「素晴らしい……!」
沈黙を破ったのは、牧野忠訓だった。
目を輝かせて膝を乗り出し、ガラス瓶に手を伸ばしかける。
「これがあれば、薩長の大軍も一息に片付けられる。酒井殿、これは本物だ!」
「左様。我が庄内も、この力があれば東北の盾となり得る」
酒井忠篤が静かに、しかし確信を持って頷く。二人の目には、もはや迷いの色はなかった。薩長への憎悪と、藩を守りたいという切迫が、そのまま肯定へと直結していた。
「ま、待ってくれ!」
光昭が思わず声を上げた。
「そんな、戦の誇りも何もないような不気味な呪術の如き兵器……桃華様の清らかな『癒やしの光』に並べるべきものではない……! 霧に触れた者が誰であれ溶けていくなら、それは守るための力ではなく、ただの……」
「黙っていろ、一万石の小倅が」
酒井忠篤の声は低く、しかし座敷の空気を一瞬で凍らせた。
「我らは新政府の理不尽な暴力から国を、藩を、神宮を護るためにここにいるのだ。綺麗事など、薩長の軍靴に踏みつぶされてから言え」
光昭は唇を噛んだ。言い返せなかった。言葉は持っていた。しかしこの場の重さが、一万石の青年の声を封じた。
河井継之助だけは、その間ずっと黙って瓶を見つめていた。
やがて、低く、絞り出すような声で言った。
「……この兵器は、一線を越えている」
座敷が、また静まり返った。
「風向き次第で、敵も味方も、民も子供も関係なく溶かす。これは戦の道具ではなく、ただの『終わり』だ。……だが」
継之助は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「薩長の圧倒的な物量を前に、長岡の領民を、神宮を守り切るには……もはや綺麗な手段だけでは足りぬかもしれぬ」
それは賛成ではなかった。しかし、否定でもなかった。
河井継之助という男が、この日初めて、自分の信念の外側へ足を踏み出した瞬間だった。
「光昭、下がってて」
杏の声が、驚くほど静かに響いた。
光昭がハッとして杏を見つめると、彼女はじっとガラス瓶を見ていた。震えてはいない。ただ、その赤目の奥に、今まで見たことのない何かが、ほんの小さく、灯り始めていた。
脳裏に、二本松の子供たちの姿がよぎる。手足をもぎ取られ、泥の上で泣き叫んでいたあの子たちの顔。桃華の奇跡で笑顔を取り戻したあの子たちが、またいつか、薩長の砲火に晒される日が来るかもしれない。ルトルースの鉄砲では、新政府の物量をいつまで押しとどめられるか分からない。
だが、目の前のこの力があれば。
杏はすぐには口を開かなかった。
ただ、膝の上で、巫女服の袖をきゅっと握りしめた。
「……持ち帰って、考えます」
それだけ言った。
スネル兄弟が顔を見合わせ、薄く笑う。牧野が「賢明な判断だ」と頷く。河井は黙ったまま、目を伏せた。
杏の言葉は、拒絶ではなかった。しかし、受け入れでもなかった。
その小さな迷いの隙間に、確かに何かの種が落ちた。それがいつか芽吹く時、どんな花を咲かせるのかを、この場の誰も、まだ知らなかった。
帰り道、二人は並んで山道を歩いた。
来る時と同じ道だった。しかし、何かが違った。杏の足取りは変わらない。ツインテールも揺れている。それなのに、光昭には、隣を歩く少女が少しだけ遠くなった気がしてならなかった。
夕暮れが山の端に落ちかけ、道の両側の木々が橙色に染まっていく。どこかで鳥が鳴いた。
「ねえ、光昭」
杏がぽつりと言った。
「うん」
「これで、お姉様を傷つける人は誰もいなくなるね」
光昭は、答えられなかった。
言いたいことはあった。それは本当にそうなのか。あの黄色い霧は、お姉様を守るためのものになるのか。それとも、守ろうとしたものを全部溶かしてしまうのではないか。
でも、言葉が出なかった。
杏の横顔は、笑っていた。それがいつもの笑顔と、どこか違う気がした。しかし光昭には、その違いを言葉にする術がなかった。ただ、胸の奥に、冷たい石を一つ飲み込んだような重さだけが、じわりと広がっていった。
神宮の石段が見えてくる頃、千代が水桶を抱えて降りてくるのが見えた。おりんが竈の火を落とす煙が、夕空に細く上っていた。さくらが最後の一掃きをして、箒を立てかけるところだった。
三人とも、帰ってきた二人に気づき、ぺこりと頭を下げた。
光昭は会釈を返しながら、その笑顔を見た。
何も知らない、穏やかな笑顔だった。
この笑顔を守るために、あの霧が使われる日が来るかもしれない。その霧は、この笑顔と同じ世界に存在していいものなのか。
光昭には、まだ答えが出なかった。