ガラリと教室のドアが開き、コツコツとヒールを鳴らして一人の女性教師が入ってきた。
何だか俺の方に視線をちらちら向けている気がするが、気にしないことにする。
黒のスーツを隙なく着こなし、どこか気怠げでありながらも鋭い眼光を放つその女性は、教卓の前に立つと黒板に『茶柱佐枝』と自分の名前を書き殴った。
「私がこの1年Dクラスの担任を務める茶柱佐枝だ。お前たち新入生に、まずはこの学校のルール――『Sシステム』について説明しておく」
茶柱先生から語られたのは、この高度育成高等学校が国から手厚い支援を受けていること、そして生徒たちには毎月『プライベートポイント』と呼ばれる電子マネーが支給されるということだった。
しかも、その額は月に10万ポイント。1ポイント=1円換算らしいので、いきなり毎月10万円のお小遣いがもらえる計算になる。
(……10万、か)
俺は配られた学校指定の学生証を眺めながら、心の中でひっそりと驚いていた。
高校生に対して月に10万円。あまりにも破格すぎる。
だが、茶柱先生は「この学校は実力至上主義だ。お前たちの『実力』を学校側が評価し、それに応じてポイントが支給される」とも言っていた。
もしかしすると、毎月の支給額は変わるかもしれない。
(……まあ、どっちでもいいか)
思考を巡らせてみたものの、すぐにどうでもよくなった。
俺の目標はあくまで「平凡で平穏な学生生活」を送ることだ。
システムがどうであれ、目立たず適当にやり過ごせばいい。
やがてホームルームが終わり、茶柱先生が教室を出ていくと、静まり返っていた教室内がにわかに活気づき始めた。
「あ、あのさ! みんな、せっかく同じクラスになったんだし、自己紹介とかしないかな?」
明るくよく通る声が教室に響いた。
声の主は、教卓の近くの席に座っていた女子生徒だった。整った顔立ちに、誰からも好かれそうな爽やかな雰囲気。彼女のネームプレートには『平田洋介』と書かれている。
「さんせー! 私たち、まだみんなの名前も全然わかんないし」
ギャルっぽい女子も賛同し、そのまま自己紹介の流れになっていく。
彼女の提案に、クラスの女子たちの多くが「賛成!」「いいね!」と同調し始めた。
「チッ……くだらねえ」
しかし、その和やかな空気を引き裂くように、乱暴に椅子を蹴り上げて立ち上がった者がいた。
燃えるような赤髪をツーブロックにし、制服の着こなしもだらしなく崩した、いかにもヤンキーといった風貌の女子生徒。須藤というらしい。
須藤は鋭い三白眼でクラス中をグルリと睨みつけると、舌打ちをした。
「自己紹介だぁ? 馴れ合いたい奴等だけで勝手にやってろ。あたしは寮に帰る」
そう吐き捨てて、彼女は鞄を肩に担ぎ、乱暴な足取りで教室から出て行ってしまった。
その圧倒的な威圧感に気圧されたのか、大人しそうな女子生徒が数人、ビクビクしながら須藤の背中を追うように教室を逃げ出していく。
(……へえ、不良の女子高生か。なんか漫画みたいで新鮮だな)
ホワイトルームにはヤンキーなど存在しなかったため、純粋な感心と共にその背中を見送った。隣に座る堀北は「……野蛮ね」と冷たい視線を送っていたが、それ以上は何も言わなかった。
「えっと……何人か帰っちゃったみたいだけど、残ったみんなで親睦を深めようか! わたしは平田洋介! 中学の頃はサッカー部で、体を動かすのが好きかな。クラスのみんなと仲良くしたいと思ってるからよろしくね!」
平田は見事なカリスマ性を発揮し、気まずくなりかけた空気を一瞬で立て直した。
それに続くように、今度は別の女子が立ち上がる。
「はいはい! 私もいいかな? 私は櫛田桔梗! この学校のみんなと、お友達になりたいって思ってます! 私の最初の目標は、ここにいる全員と仲良くなることです。皆の自己紹介が終わったら、ぜひ連絡先を交換して欲しいです」
