『入れ』
天使や悪魔、紫色の空や魔法。
ついこの間までは、僕の中にない価値観や常識だったのに、今では当たり前のように受け入れられている。
そして、こうして扉を開ける前に、その向こうから声をかけられることも、既に当たり前になってしまっていた。
「失礼します」
しかし、こうして一対一でお嬢様と相対するのは、決して当たり前ではなく、初めてのことで、僕の不安の先はやはり、小屋の落書きに繋がっていた。
内心ビクビクとしながら、お嬢様の前に立ち、その口が開かれるのを待った。
お嬢様は玉座のような大層な椅子に腰掛け、片足を座面に乗せ、少し俯いた角度からは、表情が読み取れなかった。
「…なんじゃこれは……」
「ど、どうしました?」
「なんじゃこれはと言っておる!」
そう言うとお嬢様は、手に持っていた本を僕めがけて投げつけた。
もっとも、それが本だということに気づけたのは、それが僕の後ろの壁に到達し、地面に落ちてからだった。
「貴様はそれを読んだことがあるか?」
そう問われ、僕は慌てて本を拾いに行き、表紙を見た。
そこには
「走れメロス…ですか」
最初から最後まできっちり読んだことのある人は、割合で言えばそれほど多くないかもしれない。
しかし、おおよその日本人が、きっと大まかなストーリーは知っているほどの作品だった。
「この作品が、どうかしましたか?」
「どうもこうもないわ!なんと拍子抜けなオチじゃ!」
王の怒りを買い、死罪が決まったメロスだったが、彼は大事な妹の結婚式を控えていた。
メロスの親友であるセリヌンティウスを人質にすることを条件に、メロスは猶予をもらった。
約束の時間通りに戻ってこなければ、代わりに処刑されるという条件を、セリヌンティウスは快く引き受けたのだ
メロスがそのまま逃げてしまえば、自分の命は助かるというのに、彼は約束通り、親友のために王のもとへと戻り、その友情に感動した王が、ふたりを解放する。
ざっくりとだけど、こういうストーリーのはずだ。
(感動的ないいお話だと思うけど……)
お嬢様の怒りの理由が、僕にはわからず、返事に困っていると
「導入は良かったんじゃ導入は。そこに書かれている王の考え方はよく理解できるからの」
傍若無人な王様は、偽りの友情を笑いものにするためにこの約束を取り付けたんだっけ……
「それがどうじゃ!そんな安っぽい友情とやらに絆されおって……余は、どちらかが死に、残された片方の反応を期待しておったというのに」
(なるほど……)
悪魔でありながらの文学少女、サグレナさんに聞いたときは、そんな風に思っていたけど、感性が悪魔だということを失念してしまっていた。
「この作者はそういう鬱々とした話をよく書いておるから、てっきりこれもそうかと思っておったのに、ガッカリじゃ」
僕自身も読書が特別好きなわけじゃないけど、確かにそういうイメージはある。
「そもそも、死ぬと分かっておるのにノコノコと戻ってくる奴があるか。いくら人間の話とはいえ、リアリティに欠けておるわ」
……それはどうだろうか。
仮に僕がメロスの立場だったらどうするだろう。
絶対に戻ってくるとは約束できないにせよ、大きな葛藤があるはずだ。
少なくとも、戻る選択肢を選べる人でいたいとは思う。
「貴様もそう思うじゃろ?」
はい!その通りです!とでも言っておけば、事態は丸く収まるだろう。
しかし、僕は言葉に詰まってしまった。
「……はぁ、そう怯えずともよい。創作物の感想くらいで、なにも命まで取ったりせんわ。生の人間の感想が聞きたいのじゃ」
疑いたくなる言葉ではあったけど、少しは話しやすくなった。
「そ、その……人間の美徳と言いますか……私自身がそういう人であるとは言えませんが、あり得ない話ではないかと……」
「ほぅ?美徳というのは、利他的な考え方や、自己犠牲のような話か?」
「それもそうかもしれませんが……このお話で言うなら、大切な友人を見捨てて、その後の人生を楽しく生きられる気もしません……」
「死ぬよりはマシじゃろう」
「死よりもその方が辛いと感じる人間もいます」
「はっはっは、そもそも貴様に聞いたのが間違いであった。なんせ貴様は自らの命を捨てた奴じゃからな。自分の命を軽んじておるのじゃろ」
「い、いえ!……そうだ!このお話は人間界では教科書にも載っていて、私たちの世界では、こんなこと、起こるはずがない。と、一蹴できる扱いをされておりません」
僕の命が軽くないって言いたいわけじゃなかったけど、なんだかムキになってしまった。
ハッと気づいたときにはもう遅く、殺されるかもしれない立場で、歯向かうような言動をどうしてやってしまったんだろうと、後悔した。
やはり僕は僕の命を軽んじているのかもしれない。
お嬢様は、ふむ、とだけ言うと、少し難しそうな顔をしており、少なくとも逆鱗に触れてしまった、というわけではなさそうだった。
「やはり人間というのは解せんのう。そこが面白いんじゃが」
お嬢様は僕をじろじろと、まるで檻の中の動物や、水族館の魚でも観察するように見つめていた。
そこで僕は改めて、お嬢様が整った顔立ちをされていることを意識してしまった。
こんな状況で、自分でも馬鹿らしいと思うけど、少し恥ずかしくなり、目を背ける。
「まぁよい。貴様の意見をすべて鵜呑みにするつもりはまだないからの。それと、喜ぶがいい。今日は一つ、貴様に命を下してやろう」
これ以上ない上からの物言いだったけど、実際奴隷と雇い主であれば、自然なコミュニケーションなのだろうか。
このまま庭いじりをして、平穏に暮らしたいという気持ちもあったが、全力で生きる、といったここでの使命が頭をよぎる。
「な、なんでしょう?」
とにかく、痛い思いだけはしたくない。
(人間の耐久度をテストしてやろう!)
なんて言い出しても、なんらおかしくはなかった。
しかし僕に命じられたのは
「この後早速、街に出て、面白そうな書物を探してきてほしい」
というものだった。
ホッとした後
(ムニさんが聞いたら羨ましがるかな?)
なんてことを想像する。
お嬢様の喜びそうなものをチョイスできる自信はそんなになかったけど、今ここでした会話は大きなヒントになりそうだった。
断る理由も権利もなかった僕は「わかりました」と、返事した。
読んでいただきありがとうございます。
週二回(火・金 21時)更新を予定しております。