オーバーロード シャルティアになった一般人、洗脳ルートだけは全力で回避する 作:グロはNG
外の空気は、思っていたよりも生々しかった。
ナザリックの空気は冷たく、重く、どこまでも整っていた。あそこには人間の生活臭がない。血も汗も土も、火事の煙も、恐怖に濡れた息遣いもない。だからこそ怖かったはずなのに、今はその整いきった空気が少しだけ恋しくなる。
フード越しに降る陽の光は、肌の奥へじわじわと不快感を染み込ませてきた。焼けるほどではない。動けないわけでもない。けれど、身体のどこかがずっと「これは好ましくない」と訴えている。吸血鬼の肉体にとって、太陽は敵ではなくても、少なくとも歓迎すべきものではないらしい。
そして、それ以上に厄介なのが匂いだった。
血の匂いがする。
人間だった頃なら、遠くで何かが起きているとしかわからなかったかもしれない。だが今の身体は違った。風に混じる鉄の匂いを、嫌でも拾ってしまう。煙の向こうにある生々しい気配を、喉の奥が勝手に認識する。
気持ち悪い。
そう思った。
けれど、身体はそう思っていない。
その事実が、何より怖かった。精神は拒絶しているのに、肉体の奥底だけが違う反応をしている。乾く。欲する。近づけと囁く。もちろん、本当に声が聞こえるわけではない。だが、そう錯覚するくらいには、喉の奥にある渇きが強くなっていた。
やばい。
血の匂いがわかる。
怖い。気持ち悪い。なのに、身体は気持ち悪がっていない。
俺はフードの下で、唇を引き結んだ。顔に出すな。ここにいるのはシャルティアだ。いや、今は違う。少なくとも、外ではシャルティアの名を出すべきではない。
灰茶色に変えた髪が、外套の内側で揺れる。赤かった瞳は、青灰色に沈んでいる。銀髪赤目の吸血鬼感は、かなり薄まったはずだ。深すぎないフードは日除けになり、顔を完全には隠さない。仮面は使わない。怪しすぎるし、村人を怯えさせるだけだ。
それでも、モモンガ様の隣に立っている時点で、十分に怪しい。
「シャルティア」
モモンガ様の声が聞こえた。
俺はすぐに頭を下げる。
「はい、モモンガ様」
返事をしてから、少しだけ迷う。外部でその名を使い続けてよいのか。村人と接触する可能性があるなら、ここで決めておくべきだ。
「恐れながら、外では別の名を用いた方がよろしいかと」
「別の名か」
「はい。シャルティアの名は、この地では少々目立ちすぎんす。外では、シアとでもお呼びくんなまし」
言ってから、内心で自分の選択を確認する。
シャルでは本名に近すぎる。ティアでも少し残りすぎる。シアなら短く、従者名としても違和感が少ない。たぶん。少なくとも、自分で名乗る時に噛みにくい。
モモンガ様はわずかに考えるように沈黙した。
「よいだろう。では外ではシアと呼ぶ」
「ありがたき幸せにござりんす」
よし。
まず一つ決まった。
これで少しは怪しまれにくい。たぶん。たぶんだけど。
遠くで、また悲鳴が上がった。
胸の奥が冷える。いや、胸など動いているのかどうかも怪しいが、精神的には確かに冷えた。視線を向けると、木々の間から村の一部が見える。煙が上がっている。人が逃げている。鎧を着た者たちが、村人を追い立てている。
知っている光景だ。
知っているはずなのに、知らない。
画面越しに眺めていた出来事は、こんな匂いを伴っていなかった。逃げる人間の足音も、潰れた悲鳴も、燃える木材の音も、血が土に落ちる匂いもなかった。知っていると言い切るには、あまりに現実が近すぎる。
「村が襲われているようだな」
モモンガ様は冷静だった。
その声に、俺は少しだけ救われた。主導権はモモンガ様にある。俺が勝手に動いてはいけない。ここで焦って前に出れば、何を変えてしまうかわからない。
「どうなさりんすか」
問いながら、答えは知っている。
モモンガ様は助ける。
少なくとも、この場では。
「状況を確認する。場合によっては介入する」
