扉の前で立ち止まり、向こうの反応を待つけど、いつものように声がかからない。
いつもなら、僕が扉の近くに来た時点で、アクションがあるんだけど……
(ノックでもしてしまおうか?でも、こちらの世界では失礼に当たるかもしれない。じゃあ声をかけてみる?いや、それも……)
いわゆる常識というものが、僕には分からなかった。
僕が特別非常識だとか、空気が読めないわけではない……はず。
哲学的な話をしたいわけでもない。
そういうことが言いたいのではなく、魔界歴のようなものが浅いのだ。
魔界と言わずとも、初めて訪れる国のマナーが分からないのと同じものだし、なにより厄介なのは、粗相をしてしまえば、場合によっては命にかかわるということだ。
常識が分からないのだから、手の施しようもなく
「困ったなぁ」
と小さくつぶやくと
「どうされたんですか?」
という返事が聞こえてきた。
当然、誰かに向かって放った言葉ではなかったので、思いがけない反応に少しびっくりして、声のした方を振り返ると、サグレナさんがそこに立っていた。
「あ、えっと……お嬢様に用件がありまして……」
「この時間、基本的にお嬢様は屋敷にいらっしゃいませんよ」
「どこかに出かけているんですか?」
「えぇ」
どこに行ってしまったんだろう。
それに、今の口ぶりから察するに、ほとんど毎日この時間は留守にしているようだった。
お嬢様のような身分の方が、どこに通っているのだろう?
(やっぱり、学校とか行ってたりするのかな)
魔界の教育システムは分からないけど、お嬢様の見た目は、人間だと高校生くらいのように見える
ムニさんよりは年上で、サグレナさんよりは年下のような気はしているけど、大前提として、この二人の年齢も分からない。
「その……どこに行ったとかって、聞いてもいいものなんでしょうか?」
奴隷が知る必要はないとか、詮索するな、なんて返事が返ってきちゃうんじゃないかと思った僕は、可能な限り丁寧に尋ねてみた。
サグレナさんは少し思案した後
「まぁ、ここで長く仕えるなら、知っておいた方がいいかもしれませんね」
そう前置きをし、話し始めた。
「お嬢様は、お見舞いに行っておられます」
「お見舞い……って、一体誰の?」
「お嬢様のお母様、つまり、このお屋敷の奥様です」
お嬢様の母親を含めた親族が、この屋敷にいないことはうっすらと気になっていた。
それこそ、人間の世界でだってなかなか踏み込めないようなプライベートの部分だから、聞けずにいたのだ。
「ご病気ですか?」
「えぇ、元々体の丈夫な方ではなかったのですが、旦那様がお仕事で家にいることがほとんどなくなった時期から、心身ともに疲弊していったようで……」
サグレナさんが珍しく、目に見えて表情を暗くした。
家族を失う辛さなら、僕にもわかる。
というか、自分の母親がそんな状態なのに、僕の話を聞いて笑っていたのか……
【親の死でこちらの同情を誘う構成なのはちと減点じゃな】
そう言ってのけた彼女は、どんな気持ちでそれを言ったのだろう。
実の母親を大切に思う気持ちがあるのなら、僕の痛みだってわかってくれそうなのに。
僕が思っている以上に、悪魔と人間の価値観は違うのだろうか。
それとも、奴隷の母親など、取るに足らないものだと思っているのだろうか。
複雑な胸中を押し殺し
「それは大変ですね」
と、サグレナさんに伝えた。
次いで、頼まれていた本を渡してもらうようお願いし、僕はその場を後にした。
直接お渡しして、簡単に内容なんかを説明した方が良いのだろうかと尋ねたけど、そこまではしなくてもいいとのことだった。
僕はもやもやとした気持ちを抱えながら、元々の自分の作業に戻るのだった。
読んでいただきありがとうございます。
週二回(火・金 21時)更新を予定しております。