易の木製大砲で撃ち込む。……霧に触れた人間は、自らの肺胞を焼き溶かされ、のたうち回りながら血の泡を吹いて絶命する。炎は肉を骨まで貪り尽くす。弾を当てる必要すらありません。一発で、敵の銃陣地が丸ごと『肉泥の山』に変わるのです」
座敷が、しんと静まり返った。
光昭は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。頭の中で、その言葉が絵になって浮かんでくる。霧。肺腑。血の泡。肉泥。……人間が、人間に対してそんなものを使うのか。
ガラス瓶は、何事もなく畳の上に置かれていた。中の黄色い液体が、行灯の光を受けてゆらりと揺れた。