館林見晴は、伝説の木まで歩いていく   作:エーアイ

1 / 2
館林見晴は、今日も名前を呼ばない

 

 館林見晴は、今日も佐伯達也を見ていた。

 

 三年生の教室が並ぶ廊下。

 

 窓から差し込む午後の光。

 

 卒業まで残りわずかになった校舎は、どこか落ち着かない空気をしている。

 

 進路が決まった生徒たちは、少しだけ大人になったような顔をしていた。

 

 まだ何かを待っている生徒たちは、いつもより少しだけ静かだった。

 

 見晴は、そのどちらでもなかった。

 

 彼女はただ、廊下の端に立っていた。

 

 そして、佐伯達也を見ていた。

 

「佐伯くん」

 

 心の中でなら、何度でも呼べる。

 

 佐伯くん。

 

 佐伯達也くん。

 

 達也くん。

 

 朝、下駄箱の前で。

 

 昼休み、廊下の向こうで。

 

 放課後、校門へ向かう背中を見ながら。

 

 家に帰ってからも。

 

 眠る前にも。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 その名前だけなら、見晴は誰よりも知っている気がした。

 

 でも、それはたぶん違う。

 

 名前を知っていることと、その人を知っていることは、同じではない。

 

 それくらいのことは、見晴にもわかっていた。

 

 わかっていたから、余計に苦しかった。

 

 佐伯達也は、藤崎さんと話していた。

 

 卒業文集の用紙だろうか。

 

 藤崎さんが何かを指さし、佐伯くんが少し困ったように笑う。

 

 藤崎さんは自然に彼の隣に立つ。

 

 自然に彼の方を見る。

 

 自然に彼の名前を呼ぶ。

 

 その全部が、見晴には眩しかった。

 

「達也くん、ここの文章だけど」

 

 藤崎さんの声が聞こえた。

 

 見晴は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。

 

 達也くん。

 

 そう呼べる人がいる。

 

 特別なことではないのかもしれない。

 

 幼なじみなら、当たり前なのかもしれない。

 

 けれど見晴にとって、その当たり前は、三年間ずっと届かない場所にあった。

 

 名前を呼ぶ。

 

 たったそれだけ。

 

 それだけの言葉が、どうしても声にならなかった。

 

 見晴は、廊下の壁に背中を預けた。

 

 本当は、そこに立っている理由なんてなかった。

 

 用事もない。

 

 誰かを待っているわけでもない。

 

 教室へ戻るなら、もうとっくに戻っている。

 

 それでも見晴は、そこにいた。

 

 佐伯達也がそこにいるから。

 

 ただ、それだけだった。

 

 それだけで、三年間が過ぎてしまった。

 

 一年の春。

 

 入学式が終わって間もない頃だった。

 

 まだ校舎の構造もよく覚えていなかった。

 

 どの階段がどこにつながっているのか。

 

 どの廊下がどの教室へ続いているのか。

 

 何もかもが新しくて、少しだけ怖かった。

 

 その日、見晴は教室の場所を間違えた。

 

 慌てて廊下を曲がった。

 

 その瞬間、誰かとぶつかった。

 

「わっ」

 

 手に持っていたプリントが落ちた。

 

 相手の鞄も床に当たった。

 

「ごめん、大丈夫?」

 

 そう言って、彼はしゃがんだ。

 

 見晴は顔を上げた。

 

 その時、初めて佐伯達也を見た。

 

 制服の襟が少し曲がっていた。

 

 前髪が少しだけ跳ねていた。

 

 困ったように笑っていた。

 

 それは、特別な出会いというにはあまりにも普通だった。

 

 廊下でぶつかった。

 

 プリントが落ちた。

 

 謝られた。

 

 それだけだった。

 

 でも、見晴の中では、何かがその場に残った。

 

 彼の声。

 

 彼の笑い方。

 

「大丈夫?」と聞いてくれた時の、少しだけ心配そうな目。

 

 恋だとは、まだ思わなかった。

 

 そんな言葉を使うには、見晴は自分の胸の音を知らなすぎた。

 

 ただ、その後の教室で。

 

 その日の放課後で。

 

 家に帰る途中で。

 

 何度も、彼の声を思い出した。

 