これまた、アイドルのような愛嬌と圧倒的なコミュニケーション能力を持った女子だった。
平田と櫛田。この二人の女子が中心となり、自己紹介のハードルをうまい具合に下げてくれたおかげで、他の女子たちも次々と立ち上がり、和やかな雰囲気で自己紹介が続いていった。
「わたしは井の頭です……えっと、編み物が好きです……」と内気な女子が言えば、すかさず櫛田や平田が「えー! すごい! 今度教えて!」と完璧なフォローを入れる。
慣れた動きだった。
次々に進んでいく自己紹介。
自己紹介を終えてほっと息をついたクラスの女子たちが、教室に二人しかいない「男子」――俺と、高円寺をチラチラと意識していた。
「ふふん。さて、そろそろ太陽の出番かな」
数人の女子が終わったところで、教室の中央から優雅に立ち上がった男がいた。
金髪をかき上げ、無駄に開いた胸元のシャツから筋肉を覗かせている男、高円寺六助だ。彼は手鏡をポケットにしまうと、演劇の舞台にでも立っているかのように両手を広げた。
「私の名前は高円寺六助。完全無欠にして、美の体現者だ。レディ達は、この私と同じ空間で呼吸ができる奇跡に感謝し、せいぜい私を美しく引き立てる背景として努力したまえ。ハハハハハ!」
(…………)
俺は思わず、耳を疑った。
なんだその自己紹介は。自分に自信があるのは分かるが、いくらなんでもおかしい。背景ってなんだ。背景になれと初対面の相手に言われて好感を持てるやつはいるのだろうか。
これが男って奴なのか?
男とはいえ、この物言いは駄目だろう。
女子たちの冷ややかな反応を予想した次の瞬間。
「……っっ! きゃあああああっ!!」
「すごぉぉい! さすが男の子!!」
「『背景』だって……! 高円寺くんの背景になれるなんて、光栄すぎる……!」
「なんて自信に満ち溢れているの! 背景になんていくらでもなってやるわ……!」
パチパチパチパチパチパチ!!
教室中から、まさかの割れんばかりの拍手と黄色い歓声が巻き起こったのだ。
(……は?)
俺は完全に思考停止した。
嘘だろ。あんな傲慢極まりない、中二病を拗らせたような自己紹介で絶賛されるのか?
この世界の「男」に対する評価基準は、俺の想像を遥かに超えているらしい。
当の高円寺は、女子たちからの絶賛を浴びても全く動じることなく、「当然のことさ」とフッと冷たい笑みを浮かべて席に座った。その態度がまた、女子たちの「キャー!」という悲鳴を引き出している。
恐るべし男の少ない世界。
「……あんなにはしゃいでバカみたいね。希少な男子だからと媚びを売っているのかしら?」
隣の席の堀北が、呆れたように小さく毒づいた。
堀北は高円寺の自己紹介を聞いて、彼を褒めることもなく彼を褒める他の女子達を冷めたような目で見ていた。もしかしたら高円寺の痛々しさを正確に認識しているのかもしれない。
少し安心した。
俺だけじゃなかった。
その後も、何人かの女子の自己紹介が続いた。
やがて俺の前の席の女子が自己紹介を終え、座った。
(……きた)
次は、俺の番だ。
最後列の窓際。俺がゆっくりと立ち上がると、教室中の空気がピンと張り詰めたのがわかった。
どこか期待に満ちた、食い入るような視線の集中砲火。クラスにいる女子全員が目を輝かせてこちらを見つめている。
俺は少しだけ息を吸い込み、口を開いた。
「えー……綾小路清隆です」
まず、名前。これは基本だ。
問題はここからである。ホワイトルームで育った俺は大体のことは出来る。格闘技、チェス、高度な数学、茶道、ピアノ。他にもあるが、特技として言うと目立つ。
