オーバーロード シャルティアになった一般人、洗脳ルートだけは全力で回避する 作:グロはNG
慈悲という建前
村の中に、戦いの音はほとんど残っていなかった。
燃える木材が爆ぜる音。誰かのすすり泣き。怪我人の荒い呼吸。倒れた騎士たちの鎧が、土の上でかすかに軋む音。それらが混じり合って、さっきまでの悲鳴とは違う、重く沈んだ静けさを作っていた。
俺は、集まってきた村人たちの前に立っていた。
灰茶色の髪はフードの影に隠れ、青灰色の瞳はできるだけ冷静に周囲を見ている。外から見れば、仮面をつけた黒衣の魔法詠唱者に付き従う、小柄な従者くらいには見えているはずだ。
そう見えていてほしい。
実際の中身は、完全に限界だった。
血の匂いが近い。怪我人を一か所に集めたせいで、薄まるどころか濃くなっている。腕を押さえる男。足を引きずる老人。顔を煤で汚した子ども。誰もが恐怖と痛みに震えている。
助けたい。
でも、近づきすぎるのが怖い。
喉の奥にある渇きは、まだ消えていなかった。さっきより少し薄れた気はする。けれど、完全には消えない。血を見て、血の匂いを嗅いで、吸血鬼の身体が何も感じないはずがない。
俺は、人を餌として見たくない。
その思いだけを、必死に握っていた。
「シア」
モモンガ様の声が聞こえた。
俺はすぐに振り返り、頭を下げる。
「はい」
仮面の奥から向けられる視線は、表情を読ませない。だが、声は静かだった。怒っているようではない。ただ、何かを確認しようとしている。そんな気配があった。
「村人を集めた理由を聞こう」
来た。
俺は内心で固まった。
責められているわけではない。たぶん。けれど、これは確認だ。なぜシャルティアが、逃げる村人をまとめ、怪我人を安全な場所へ移し、子どもに声をかけたのか。
本音は簡単だ。
子どもが泣いていたから。
怪我人を見捨てられなかったから。
人が死ぬところを、もう見たくなかったから。
だが、それは言えない。
シャルティアとしては、弱すぎる。ナザリックの階層守護者としては、あまりにも人間臭すぎる。中身が違うと疑われるまではいかなくても、違和感は残る。だから、別の言葉が必要だった。
俺は一拍置いてから、頭を下げたまま答える。
「逃げ惑う者を散らしたままでは、守るにも使うにも不便でありんす」
言った。
言ってしまった。
使う、という言葉を入れた瞬間、自分の中で少し嫌な感触がした。でも、必要だった。ナザリックで通る言葉にしなければならない。
「まとめておけば、誰が動けて、誰が傷を負い、誰がこちらへ恐怖を抱き、誰が恩義を感じているかも見えやすくなりんす」
モモンガ様は黙っている。
俺は言葉を続けた。
止まったら、嘘が剥がれそうだった。
「恐怖だけで縛れば、いずれ逃げ道を探す者も出るやもしれんせん。けれど命を救われた者は、その救い手を忘れんせん。恩義もまた、支配の根となりんす」
言い終えた瞬間、背中に冷や汗が流れた気がした。
何を言っているんだ、俺は。
支配の根って何だ。
俺はただ、あの子たちが泣いていたから放っておけなかっただけだ。怪我人を放置したくなかっただけだ。だが、口に出した言葉はやけにそれらしく響いた。自分で言っておいて嫌になるくらい、ナザリック向けの理屈になっていた。
モモンガ様は、しばらく沈黙した。
その沈黙が長い。
怖い。
やっぱり変だったか。シャルティアがこんなことを言うのは不自然だったか。いや、でも慎重になっている理由は前から見せている。情報源。支配。恩義。これなら通るはず。通ってくれ。
「なるほど」
モモンガ様が低く言った。
「恩義もまた、支配の一形態か」
通った。
俺は内心で膝から崩れ落ちた。
その解釈でお願いします。
本当にそれでお願いします。