「御意」
よかった。
心の底からそう思った。ここは大きく変わっていない。だが、安心したのも一瞬だった。ここに俺がいる。その事実だけで、すでに何かは変わっている。
村人の前では控えめに。
声は柔らかく。
戦闘では出しゃばらない。
モモンガ様の判断を邪魔しない。
でも、必要なら動く。
俺は頭の中で必死に方針を並べた。最後の「必要なら動く」が一番怖い。なにしろ、この身体は動けてしまう。相手を殺せてしまう。しかも、たぶん簡単に。
「シア」
外での名を呼ばれて、一瞬反応が遅れかけた。
「周囲の警戒を任せる。村人が逃げるなら、退避の補助を。私の行動を妨げる者がいれば排除しろ」
排除。
その言葉に、内心が震える。
殺せ、とは言っていない。けれど、この世界で敵を排除するという言葉が、どこまでを含むのかは考えたくなかった。身体は戦い方を知っている。けれど心はまったく追いついていない。
それでも、シャルティアとして返す。
「御意。モモンガ様の御前を汚すものは、わらわが払ってみせんす」
払うって何だ。
殺すってことか。
無理なんだけど。
内心ではそう叫びながら、俺はモモンガ様の半歩後ろへ下がった。従者としては自然な位置。護衛としても、すぐ動ける位置。身体はそれを理解している。俺よりずっと、シャルティアの身体の方が優秀だった。
村へ近づくにつれ、音がはっきりしていく。
泣き声。怒号。剣が何かに当たる音。走る足音。倒れる音。どれも、妙に鮮明だった。耳が良すぎる。鼻も良すぎる。見えすぎる。人間だった頃なら見落としたものまで、今は拾ってしまう。
騎士の一人が、こちらに気づいた。
正確には、モモンガ様に気づいたのだろう。骸骨の異形を見て、明らかに動揺した。だが、すぐに剣を構える。俺の方にも視線が走ったが、フードと変装のせいか、吸血鬼だとは気づいていないらしい。
ただの小柄な従者。
そう見えているなら成功だ。
成功なのに、剣を向けられている時点で全然嬉しくない。
騎士が何かを叫び、こちらへ踏み込んできた。
その瞬間、世界が遅くなった。
いや、実際に遅くなったわけではない。俺の感覚が追いつきすぎている。剣の軌道が見える。足運びが甘い。重心が前に寄っている。喉。腕。膝。胸。どこをどう壊せば止まるかが、考えるより先にわかった。
怖い。
俺は、それが一番怖かった。
一歩踏み出せば殺せる。指先を動かせば裂ける。血が出る。死ぬ。あまりにも簡単にわかってしまう。
駄目だ。
殺すな。
俺は身体が選ぼうとした一番速い手段を、無理やり逸らした。
騎士の剣が振り下ろされる前に、俺の手がその手首を打った。金属の籠手越しに骨へ衝撃が伝わる。嫌な音がしたが、切断はしていない。剣が落ちる。次に、相手の足を払う。地面へ叩きつける寸前で力を抜き、頭を打たない角度へ逃がした。
それでも、騎士は土の上に転がり、呻いた。
死んではいない。
たぶん。
いや、絶対に死んでいないと言い切りたい。動いている。息もある。大丈夫。大丈夫なはずだ。
俺はその上に立ち、フードの影から見下ろした。
外面だけは冷たく。
「モモンガ様の御前で剣を向けるなど、身の程を知りなんし」
言えた。
手は震えていない。
身体は震えていない。
心だけが、めちゃくちゃ震えていた。
殺してないよな。今ので死んでないよな。腕は折れたかもしれない。いや、折れたのはまずいが、死ぬよりはいい。死なせていない。少なくとも、殺してはいない。
モモンガ様の視線を感じる。
俺は内心で固まった。今の対応はシャルティアらしくなかったかもしれない。本物ならもっと容赦なく殺していたかもしれない。そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
だが、モモンガ様は何も咎めなかった。
むしろ、少しだけ考えるような間があった。
「生かしたか」
低い声。
