高度育成高等学校へと向かうバスのステップを踏み上がった瞬間、俺は自分が乗るバスを間違えたのではないかと本気で疑った。
「えっ……嘘、男子?」
「ヤバい、超イケメンなんだけど……!」
「高度育成の制服だよね? 今年の新入生!?」
車内に足を踏み入れた途端、四方八方から飛んできたのは、ライブ会場のような黄色い歓声と、突き刺さるような熱視線だった。ここまで歩いてくる時も視線は感じたが歓声は無かった。
ざっと見渡したところ、乗客の全員が女性。そして、彼女たちの視線は一点に。俺に集中していた。
無理もないのかもしれない。
この世界は、男が少ない。男女比にして「1対9」という、生物学的なバグを疑うレベルの歪なバランスの上に成り立っている社会だ。5世紀前にY染色体を破壊する致死性の高いウイルスが蔓延し、男は絶滅しかけ人類も滅びかけた。それ以来男の出生数は激減したものの、男を保護しつつなんとか人類は少しずつ人口を増やしている。
そんなわけで男は国家の保護対象であり、一つの特権階級となっている。
当然、俺が今向かっている高校においても男子生徒の数は少ないだろう。
「…………」
俺は心の中で深い深いため息をつきながら、空いている席を探した。
俺の目標は、あくまで「平凡な学生生活」を送ることだ。目立たず、騒がれず、適度にサボり、適度に遊ぶ。そんなありふれた日常を手に入れるためにこの学校に来たというのに、スタートダッシュからしてこの有様である。
バスの後部に席があいているのを見つけた。
あまりの熱視線に耐えかねた俺は、逃げるように窓側の席に座り、窓の外へと顔を向けた。流れる景色をぼんやりと眺め、必死に気を紛らわす。
だが、すぐ隣から伝わってくる強烈な視線。気にしないようにしても、つい気になってしまう。
ふと視線を横にズラすと、俺のすぐ隣の席に、一人の女子生徒が座っていた。
艶やかな黒髪を長く伸ばし、強い意志を感じさせる切れ長の瞳をした、かなりの美少女だ。制服の着こなしもしっかりしていて、知的な雰囲気を漂わせている。
そんな彼女もまた、窓の外を向く俺の横顔を、チラチラと盗み見るように観察していた膝の上に置かれた彼女の鞄は、両手でギュッと力強く握りしめられており、指の関節が白くなっている。視線は不自然なくらい真っ直ぐ前を向いているが、明らかに俺の方をチラチラと盗み見ているのがわかった。
(……なんでそんなに緊張してるんだ?)
俺のいた『ホワイトルーム』という施設では、男も女も関係なかった。
与えられる過酷なカリキュラムの前では、性別などただのデータの一つに過ぎない。俺はそこで、男女問わず周囲を完全にフラットな目で見るように育ってきた。
だから、知識としてこの世界は男優位であることは知っていても、実体験として女子から特別扱いを受けることには全く慣れていない。
「…………あの」
不意に、隣から蚊の鳴くような細い声が聞こえた。
か細く、震えるような声だ。
「ん?」
俺が顔を向けると、彼女はビクッと肩を跳ねさせた。
よく見ると、彼女の白い頬はうっすらと桜色に染まっている。男子に対してはどう接していいかわからない、いわゆる『奥手』というやつなのだろうか。
「あ、その……えっと、わ、私は……」
「……?」
「き、今日は、いい、お天気、ね?」
絞り出すように出てきたのは、天気の話だった。
しかも声が上ずりすぎて、疑問形になってしまっている。窓の外はあいにくの曇り空で、今にも雨が降り出しそうな気配すらあるというのに。
「そうだな。少し雲が多いが、悪くない」
俺はとりあえず、当たり障りのない返事を返した。
俺の返答を聞いた彼女は、「会話が成立した……!」と言わんばかりにパァッと顔を輝かせた。
なんだこの生き物は。
可愛いというよりは美人の少女が子どものように目が輝くのを見て、少し面白いなと思った。
俺が心の中でそんな感想を抱きながら、再び窓の外の景色に視線を戻そうとした、その時だった。
――ガコンッ!!
