オーバーロード シャルティアになった一般人、洗脳ルートだけは全力で回避する 作:グロはNG
「シアさん……?」
小さな声だった。
泣き疲れて、かすれて、まだ震えの残る声。けれど、その声は確かに俺を呼んでいた。外で使うためだけに決めた仮の名前。シャルティアの名を隠すための、その場しのぎの名前。
それが、目の前の子どもの中に残ってしまった。
俺は一瞬、返事を忘れた。
名前を覚えられた。いや、悪いことではない。むしろ、助けた相手に名前を呼ばれること自体は、普通なら喜ぶべきことなのかもしれない。けれど、今の俺にとっては違う。これはもう、確実な改変だった。
本来ここにいないはずの者が、誰かの記憶に残った。
その重さに、フードの内側で喉が詰まる。
「……はい。ここにいます」
できるだけ静かに答えた。
ネムは何かを言おうとしたようだった。けれど、言葉にはならない。姉の腕の中で、小さな手が服をぎゅっと握りしめる。その指先に力が入っているのを見て、俺はそれ以上踏み込めなかった。
子どもに安心させる言葉をかけたい。
けれど、近づきすぎてはいけない。
この子たちにとって、俺は命の恩人かもしれない。だが同時に、仮面をつけた黒衣の魔法詠唱者に付き従う、正体不明の従者でもある。灰茶色の髪も、青灰色の瞳も、フード付きの外套も、完全な安心にはならない。
俺は視線をネムからエンリへ移した。
エンリは、妹を抱き寄せたまま深く頭を下げた。
「あの……助けていただいて、本当に、ありがとうございました」
声は震えていた。
恐怖が消えたわけではない。むしろ、目の前で起きたことを理解しきれず、まだ身体の芯が怯えているように見えた。それでも礼を言おうとしている。その姿に、胸の奥がまた痛む。
普通に言いたかった。
無事でよかった。
怖かったですね。
もう大丈夫です。
そんな、どこにでもある言葉を返したかった。
だが、それはシアとしても、シャルティアとしても近すぎる。俺がただの一般人だった頃なら言えた言葉でも、今の立場では簡単に口にできない。
俺は、ほんの少しだけ間を置いた。
「礼なら、我が主へ。私はその御命に従っただけです」
言葉は距離を置いた。
けれど、ネムの震えがまだ止まっていないのを見た瞬間、声が勝手に柔らかくなる。
「……ですが、無事で何よりです」
言ってから、内心で固まった。
今、完全に素が出た。
いや、でも無理だ。子ども相手に冷たくしきるのは無理だ。あんなに泣いて、震えて、目の前で命を狙われていた子に対して、徹底して冷淡に振る舞うなんてできない。
エンリは一瞬だけ目を見開いた。
そして、また頭を下げた。
「はい……ありがとうございます、シアさん」
また呼ばれた。
今度はエンリの声で。
俺はどう返せばいいかわからず、ただ小さく頷いた。フードの影で表情が見えにくいことに、少しだけ助けられる。たぶん今の顔は、シャルティアにも、シアにも向いていない。
その時、モモンガ様が静かに近づいてきた。
村人たちの空気が変わる。さっきまで俺の方を見ていた者たちが、一斉に身を固くした。黒いローブ。異様な仮面。人間離れした魔力。村を救った存在であることは間違いない。だが、それが安心できる姿かと言えば、違う。
恐怖と感謝が混ざった視線が、モモンガ様へ集まる。
俺は半歩下がり、従者としての位置に戻った。主の前に出すぎてはいけない。シアとして村人を誘導していた時間が長かったせいで、その基本を忘れそうになる。
エンリとネムも、モモンガ様を見て身体を硬くした。
無理もない。
助けてくれた相手だとわかっていても、あの仮面は怖い。黒いローブも怖い。何より、さっき騎士たちを一方的に倒した力を見ている。感謝だけで近づける存在ではない。
モモンガ様は、その様子をしばらく見ていた。仮面の奥の表情はわからない。けれど、その沈黙は敵意ではなかった。たぶん、どう振る舞うべきかを選んでいる。