「す、すみません」

 

 あの時、見晴はプリントを拾うと、逃げるようにその場を離れた。

 

 名前は聞かなかった。

 

 自分の名前も言わなかった。

 

 ただ、逃げた。

 

 それなのに、逃げた後も、彼の顔だけが消えなかった。

 

 次の日。

 

 見晴は、彼の名前を知った。

 

 佐伯達也。

 

 同じ学年。

 

 隣のクラスではない。

 

 でも、遠すぎるわけでもない。

 

 そう知った時、胸の奥が小さく跳ねた。

 

 一年の春、廊下でぶつかった時と同じ場所が。

 

 その時になって、見晴はようやく気づいた。

 

 自分は、あの人を探していたのだと。

 

 それからだった。

 

 廊下で彼の姿を探すようになった。

 

 下駄箱で彼の靴を探すようになった。

 

 校門へ向かう背中を、目で追うようになった。

 

 話しかけようと思ったことも、一度だけではなかった。

 

 でも、声は出なかった。

 

 佐伯くん。

 

 心の中で呼ぶだけ。

 

 それだけで、一年目が過ぎていった。

 

 二年の冬。

 

 校舎の中は、吐く息が白くなるほど冷えていた。

 

 窓ガラスが曇り、廊下には誰かの笑い声が響いていた。

 

 見晴は図書室から教室へ戻る途中だった。

 

 本を胸に抱えて歩いていた。

 

 廊下の角を曲がったところで、また彼とぶつかった。

 

 今度は、本が床に落ちた。

 

「ごめん」

 

 彼の声。

 

 一年の春と同じ声だった。

 

 見晴は、胸が跳ねるのを感じた。

 

 本当に偶然だったのかは、わからなかった。

 

 彼がこの時間にこの廊下を通るかもしれない。

 

 そう思っていた。

 

 思っていたけれど、本当に会えるとは思っていなかった。

 

 だから、偶然だと言いたかった。

 

 偶然だと思いたかった。

 

 彼は本を拾ってくれた。

 

 一冊ずつ、丁寧に。

 

「これ、館林さんの?」

 

 その時、見晴は息を止めた。

 

 名前を呼ばれた、と思った。

 

 けれど違った。

 

 彼は本の貸出票を見ていただけだった。

 

 そこに書いてある名前を読んだだけ。

 

 館林見晴。

 

 自分の名前。

 

 彼の声で聞いた初めての自分の名前。

 

 それなのに、彼の目は見晴を見ていなかった。

 

 貸出票を見ていた。

 

 本を見ていた。

 

 落とし物の持ち主を確認していただけだった。

 

「は、はい」

 

 見晴は本を受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

 それだけ言って、また逃げた。

 

 今度こそ、何か言えたかもしれなかった。

 

 あの時、言えばよかった。

 

 佐伯くん、ですよね。

 

 前にもぶつかりましたよね。

 

 私は館林見晴です。

 

 そんな簡単な言葉が、どれか一つでも言えたなら。

 

 でも、言えなかった。

 

 その日から、見晴は自分の名前を彼の声で思い出すようになった。

 

 館林さん。

 

 ただ貸出票を読んだだけの声。

 

 それでも見晴には、捨てられないものになった。

 

 三年の秋。

 

 文化祭の片付けが終わった後だった。

 

 廊下には、まだ紙テープの切れ端や段ボールの跡が残っていた。

 

 いつもの校舎が少しだけ疲れて見えた。

 

 見晴はゴミ袋を持って、階段の近くを歩いていた。

 

 そしてまた、佐伯達也とぶつかった。

 

 もう偶然とは言えなかった。

 

 見晴は知っていた。

 

 彼がこの時間にこの廊下を通ることを。

 

 文化祭の実行委員を手伝っていたことを。

 

 片付けの後、いつも少し遅れて帰ることを。

 

 だから、その廊下を歩いた。

 

 偶然のふりをして。

 

 誰かにそう言われたら、見晴はきっと否定できない。

 

「ごめん」

 

 彼が言った。

 

 その後、少しだけ首をかしげた。

 

「あれ、前にも……」

 

 見晴の心臓が止まりそうになった。

 

 覚えていた。

 