「この世界の者たちから情報を得るにも、過度に怯えさせるだけでは効率が悪い。そういうことだな」
「仰せの通りにござりんす」
違う。そこまで考えてなかった。
だが、否定できない。むしろ、その方向で受け取ってもらえた方が助かる。俺の中身が一般人だから助けた、よりも、支配のために恩義を与えた、の方がずっとシャルティアの行動として処理しやすい。
「お前がそのような視点を持つとは、少し意外だ」
その言葉に、俺はまた固まった。
意外。
やっぱり意外なのか。
「モモンガ様の御心をこの地へ広げるならば、恐れだけでは惜しゅうござりんす。恐れ、慕い、逆らうことを考えぬようにする。その方が、美しく根づくかと」
言ってから、俺は内心で頭を抱えた。
何だその言い方。
美しく根づくって何だ。
でも、シャルティアの口からならギリギリ出てもおかしくない気がする。たぶん。モモンガ様への崇拝と支配欲を混ぜれば、こういう方向にはなるはずだ。問題は、中身の俺が全然そんなことを考えていないことだ。
「……よい考えだ」
モモンガ様が言った。
短い言葉だった。
けれど、それだけで周囲の空気が変わった気がした。主が認めた。ならば、それは方針になる。俺はまた、余計なことをしてしまったのかもしれないと思った。
だが、後悔だけではなかった。
少なくとも、この建前が通るなら。
今後も、人を助けるための理由にできるかもしれない。
モモンガ様は村人たちの方へ視線を向けた。仮面をつけているせいで表情は読めないが、村人たちは一斉に身を固くした。無理もない。命を救われたとはいえ、黒衣に仮面の魔法詠唱者だ。しかも、さっきまで騎士たちを一方的に倒していた存在である。
恐怖と感謝。
二つが混ざった視線が、モモンガ様へ向いている。
俺はその横で、少しだけ胸が痛くなった。
この人も、どう振る舞うべきかを選んでいるのだろうか。
支配者として、救い手として、未知の世界に降り立った存在として。村人たちの視線をどう受け止め、どう返すべきか。きっと、モモンガ様も考えている。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「シア」
「はい」
「先ほど助けた姉妹を」
「御意」
俺はすぐにエンリたちの方へ向かった。
姉の少女は、妹を抱きしめたままこちらを見ていた。怯えは消えていない。それでも、先ほどより少しだけ目に力が戻っている。妹の方はまだ泣き疲れた様子で、姉の服をぎゅっと握っていた。
名前は知っている。
でも、呼ばない。
俺はフードの影を少し上げて、できるだけ表情を柔らかくした。
「我が主がお呼びです。怖いとは思いますが、危害を加えるつもりはありません」
少女は唇を震わせながら頷いた。
「は、はい……」
妹を連れて立ち上がろうとするが、足元がふらつく。反射的に支えそうになって、俺はまた一瞬ためらった。触れていいのか。冷たくないか。怖がらせないか。
だが、倒れそうになった少女を見て、考えるより先に手が動いた。
俺は彼女の腕をそっと支えた。
少女の身体がびくりと震える。
失敗したか。
そう思ったが、少女は逃げなかった。俺の手を見て、それから顔を見上げる。冷たかったのかもしれない。けれど、振り払われることはなかった。
「……すみません」
「謝る必要はありません。足元に気をつけて」
声は自然に出た。
普通すぎる。
また普通すぎる。
けれど、この場で高慢に振る舞うことはできなかった。子どもを抱えた少女が震えている。その前でシャルティアらしい残酷な笑みを浮かべられるほど、俺の中身は変わっていない。
いや、変わりたくない。
そう思った。
モモンガ様の前に連れていくと、姉妹は明らかに緊張した。妹の方は姉の陰へ隠れ、姉は震えながらも必死に頭を下げる。
