オーバーロード シャルティアになった一般人、洗脳ルートだけは全力で回避する   作:グロはNG

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カルネ村の悲鳴

カルネ村の悲鳴

 

少女が走っていた。

 

小さな子どもの手を引き、転びそうになりながら、それでも後ろを振り返らずに走っている。村の中には煙が立ちこめ、悲鳴と怒号が混じっていた。家の壁は砕け、地面には荷物が散らばり、逃げ遅れた者たちの足音があちこちで乱れている。

 

追っているのは、鎧を着た男たちだった。

 

騎士の姿をしている。だが、そこに人を守る者の気配はない。村人へ向けられた剣は、ためらいなく振り下ろされる。逃げる背中を追い、泣き叫ぶ者を踏みつけ、家の陰に隠れた者を引きずり出そうとしている。

 

知っている。

 

俺は、この光景を知っている。

 

けれど、名前を呼んではいけない。あの少女を知っているような顔をしてはいけない。今の俺は、この村に初めて来た小柄な従者だ。モモンガ様に付き従う、外部名シア。ただそれだけでなければならない。

 

あれがエンリ。手を引かれているのがネム。

 

そう内心で思った瞬間、喉の奥がまた乾いた。

 

血の匂いが強い。風が運んでくる鉄の匂い。煙の焦げ臭さ。その奥にある生き物の熱。吸血鬼の身体が、それらを嫌でも拾ってしまう。見たくないのに見える。嗅ぎたくないのにわかる。

 

怖い。

 

人が殺されていることも怖い。

 

それを前にして、身体のどこかが静かに反応していることも怖い。

 

俺はフードの内側で唇を噛みそうになり、寸前でやめた。吸血鬼の身体で本気で噛んだらどうなるかわからない。こんなところで自分の血でも出したら最悪だ。いや、自分の血が出るのかどうかもよくわからないが、今考えることではない。

 

少女たちへ、騎士の一人が追いつきかけていた。

 

剣が上がる。

 

動きたい。

 

今すぐ割り込みたい。

 

けれど、俺は一瞬だけ迷った。勝手に動いていいのか。モモンガ様の命令より先に前へ出れば、それはシャルティアとして自然なのか。いや、本物ならむしろ喜んで敵を裂くかもしれない。だが俺がやりたいのは、敵を裂くことではない。あの二人を助けることだ。

 

その違いを、周囲に悟らせてはいけない。

 

俺の足が一歩出かけた時、モモンガ様の声が落ちた。

 

「行け、シア」

 

短い命令だった。

 

その一言で、身体が動いた。

 

「御意」

 

声が自然に出る。

 

助かった、と思った。命令が出た。これなら動ける。俺の判断ではなく、モモンガ様の命令に従っただけだと言える。自分の優しさではなく、主の意思として動ける。

 

次の瞬間、景色が流れた。

 

速い。

 

自分の身体なのに、反応が追いつかないほど速い。地面を蹴った感覚は軽く、風がフードの端を揺らした。少女たちへ剣が届くより先に、俺の身体は騎士の横へ入り込んでいた。

 

騎士の目が見開かれる。

 

遅い。

 

そう感じてしまった自分が怖かった。

 

剣の軌道が見える。腕の筋肉の動きも、踏み込みの浅さも、首筋の隙も、すべてわかる。壊すなら簡単だ。喉を潰す。胸を穿つ。首を折る。いくらでも方法が浮かぶ。浮かんでしまう。

 

違う。

 

殺すな。

 

俺は騎士の手首を弾いた。金属越しに骨へ衝撃が通る感触がある。剣が空へ跳ね、男の体勢が崩れた。続けて足を払う。地面に叩きつける寸前で力を抜く。完全には優しくできなかったが、頭を割る角度だけは避けた。

 

男は土に転がり、呻いた。

 

生きている。

 

動いている。

 

大丈夫。殺してはいない。

 

俺は自分にそう言い聞かせながら、フードの陰から騎士を見下ろした。

 

「子どもに剣を向けるとは、見下げ果てたものですね」

 

口から出たのは、思ったより冷たい声だった。

 

村人相手のシアとしての言葉。だが、その奥にシャルティアの身体が持つ圧が混じったのか、騎士は呻いたまま身を縮めた。たぶん、これ以上は動けない。

 

俺はすぐに少女たちへ振り返った。

 

二人とも怯えていた。

 

当然だ。目の前で追ってきた騎士が吹き飛ばされ、フードを被った見知らぬ少女が立っている。灰茶色の髪と青灰色の瞳に変えていても、普通の村娘には見えないだろう。しかも背後にはモモンガ様がいる。

 

異様な仮面で顔を隠した、黒衣の魔法詠唱者。

 

助けてくれると説明されても、初見で安心できる姿ではない。むしろ、騎士より得体が知れないと感じてもおかしくなかった。

 

小さな子どもが、姉らしき少女の服を握って震えていた。

 