俺は即座に頭を下げる。
「情報を得る余地がありんす。無為に潰すには、少々惜しいかと」
建前。
今、必死で作った建前。
本音は殺したくなかっただけだ。だが、それを言えるはずがない。だから情報源という言葉に逃げる。便利だ。便利すぎて、今後も多用しそうで怖い。
「なるほど」
モモンガ様は短く言った。
それ以上の追及はなかった。
助かった。
本当に助かった。
だが、安堵する暇はなかった。村の奥から、また悲鳴が聞こえた。今度は近い。家の陰で、腰を抜かした村人が震えている。老人か、女性か、混乱していて一瞬判断が遅れた。近くには燃えかけた木材が落ちている。逃げ遅れたら危ない。
反射的に駆け寄りそうになって、俺は止まった。
駄目だ。
シャルティアとして不自然すぎる。
だが、シアとしてなら。
外部用の従者としてなら、村人を誘導してもおかしくはない。そう自分に言い聞かせ、俺は足音を殺して近づいた。相手は俺を見て怯えた。無理もない。フードを被った見知らぬ少女が、倒れた騎士の近くから歩いてくるのだから。
俺はできるだけ声を抑えた。
冷たくしすぎず、柔らかくしすぎず。
「こちらへ。まだ動けるなら、建物の陰へ」
村人は固まったままだった。
聞こえていないのか。いや、恐怖で動けないのだろう。俺は手を伸ばしかけて、途中で止める。触れたら怖がられるかもしれない。俺の手は冷たいかもしれない。吸血鬼の手だ。人間にとって、どんな感触なのかわからない。
「……大丈夫です。急いで」
言ってから、内心で焦る。
今、普通に丁寧語だった。
いや、外ではシアだからいい。村人相手だからいい。モモンガ様の前で柔らかすぎたら不自然かもしれないが、後で建前を作ればいい。逃げる者をまとめた方が、守るにも支配するにも都合がいい。そう言えば通る。たぶん通る。
村人がようやく動いた。
震えながら立ち上がり、建物の陰へ走る。その背中を見送って、俺は小さく息を吐いた。
助けられた。
たぶん。
それだけで、少しだけ心が軽くなった。
直後、別の騎士がこちらへ向かおうとしたが、その前にモモンガ様が動いた。圧倒的だった。詠唱も、動作も、何もかもが人間の理解を超えている。敵が敵として成立する前に、結果だけが生まれる。
頼もしい。
恐ろしい。
その二つが同時に胸の中へ落ちてくる。
村人にとって、モモンガ様は救い手だ。だが同時に、理解不能な力を持つ異形でもある。そして俺も、その隣に立っている。灰茶色の髪と青灰色の瞳で隠していても、中身はシャルティアの身体だ。
救い手の側に立っているからといって、恐怖の一部ではないとは限らない。
俺はそれを忘れてはいけないと思った。
「シア」
モモンガ様が呼ぶ。
「はい」
「村人をまとめられるか」
「やってみんす」
返事をしてから、俺は少しだけ口調を直す。
「……いえ、外の者に対しては、柔らかく接しましょう。逃げる者をまとめた方が、守るにも都合がよろしゅうござりんす」
モモンガ様はわずかにこちらを見た。
またやってしまったかもしれない。
けれど、今度も咎められはしなかった。
「任せる」
その一言だけで、俺の役目が決まる。
村人を怖がらせない。
逃げ道を作る。
戦闘はできるだけモモンガ様に任せる。
必要なら無力化する。
殺さない。
少なくとも、俺が動く範囲では。
俺はフードを押さえ、村の中へ目を向けた。
その時、視界の端で二つの影が動いた。若い少女と、小さな女の子。追われている。必死に走っている。見覚えがある。いや、今はまだ名前を出してはいけない。知らないはずだ。知っているように振る舞ってはいけない。
エンリ。
ネム。
心の中だけで、その名を呼ぶ。
ついに、最初の重要な接触が目の前に来た。
灰茶色の髪をフードの下で揺らしながら、俺は小さく息を吐いた。
ここから先は、失敗できない。
俺はシャルティアではなく、シアとして、初めて人間の前に立った。