支配者として。
救い手として。
そして、この世界に初めて触れた者として。
「お前たちに、これを与えよう」
モモンガ様が取り出したものを見て、俺は内心で息を止めた。
角笛。
見覚えがある。知っている。これがエンリの未来を大きく変える。カルネ村を、ただ救われただけの村ではなく、後に強く生き残る村へ変えていくきっかけになる。
ここは変わっていない。
そのことに、俺は少しだけ安堵した。
俺がここにいることで、何もかもが壊れてしまうわけではない。少なくとも、モモンガ様の判断は大筋で変わっていない。エンリに角笛が渡る。ネムは生きている。村も、完全には失われていない。
けれど、すべてが同じでもない。
エンリは角笛を受け取る前に、一度こちらを見た。
不安なのだろう。
目の前の仮面の魔法詠唱者から渡されるものが何なのか、信じていいのか、わからないのだと思う。その視線に気づいた俺は、静かに口を開いた。
「恐れるなとは言いません。ただ、今は生き残るために使えるものを受け取ってください」
勝手な補足だった。
言ってから、少しだけ焦る。主の行動に余計な説明を加えすぎたかもしれない。だが、モモンガ様は止めなかった。むしろ、黙って俺の言葉を許しているように見えた。
エンリは角笛へ視線を落とした。
その指が震えている。
けれど、逃げなかった。
「妹さんを守りたいなら、迷う時間はありません。受け取って、覚えておいてください」
冷たい言い方だったかもしれない。
でも、今のエンリには、優しいだけの言葉よりも必要な気がした。怖くても受け取る。震えていても覚える。ここから先も生きるなら、そうしなければならない。
エンリは唇を噛み、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、角笛を受け取る。
「こ、これは……?」
「危機が迫った時に使え」
モモンガ様の声は短く、重い。
エンリはその言葉を受け止めきれない様子で、それでも必死に頷いた。
「はい……ありがとうございます」
ネムは姉の隣で、角笛とモモンガ様を交互に見ていた。それから、ほんの少しだけ俺の外套の端へ視線を落とす。何かを掴みたそうにして、けれどすぐに手を引っ込めた。
その小さな動きが、なぜか胸に刺さった。
俺は迷った。
近づくべきか。
離れるべきか。
シアとして、どこまで踏み込んでいいのか。
結局、俺はほんの少しだけ膝を折った。ネムと目線を近づける。触れはしない。近づきすぎもしない。ただ、声が届く距離まで。
「お姉さんのそばを離れないでください。今は、それが一番安全です」
ネムは小さく頷いた。
言葉は返ってこない。
けれど、その頷きだけで十分だった。
俺は立ち上がる。
その瞬間、村人たちの視線に気づいた。
さっきとは違う。完全な信頼ではない。恐怖はまだある。警戒もある。仮面の魔法詠唱者のそばにいる存在として、俺もまた得体の知れない相手だと見られている。
だが、それだけではなかった。
怪我人を集めた。
子どもに声をかけた。
騎士を殺さずに止めた。
モモンガ様の言葉を、少しだけ村人に届きやすい形へ変えた。
その積み重ねが、俺を見る目をほんのわずかに変えていた。頼っていいのかもしれない。けれど怖い。怖いけれど、声を聞いてもいいかもしれない。そんな、曖昧な視線。
怖がられないようにしたかった。
でも、頼られるのも怖い。
この人たちの記憶に残るということが、思ったよりも重かった。
「シア」
モモンガ様の声が聞こえた。
俺はすぐに向き直る。
「はい」
「現地人への対応としては、有効だったようだな」
息が止まりかけた。
見られていた。
もちろん見られているのは当然だ。モモンガ様のすぐ近くで動いていたのだから。だが、改めて言葉にされると、背筋が冷える。