その震えを見た瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

俺は反射的に声を柔らかくする。

 

「もう大丈夫です。こちらへ」

 

言ってから、内心で焦った。

 

今の、完全に普通の人だった。

 

シャルティアっぽさが欠片もない。だが、相手は子どもだ。怖がらせるよりはいい。外ではシアだ。モモンガ様の従者として、現地人を誘導しているだけ。そういうことにすればいい。

 

少女は、俺とモモンガ様を交互に見た。

 

怯えている。疑っている。それでも、逃げ場がないことも理解している。小さな子どもを庇うように抱き寄せながら、かすれた声を出した。

 

「あ、あなたは……」

 

「我が主に従う者です。今は、それだけわかっていれば十分です」

 

言い方が少し硬くなった。

 

だが、距離感としてはこれくらいでいい。優しすぎても不自然になる。冷たすぎれば怯えさせる。どこまでが自然なのかわからないまま、俺は少女の足元に視線を落とした。

 

「走れますか。怪我は?」

 

「わ、私は……大丈夫です。でも、妹が……」

 

妹。

 

名前を知っている。

 

呼びそうになって、必死に飲み込んだ。

 

まだ駄目だ。俺は知らない。今初めて見た。そういう顔をしろ。

 

「見せてください」

 

小さな子どもは泣いていた。膝を擦りむいている。深い傷ではない。けれど、恐怖と疲労で身体が震えている。俺は手を伸ばしかけ、また止めた。

 

触れていいのか。

 

俺の手は冷たくないだろうか。吸血鬼の体温が人間にどう感じられるのか、わからない。怯えている子どもに、余計な恐怖を与えたくなかった。

 

「立てますか。無理なら、そちらの陰へ。ここは危険です」

 

できるだけ静かに言った。

 

子どもは返事をしない。姉が代わりに頷き、妹を支えようとする。だが、その手も震えていた。

 

助けたい。

 

そう思った。

 

だが、俺が下手に抱き上げれば怪しまれるかもしれない。いや、この状況で怪しまれるも何もないかもしれないが、村人からすれば俺も十分に異物だ。優しくすればするほど、シャルティアとしても不自然になる。

 

面倒くさい。

 

助けることすら、こんなに考えなければならないのか。

 

その時、別の騎士がこちらへ向かってきた。少女たちを狙っているのか、それとも俺を敵と見たのかはわからない。剣を構え、叫びながら踏み込んでくる。

 

俺が動くより早く、モモンガ様が手を上げた。

 

空気が変わった。

 

圧倒的、という言葉では足りなかった。モモンガ様の魔法は、何かを競うまでもなく結果を生む。騎士は勢いのまま数歩進み、そして急に胸を押さえた。次の瞬間、糸が切れたように崩れ落ちる。

 

悲鳴すらなかった。

 

あまりにも静かな死だった。

 

頼もしい。

 

同時に、恐ろしい。

 

俺は味方側にいる。その事実に心底安堵する。だが、もしこの力が自分へ向けられたらどうなるかも、嫌でも理解してしまう。シャルティアの身体は強い。だが、モモンガ様はそれでも上にいる。洗脳された未来で、この人と殺し合うことになる。その事実が、胃の奥を冷たくした。

 

血の匂いがまた濃くなる。

 

騎士が倒れた場所から、命が失われた気配が広がっていく。俺は喉の奥の渇きに気づき、フードの中で奥歯を噛みしめた。

 

見るな。

 

考えるな。

 

今は人を助ける場面だ。

 

血を見るな。呼吸を整えろ。いや、吸血鬼に呼吸は必要なのか。必要かどうかはどうでもいい。とにかく、人間だった頃の感覚にしがみつけ。

 

小さな子どもが泣いている。

 

その声に意識を向けると、喉の渇きが少しだけ薄れた。血ではなく、泣き声を見る。震えている手を見る。怯えている目を見る。目の前にいるのは餌ではない。助けるべき人間だ。

 

俺は、そう自分に言い聞かせた。

 

「こちらへ。あの方のそばにいれば、今は安全です」

 

俺はモモンガ様を示した。

 

少女はモモンガ様を見て、また肩を震わせる。無理もない。黒いローブに、異様な仮面。しかも人間離れした魔力をまとっている。助けてくれるとわかっていても、初見で安心できる姿ではない。

 

そりゃ怖いよね。

 

仮面だもん。黒ローブだもん。しかも明らかに普通じゃないもん。

 

でも助けてくれるから。めちゃくちゃ助けてくれるから。

 

内心でそう思いながら、俺は声を落とした。

 

「怖いとは思います。でも、あなたたちを殺すために来たのではありません。逃げたいなら、私の後ろへ」

 

少女は妹を抱きしめたまま、震えた声で言った。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

胸が詰まった。

 

普通に返しそうになる。

 

無事でよかったです。

 

そう言いかけて、飲み込む。シアとして、モモンガ様の従者として、距離を置け。俺個人の感情を出しすぎるな。

 