「た、助けていただき、ありがとうございました」
声が震えていた。
それでも、礼を言おうとしている。
モモンガ様は、それを静かに受け止めていた。
「礼は不要だ」
低い声。
村人たちがさらに身を固くする。
俺は心の中で少しだけ焦った。声が重い。威厳がありすぎる。村人相手には圧が強すぎる。だが、俺が横から勝手に柔らかくしすぎるのも問題だ。主の威厳を削いではいけない。
だから、補足する形にする。
「この方は、あなたたちを害するために来たのではありません。命を救われたことだけ、今は覚えておけば十分です」
姉の少女は俺を見た。
それから、モモンガ様へ視線を戻す。
恐怖はある。だが、ほんの少しだけ理解しようとしているようにも見えた。
モモンガ様は何も言わなかった。
ただ、姉妹へ向けて何かを取り出すような気配を見せた。俺は、それが何につながるかを知っている。ゴブリン将軍の角笛。カルネ村の未来を大きく変えるアイテム。
ここも、変わらない。
たぶん。
そう思って少しだけ安心した直後、負傷者の呻き声が聞こえた。
俺の意識がそちらへ引かれる。
血の匂い。
まただ。
怪我人が集められている場所から、濃い血の匂いが漂ってくる。俺は無意識に喉へ手をやりそうになり、ぎりぎりで止めた。駄目だ。ここで反応するな。村人の前だ。モモンガ様の前だ。何より、自分が怖い。
子どもの泣き声を聞け。
怪我人の呼吸を聞け。
血ではなく、人を見る。
俺は自分に言い聞かせるように、負傷者たちへ向かった。
「動ける方は、そのまま座っていてください。傷の深い方を先に。水があれば持ってきてください。火の近くには近づかないで」
村人たちは戸惑いながらも動いた。
俺の指示に従っている。
そのことに、また戸惑う。
信頼されたらされたで困る。怖がられっぱなしよりはいい。でも、これも改変だ。この村に、シアという従者の記憶が増えている。俺が何かを言うたびに、その記憶が強くなる。
一人の老婆が、震える手で俺に頭を下げた。
「ありがとう、ございます……」
俺は返事に詰まった。
普通に「大丈夫です」と言いそうになる。だが、また距離感を整える。
「礼は主へ。私は、その御命に従っているだけです」
それでも、老婆はもう一度頭を下げた。
困る。
本当に困る。
けれど、嫌ではなかった。
その感覚が、また俺を困らせた。
村人たちの恐怖は消えていない。むしろ、モモンガ様の力を見た分、恐怖は深くなっている。だが同時に、命を救われたという事実も消えない。恐怖と感謝が混ざり、どう接すればいいのかわからないまま、彼らは俺たちを見ている。
その視線を受けながら、俺は先ほどの自分の言葉を思い出した。
恩義もまた、支配の根となる。
本当にそうなのだろうか。
わからない。
ただ、恐怖だけではない何かが、今この村には生まれている気がした。それが後々どう転ぶのかはわからない。けれど、少なくとも目の前の子どもたちは生きている。
それだけは、よかったと思った。
「シアさん……?」
小さな声が聞こえた。
俺は動きを止めた。
声の方を見ると、ネムが姉の腕の中からこちらを見ていた。涙の跡が頬に残っている。まだ怯えている。けれど、その声には、ただの恐怖だけではないものが混じっていた。
俺の名前を呼んだ。
外での仮の名。
この場しのぎのはずだった名前。
それが、この子の中に残った。
「……はい」
俺は、できるだけ静かに答えた。
ネムは何かを言おうとして、うまく言葉にできなかったのか、姉の服を握り直した。けれど、その小さな声だけで十分だった。
名前を呼ばれた瞬間、俺は理解した。
この世界で何かを変えるというのは、歴史を大きく動かすことだけではない。
泣いていた子どもの記憶に、自分の名前が残ることも、立派な改変だった。