 完全ではないにしても。

 

 彼の中に、少しだけ残っていた。

 

 何度かぶつかった、知らない女の子として。

 

 それだけでも嬉しかった。

 

 でも、同時に怖かった。

 

 知られる。

 

 見つかる。

 

 自分がずっと見ていたことまで、全部知られてしまう気がした。

 

「す、すみません」

 

 見晴はそれだけ言って、逃げた。

 

 名前は言えなかった。

 

 彼の名前も。

 

 自分の名前も。

 

 その日、家に帰ってから、見晴は何度も思い出した。

 

 あれ、前にも。

 

 彼はそう言った。

 

 佐伯達也の中に、自分は少しだけいた。

 

 でも、それは名前のない記憶だった。

 

 名前のない誰か。

 

 よくぶつかる少女。

 

 すぐに逃げる子。

 

 それだけ。

 

 それだけなのに、見晴は嬉しかった。

 

 嬉しくなってしまった。

 

 だから、嫌だった。

 

 自分が少しだけ、嫌だった。

 

 最初は、偶然だった。

 

 一年の春は、本当に偶然だった。

 

 でも、二年の冬には、会えるかもしれないと思っていた。

 

 三年の秋には、彼が通ると知っていた。

 

 少しずつ、偶然ではなくなっていった。

 

 それでも見晴は、偶然のふりをした。

 

 そうしなければ、話しかける勇気のなかった自分を、どう扱えばいいのかわからなかった。

 

 今、三年生の廊下で、佐伯くんは藤崎さんと話している。

 

 藤崎さんは彼の名前を呼ぶ。

 

 佐伯くんはそれに返事をする。

 

 とても自然に。

 

 その自然さが、見晴には遠かった。

 

 名前を呼ぶというのは、関係がある人に許されたことなのだと思った。

 

 見晴は佐伯達也の名前を知っている。

 

 でも、佐伯達也は館林見晴を知らない。

 

 いや。

 

 正確には、知らないわけではない。

 

 本に書かれた名前を一度読んだことはある。

 

 何度かぶつかった相手として、覚えているかもしれない。

 

 けれど、それは見晴が望んでいた「知っている」ではなかった。

 

 佐伯達也の中に、館林見晴という人間はいない。

 

 いるのは、名前のない気配だけ。

 

 廊下の端。

 

 曲がり角。

 

 落ちたプリント。

 

 落ちた本。

 

 すみません、と言って逃げる少女。

 

 それだけだった。

 

「今日も、言えない」

 

 見晴は小さく呟いた。

 

 誰にも聞こえない声だった。

 

 言うなら、今かもしれない。

 

 卒業式まで、もう長くない。

 

 同じ校舎ですれ違える日も、あと少ししかない。

 

 明日がある。

 

 そう思って逃げられる時間は、もう終わりに近づいている。

 

 それなのに、足は動かなかった。

 

 声も出なかった。

 

 佐伯くん。

 

 たった一言。

 

 心の中では、何千回でも呼べる。

 

 でも、本人を前にすると、呼べない。

 

 名前を呼んだら、彼が振り向く。

 

 振り向かれたら、自分を見られる。

 

 見られたら、もう見ているだけではいられない。

 

 それが怖かった。

 

 ずっと見ていたことを知られるのも怖い。

 

 知られないまま終わるのも怖い。

 

 どちらも怖い。

 

 だから見晴は、今日も廊下の端に立っている。

 

 動けないまま。

 

 呼べないまま。

 

 三年間、そうしてきたように。

 

「達也くん、これでいいかな」

 

 藤崎さんの声がした。

 

 佐伯くんが用紙を覗き込む。

 

 二人の距離は近い。

 

 近いのに、当たり前みたいだった。

 

 見晴は目を伏せた。

 

 藤崎さんが羨ましい。

 

 そう思った。

 

 けれど、嫌いにはなれなかった。

 

 藤崎さんは悪くない。

 

 佐伯くんの隣に自然に立てることも。

 

 名前を自然に呼べることも。

 

 悪いことではない。

 

 呼べない自分が、ただそこにいるだけだった。

 

 放課後を告げるチャイムが鳴った。

 

 廊下の空気が少し動く。

 