バスが道路の大きなくぼみにタイヤを取られ、車体が大きく跳ねた。
「きゃっ!?」
「おっと」
突然の強い揺れに、バランスを崩す乗客たち。
座っていた俺も例外ではなく、体が大きく横に持っていかれた。そして、不運にも俺の肩が、隣に座っていた彼女の肩に軽くぶつかってしまった。
「――悪い。大丈夫か?」
俺はすぐに姿勢を立て直し、隣の彼女に声をかけた。
「えっ……?」
彼女は目を丸くして、信じられないものを見るかのように俺を凝視した。
その瞳は限界まで見開かれ、口はパクパクと金魚のように動いている。
「あ、謝っ……た?」
「……? ああ、俺がぶつかったからな。どこか痛めたか?」
「っっ!!」
ボンッ、という音が聞こえそうな勢いで、彼女の顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
まるで茹でダコだ。いや、完熟したトマトか。
彼女は慌てて両手で顔を覆い隠そうとするが、指の隙間から見える肌も尋常ではない赤さを帯びている。
「だ、だだだ大丈夫よ!? 痛くなんてないわ! むしろ私の方こそ、あ、あなたの尊いお体にぶつかってしまって、その、申し訳……っ」
「尊い体ってなんだ。俺はただの高校生だぞ」
「た、ただの高校生なわけないじゃない! 希少な男子が、女にぶつかったくらいで謝るなんて……そ、そんなの、聞いたことないわ!」
彼女はパニック状態のまま、早口でまくしたてた。
なるほど。どうやらこの世界における「普通の男子」というのは女子にぶつかったら謝らないらしい。
俺の「普通に謝る」という行動が、逆に異常なものとして映ってしまったわけだ。
これは誤算だった。
平凡を目指す俺にとって、目立つ行動は避けたい。
だがらといって、少なくとも俺は、特権階級の椅子に座りたくない。男が優位であることを生かして、女性にあれこれと指示をしたり、世話をしてもらうのは、平凡とは言えないだろう。
(少しくらい目立つのは仕方ないか…)
目立ってしまうが、対等な関係の方が平凡らしくて俺には好ましかった。
「……気にしすぎだ. 俺は自分のミスを認めただけだ。男だろうが女だろうが、ぶつかったら謝るのが筋だろう?」
俺が淡々とそう言うと、彼女はさらに衝撃を受けたように息を呑んだ。
そして、覆っていた両手をゆっくりと下ろし、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「男も女も……関係ない? あなた、自分がどれだけ特別な存在か、わかっていないの……?」
「特別扱いは好きじゃないんだ。俺は、周りと同じように対等に接してほしいと思ってる」
俺の偽りない本音だった。
一般的な男子生徒としての平凡からは遠ざかっているかもしれない。
だが、男であるという理由で特別扱いされても嬉しくない。
「たいとう……」
彼女はその言葉を、宝物でも見つけたかのように小さく反芻した。
そして、さっきまでの激しい動揺を少しずつ落ち着かせると、姿勢を正し、小さく咳払いをした。
「……驚いたわ。あなたみたいな考え方をする男子がいるなんて、思ってもみなかった」
声の震えは消えていたが、頬の赤みはまだ引いていない。
しかし、彼女の瞳には先ほどのパニックの代わりに、どこか俺に対する強い興味――あるいは好意のようなものが混ざっているように見えた。
「その……私は、堀北鈴音」
彼女は少しはにかむように、しかし意を決したように名乗った。
「同じ制服ってことは、あなたも高度育成の生徒よね? もしよかったら、あなたの名前も教えてもらえるかしら……?」
上目遣いでこちらを窺ってくるその様子に思わずドキリとした。
「……綾小路清隆だ」
「綾小路清隆、くん……」
堀北は俺の名前を口の中で転がし、またしても嬉しそうに頬を緩めた。
「ふふっ。清隆くんって、なんだかすごく……優しいのね」
いや、ただ謝っただけなんだが。
俺はこれ以上彼女の誤解を深めないように、無言で窓の外に視線を戻した。
バスは高度育成高等学校に向けて、なだらかな坂道を登っていく。
それにしても初対面の女子にただ謝っただけで、ここまで好意を持ってもらえるとは。
この「男女比1対9」という狂った世界で、俺が目立たず平穏無事に生き抜くためには、どうやら『男としての振る舞い』を一から学び直す必要がありそうだ。
「ねえ、清隆くん。学校に着いたら、案内してあげましょうか? 私、学校のパンフレットを隅々まで読み込んでるの」
隣から、すっかり懐いてしまった子犬のような声がかけられる。
案内は助かるな。
「じゃあ、頼む」
「……っ! に、 荷物も持ってあげるわ! す、少しでも身軽の方がいいでしょ?」
「いや、自分の鞄くらい自分で持てる」
「そんなのダメよ! 男子の繊細な手にマメでもできたらどうするの!?」
同級生の異性に荷物を持たせる行為のどこが平凡なんだろうか。
どうやら、俺の目標としていた平穏な日常は、バスに乗った瞬間からすでに崩壊へのカウントダウンを始めていたらしい。
隣で世話を焼きたがってソワソワしている堀北を、ただ静かに見つめ返すことしかできなかった。
ツンデレ堀北も可愛いけど、世話焼き堀北も可愛い。