俺はただ普通に接しただけです。
子どもが怖がっていたからです。
怪我人を放っておけなかっただけです。
そんなことは言えない。
だから、また建前を作る。
「恐怖だけでは、目も耳も塞がりんす。声を届かせるためには、恐怖を受け止める隙を作る必要がありんす」
言いながら、自分で思う。
何だそれ。
でも、それっぽい。
それっぽすぎて嫌になる。
モモンガ様は少し考え込むように沈黙した。
「恐怖を与えた後に、受け皿を置くわけか」
また戦略っぽくなった。
でも、その解釈でお願いします。
本当にお願いします。
「御意。過度な恐怖は思考を鈍らせんす。従わせるだけならばともかく、情報を得るには、多少の安心も必要かと」
俺は頭を下げながら続けた。
半分は嘘。
半分は本当。
人は怖すぎる相手には何も話せない。少なくとも、俺なら無理だ。だから、村人たちがモモンガ様を恐れすぎないようにする必要がある。それは情報収集のためでもあるし、単純に怖がらせたくないからでもある。
「なるほど」
モモンガ様は短く言った。
「覚えておこう」
また評価された。
嬉しくないわけではない。だが、評価されるたびに、俺の役割は増えていく。逃げ場が減っていく。カルネ村の時点でこれなら、この先どうなるのか考えたくもない。
村の後始末は、完全に終わったわけではなかった。
怪我人はまだいる。壊れた家もある。亡くなった者もいる。俺たちが救ったのは、あくまで今この瞬間の命であって、この村が負った傷をすべて消したわけではない。
その現実が、少し重かった。
村人たちは距離を取ったまま、それでも一人、また一人と頭を下げた。恐怖と感謝が入り混じった、ぎこちない礼だった。モモンガ様はそれを当然のように受け止める。支配者として、救い手として、仮面の奥で何を考えているのかはわからない。
俺はその半歩後ろに立つ。
フードの下には、まだ血の匂いが残っている気がした。
実際には、外套に染みついたわけではないのかもしれない。ただ、俺の鼻と記憶が覚えてしまった。人間の血の匂い。助けた子どもの泣き声。倒した騎士の骨の感触。
最後まで、血の衝動に飲まれなかった。
そのことに安堵する。
だが、完全に平気だったわけではない。喉は乾いた。身体は反応した。俺はやはり、シャルティアの身体に入っている。どれだけ中身が一般人でも、この肉体は吸血鬼なのだ。
それでも。
人間を餌として見たくない。
少なくとも、自分の意思でそれを選びたくない。
シャルティアの身体に飲まれたくない。
俺は、フードの内側で小さく息を吸った。
モモンガ様が村を離れるため、わずかに向きを変える。
その気配を感じて、エンリが何かを言いかけた。礼だろうか。それとも、まだ聞きたいことがあったのだろうか。けれど、その言葉は形になる前に止まった。
遠くから、音が聞こえた。
最初は小さかった。
地面を叩く、規則的な響き。ひとつではない。複数の蹄の音だ。村人たちも気づいたのか、ざわめきが広がる。泣いていた子どもが顔を上げ、怪我人を支えていた者たちが不安そうに村の入口へ目を向けた。
また敵か。
その緊張が、一瞬で村を包んだ。
俺もフードの下で目を細める。
視界の先に、鎧をまとった一団が見えた。
騎士。
いや、さっきの偽装騎士たちとは違う。装備のまとまりも、動きも、空気も違う。荒らしに来た者ではない。村の様子を見て、先頭の男が明らかに表情を険しくした。
その姿を見た瞬間、俺の思考が止まった。
知っている。
あの男を、俺は知っている。
鍛え上げられた身体。鋭い目。派手さはないが、揺るがない芯を感じさせる立ち姿。王国最強の戦士長。民を守るために剣を振るい、最後まで忠義を貫く男。
ガゼフ・ストロノーフ。
心臓が、嫌な音を立てた気がした。
カルネ村で残した最初の傷跡が、まだ乾かないうちに。
次の救済対象が、俺の目の前に現れた。