それは「目立たない」という俺の至上命題に反する。
ここは無難に、ひたすら無難に。誰の印象にも残らない、モブキャラAのような挨拶で切り抜けるべきだ。
それが平凡への第一の道の筈だ。
既に男という時点で目立っているのだから、これ以上目立ちたくない。
「……えっと、よろしくお願いします。得意なことは、特に何もありませんが、えー、あー、仲良くなれるように頑張ります」
ペコリと頭を下げて、着席する。
数秒。
教室に、シーンとした静寂が落ちた。
(……失敗したな)
俺は内心、頭を抱えた。
ダメだ。いくら無難を目指したとはいえ、これはあまりにも味がなさすぎる。平均点を目指したら赤点を取ってしまった。平均点は取るつもりだったが、赤点を取るつもりは無かった。
「得意なことは特に何もありません」って、初対面の相手に対するアピールとして最悪じゃないか? 会話の糸口を自ら完全にへし折っている。それに「仲良くなれるように頑張ります」って、なんだその言葉は。
完全にやってしまった。
悪目立ちしてしまった。
気まずい空気を受け入れる覚悟をした、その時だった。
「――――っっ!!」
誰かが、強く息を呑む音がした。
そして。
「可愛い!!」
「男子が『得意なことは何もない』って謙遜することなんてあるの!?」
「男子なのに『仲良くなれるように頑張ります』って……歩み寄ってくれるなんて!!」
「優しすぎる……! 控えめな男子……最高……尊い……っ!!」
パァァァァン!! と、先ほどの高円寺の時を上回るほどの、割れんばかりの拍手と教室に響き渡った。
女子たちが顔を真っ赤にして、拝むように俺を見つめている。何人かは感動のあまりハンカチで目頭を押さえている者すらいる。
(……は?)
俺は二度目の思考停止に陥った。
いやいやいや、おかしいだろ。どこに感動する要素があった?
ただのコミュニケーション不全のボッチ挨拶だぞ?
「綾小路くん、すっごく素敵な自己紹介だったよ!」
教卓の方から、平田がキラキラとした笑顔で声をかけてきた。
「男子だからって特別ぶらないで、歩みよってくれるなんて凄いよ。これから絶対仲良くしようね!」
「うんうんっ! 綾小路くん、男の子なのにすっごく話しやすそう! 私、綾小路くんの隣の席がよかったなぁ~!」
櫛田もピョンピョンと飛び跳ねながら、嬉しそうに手を振っている。一瞬堀北のことを鋭い目で睨んだ気がしたが、多分気のせいだろう。
(……不思議だ)
自己評価としては0点の挨拶だったはずだ。
だが、この男女比の歪んだ世界において、男子のスタンダードは「高円寺のように傍若無人に振る舞うこと」あるいは「特別扱いされて当然という態度をとること」なのだろう。
だから、俺の失敗した自己紹介でも彼女たちに好感を持ってもらえたようだ。
「知的で思いやりがある自己紹介でよかったと思うわ、綾小路君」
隣の席では、堀北が腕を組みながら、どこか誇らしげな顔でウンウンと頷いている。
知的な要素がどこにあったのか聞きたい。
思いやりもどこにあるんだ。
「清隆くんは私が最初に見つけたんだから、他の有象無象には簡単には渡さないわよ……」と、物騒な独り言を呟いているのが聞こえたが、とりあえず聞かなかったことにした。
「……平穏な生活か」
俺は窓の外の曇り空を見上げながら、心の中で小さく苦笑した。
この学校で目立たずに生き抜くのは、ホワイトルームの過酷なテストをクリアするよりも、ある意味で難しいのかもしれない。
だが、焦る必要はない。
まだ始まったばかりなのだ。
これから修正はいくらでも出来る筈だ。
俺は隣で「ねえ清隆くん、次の時間は……」と甲斐甲斐しく話しかけてくる堀北の顔を見つめながら、この異常な学園生活の始まりを受け入れていた。