「礼なら、我が主へ。私は命に従っただけです」

 

それでも、完全には冷たく言えなかった。

 

少女は俺の顔を見た。フードの影、灰茶色の髪、青灰色の瞳。そこに何を見たのかはわからない。けれど、先ほどよりもほんの少しだけ、怯えが薄まった気がした。

 

そのことに、俺は少しだけ救われた。

 

モモンガ様の戦いは、戦いと呼ぶには一方的だった。

 

騎士たちは混乱し、撤退しようとし、ある者は抵抗しようとした。だが、モモンガ様の前ではすべてが遅い。抵抗の意思も、剣の構えも、魔法の前では意味を失う。敵が倒れていくたびに村人たちは息を呑み、恐怖と安堵の入り混じった視線を向けた。

 

この村にとって、モモンガ様は救い手だ。

 

だが同時に、仮面で顔を隠した、理解不能な力を持つ黒衣の魔法詠唱者でもある。

 

そして俺も、その隣にいる。

 

灰茶色の髪も、青灰色の瞳も、フード付き外套も、完全な安心にはならない。村人から見れば、俺はモモンガ様の側に立つ者だ。救い手の一部であり、恐怖の一部でもある。

 

それを忘れてはいけない。

 

俺は少女たちを安全な場所へ誘導しながら、周囲を確認した。逃げ遅れた村人がいる。怪我人もいる。騎士の姿はまだ残っている。全員を助けることはできないかもしれない。けれど、目に入った者を見捨てることもできなかった。

 

「動ける方は、こちらへ。怪我人を一か所に集めてください。建物から離れて。火が回ります」

 

村人たちは戸惑っていた。

 

俺の声を信じていいのか、迷っているのだろう。だが、少女が妹を連れてこちらへ動いたことで、数人が続いた。泣きながら老人を支える者。血のついた腕を押さえる男。腰を抜かした子どもを抱く母親。

 

血の匂いが近い。

 

つらい。

 

喉が乾く。

 

それでも、俺はその場を離れなかった。

 

「シア」

 

モモンガ様の声が届く。

 

俺はすぐに振り返り、頭を下げた。

 

「はい」

 

「村人の誘導か」

 

「逃げる者をまとめた方が、守るにも都合がよろしゅうござりんす。無秩序に散らばれば、取りこぼしが出るかと」

 

建前は用意していた。

 

いや、半分は本心だ。逃げる人間がばらばらになれば助けづらい。まとまってくれた方が守りやすい。だが、そこに「見捨てられない」という本音が混じっていることは、隠さなければならない。

 

モモンガ様はしばらく俺を見た。

 

また、あの読めない沈黙。

 

「よい判断だ」

 

短い言葉だった。

 

俺は頭を下げる。

 

「ありがたきお言葉にござりんす」

 

助かった。

 

そう思う一方で、また評価されたのではないかという恐怖もあった。違う。これはただ、目の前の子どもが泣いていたからだ。怪我人を放っておけなかったからだ。そんな理由は、ナザリックでは弱すぎる。

 

だから、建前が必要だった。

 

支配のため。

 

保護のため。

 

情報のため。

 

モモンガ様の御名を広めるため。

 

どんな理由でもいい。人を助けるために、ナザリックで通る言葉が必要だった。

 

村の危機は、少しずつ収まりつつあった。

 

騎士たちは倒れ、残った者たちも統制を失っている。燃える家の音と、泣き声と、荒い呼吸だけが耳に残る。俺は負傷者から目を逸らさないようにしながら、しかし血の流れを見すぎないように意識を散らした。

 

難しい。

 

人を助けたいのに、血が怖い。

 

人間でいたいのに、身体が吸血鬼であることを突きつけてくる。

 

その矛盾を抱えたまま、俺は少女たちの方を見た。

 

姉は妹を抱きしめていた。妹はまだ泣いている。けれど、先ほどよりも声は小さくなっていた。姉の腕の中で、必死に震えを抑えようとしている。その姿を見た瞬間、胸の奥がまた痛んだ。

 

この子たちの記憶に、俺が残ってしまった。

 

本来なら、モモンガ様だけが強烈に残るはずだった。異様な仮面をつけた救い手。圧倒的な魔法。命を救った黒衣の魔法詠唱者。

 

だが今は違う。

 

フードを被った小柄な従者。

 

騎士を殺さず倒し、子どもに声をかけ、村人を誘導したシア。

 

小さな改変だ。

 

けれど、もう戻せない。

 

少女がこちらを見た。

 

怯えはまだある。だが、その奥に、ほんのわずかな感謝の色もあった。俺はどう返せばいいかわからず、ただ静かに頷いた。

 

エンリの腕の中で、ネムが小さく泣いていた。

 

その声を聞いた瞬間、俺はようやく理解した。

 

救うということは、ただ未来を知っているだけでは足りない。

 

目の前で震えている誰かに、手を伸ばす覚悟がいる。

 

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