 生徒たちが帰り支度を始める。

 

 佐伯くんと藤崎さんも、用紙をまとめて歩き出した。

 

 見晴は反射的に身を引いた。

 

 見つからないように。

 

 気づかれないように。

 

 いつものように。

 

 佐伯くんが廊下を歩いてくる。

 

 見晴の前を通り過ぎる。

 

 その瞬間、彼が少しだけこちらを見た。

 

 目が合った。

 

 ような気がした。

 

 見晴は息を止めた。

 

 佐伯くんは、ほんの少し首を傾げた。

 

 何かを思い出そうとするように。

 

 見晴は耐えられなかった。

 

「すみません」

 

 そう言って、頭を下げた。

 

 誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。

 

 彼に。

 

 藤崎さんに。

 

 三年間の自分に。

 

 それとも、今日も名前を呼べなかったことに。

 

 見晴はそのまま、廊下の反対側へ歩き出した。

 

 逃げた。

 

 また逃げた。

 

 足音が遠ざかる。

 

 背中に、佐伯くんの視線が少しだけ残っている気がした。

 

 でも、振り返らなかった。

 

 振り返れば、今度こそ呼ばなければならない気がしたから。

 

 校舎の階段を下りながら、見晴は胸の前で手を握った。

 

 佐伯くん。

 

 心の中で呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 あるはずがない。

 

 心の中で呼んでいるだけなのだから。

 

 それでも、呼んだ。

 

 佐伯くん。

 

 佐伯達也くん。

 

 達也くん。

 

 何度呼んでも、声にはならない。

 

 下駄箱の前まで来て、見晴は立ち止まった。

 

 窓の外に、伝説の木が見えた。

 

 卒業式の日。

 

 あの木の下で告白すると、永遠に幸せになれる。

 

 そんな噂を、知らない生徒はいない。

 

 見晴も知っている。

 

 でも、その噂の中に、自分がいるとは思えなかった。

 

 伝説の木は、藤崎さんのような人が立つ場所だと思っていた。

 

 みんなに知られていて。

 

 名前を呼ばれていて。

 

 自然に彼の隣へ立てる人が。

 

 自分は違う。

 

 自分は廊下の端にいる。

 

 曲がり角にいる。

 

 少し離れた場所から見ている。

 

 名前を呼べないまま、三年間を終えようとしている。

 

「……でも」

 

 見晴は、窓の外を見た。

 

 伝説の木は遠かった。

 

 とても遠かった。

 

 校舎から見れば、すぐそこにあるはずなのに。

 

 見晴には、そこまでの道が果てしなく遠く見えた。

 

 それでも。

 

 今日、佐伯くんは少しだけこちらを見た。

 

 何かを思い出そうとしていた。

 

 名前のない誰かを。

 

 何度もぶつかった少女を。

 

 すぐに逃げる子を。

 

 そこに、館林見晴という名前が届く日は来るのだろうか。

 

 届かせることはできるのだろうか。

 

 見晴には、まだわからなかった。

 

 ただ、一つだけわかっていることがあった。

 

 このままでは、終わってしまう。

 

 見ているだけでは、何も届かない。

 

 名前を知っているだけでは、彼の中に自分はいない。

 

「佐伯くん」

 

 今度は、ほんの少しだけ声になった。

 

 でも、誰にも届かない。

 

 見晴は唇を噛んだ。

 

 今日も呼べなかった。

 

 本人の前では。

 

 それでも、明日がある。

 

 そう思いかけて、見晴は小さく首を振った。

 

 明日は、もう何度も使った言い訳だった。

 

 卒業式まで、残りの日は少ない。

 

 彼とぶつかれる廊下も。

 

 彼の背中を見られる放課後も。

 

 彼の名前を心の中だけで呼んでいられる時間も。

 

 少しずつ、終わっていく。

 

 館林見晴は、下駄箱から靴を取り出した。

 

 そしてもう一度、窓の外の伝説の木を見た。

 

 遠い。

 

 けれど、見える。

 

 まだ、見える。

 

 見晴は今日も名前を呼ばなかった。

 

 佐伯達也の前で。

 

 それでも、心のどこかで初めて思った。

 

 呼べないままでは、終わりたくない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。