館林見晴は、今日も佐伯達也を見ていた。
三年生の教室が並ぶ廊下。
窓から差し込む午後の光。
卒業まで残りわずかになった校舎は、どこか落ち着かない空気をしている。
進路が決まった生徒たちは、少しだけ大人になったような顔をしていた。
まだ何かを待っている生徒たちは、いつもより少しだけ静かだった。
見晴は、そのどちらでもなかった。
彼女はただ、廊下の端に立っていた。
そして、佐伯達也を見ていた。
「佐伯くん」
心の中でなら、何度でも呼べる。
佐伯くん。
佐伯達也くん。
達也くん。
朝、下駄箱の前で。
昼休み、廊下の向こうで。
放課後、校門へ向かう背中を見ながら。
家に帰ってからも。
眠る前にも。
何度も。
何度も。
その名前だけなら、見晴は誰よりも知っている気がした。
でも、それはたぶん違う。
名前を知っていることと、その人を知っていることは、同じではない。
それくらいのことは、見晴にもわかっていた。
わかっていたから、余計に苦しかった。
佐伯達也は、藤崎さんと話していた。
卒業文集の用紙だろうか。
藤崎さんが何かを指さし、佐伯くんが少し困ったように笑う。
藤崎さんは自然に彼の隣に立つ。
自然に彼の方を見る。
自然に彼の名前を呼ぶ。
その全部が、見晴には眩しかった。
「達也くん、ここの文章だけど」
藤崎さんの声が聞こえた。
見晴は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
達也くん。
そう呼べる人がいる。
特別なことではないのかもしれない。
幼なじみなら、当たり前なのかもしれない。
けれど見晴にとって、その当たり前は、三年間ずっと届かない場所にあった。
名前を呼ぶ。
たったそれだけ。
それだけの言葉が、どうしても声にならなかった。
見晴は、廊下の壁に背中を預けた。
本当は、そこに立っている理由なんてなかった。
用事もない。
誰かを待っているわけでもない。
教室へ戻るなら、もうとっくに戻っている。
それでも見晴は、そこにいた。
佐伯達也がそこにいるから。
ただ、それだけだった。
それだけで、三年間が過ぎてしまった。
一年の春。
入学式が終わって間もない頃だった。
まだ校舎の構造もよく覚えていなかった。
どの階段がどこにつながっているのか。
どの廊下がどの教室へ続いているのか。
何もかもが新しくて、少しだけ怖かった。
その日、見晴は教室の場所を間違えた。
慌てて廊下を曲がった。
その瞬間、誰かとぶつかった。
「わっ」
手に持っていたプリントが落ちた。
相手の鞄も床に当たった。
「ごめん、大丈夫?」
そう言って、彼はしゃがんだ。
見晴は顔を上げた。
その時、初めて佐伯達也を見た。
制服の襟が少し曲がっていた。
前髪が少しだけ跳ねていた。
困ったように笑っていた。
それは、特別な出会いというにはあまりにも普通だった。
廊下でぶつかった。
プリントが落ちた。
謝られた。
それだけだった。
でも、見晴の中では、何かがその場に残った。
彼の声。
彼の笑い方。
「大丈夫?」と聞いてくれた時の、少しだけ心配そうな目。
恋だとは、まだ思わなかった。
そんな言葉を使うには、見晴は自分の胸の音を知らなすぎた。
ただ、その後の教室で。
その日の放課後で。
家に帰る途中で。
何度も、彼の声を思い出した。
「す、すみません」
あの時、見晴はプリントを拾うと、逃げるようにその場を離れた。
名前は聞かなかった。
自分の名前も言わなかった。
ただ、逃げた。
それなのに、逃げた後も、彼の顔だけが消えなかった。
次の日。
見晴は、彼の名前を知った。
佐伯達也。
同じ学年。
隣のクラスではない。
でも、遠すぎるわけでもない。
そう知った時、胸の奥が小さく跳ねた。
一年の春、廊下でぶつかった時と同じ場所が。
その時になって、見晴はようやく気づいた。
自分は、あの人を探していたのだと。
それからだった。
廊下で彼の姿を探すようになった。
下駄箱で彼の靴を探すようになった。
校門へ向かう背中を、目で追うようになった。
話しかけようと思ったことも、一度だけではなかった。
でも、声は出なかった。
佐伯くん。
心の中で呼ぶだけ。
それだけで、一年目が過ぎていった。
二年の冬。
校舎の中は、吐く息が白くなるほど冷えていた。
窓ガラスが曇り、廊下には誰かの笑い声が響いていた。
見晴は図書室から教室へ戻る途中だった。
本を胸に抱えて歩いていた。
廊下の角を曲がったところで、また彼とぶつかった。
今度は、本が床に落ちた。
「ごめん」
彼の声。
一年の春と同じ声だった。
見晴は、胸が跳ねるのを感じた。
本当に偶然だったのかは、わからなかった。
彼がこの時間にこの廊下を通るかもしれない。
そう思っていた。
思っていたけれど、本当に会えるとは思っていなかった。
だから、偶然だと言いたかった。
偶然だと思いたかった。
彼は本を拾ってくれた。
一冊ずつ、丁寧に。
「これ、館林さんの?」
その時、見晴は息を止めた。
名前を呼ばれた、と思った。
けれど違った。
彼は本の貸出票を見ていただけだった。
そこに書いてある名前を読んだだけ。
館林見晴。
自分の名前。
彼の声で聞いた初めての自分の名前。
それなのに、彼の目は見晴を見ていなかった。
貸出票を見ていた。
本を見ていた。
落とし物の持ち主を確認していただけだった。
「は、はい」
見晴は本を受け取った。
「ありがとうございます」
それだけ言って、また逃げた。
今度こそ、何か言えたかもしれなかった。
あの時、言えばよかった。
佐伯くん、ですよね。
前にもぶつかりましたよね。
私は館林見晴です。
そんな簡単な言葉が、どれか一つでも言えたなら。
でも、言えなかった。
その日から、見晴は自分の名前を彼の声で思い出すようになった。
館林さん。
ただ貸出票を読んだだけの声。
それでも見晴には、捨てられないものになった。
三年の秋。
文化祭の片付けが終わった後だった。
廊下には、まだ紙テープの切れ端や段ボールの跡が残っていた。
いつもの校舎が少しだけ疲れて見えた。
見晴はゴミ袋を持って、階段の近くを歩いていた。
そしてまた、佐伯達也とぶつかった。
もう偶然とは言えなかった。
見晴は知っていた。
彼がこの時間にこの廊下を通ることを。
文化祭の実行委員を手伝っていたことを。
片付けの後、いつも少し遅れて帰ることを。
だから、その廊下を歩いた。
偶然のふりをして。
誰かにそう言われたら、見晴はきっと否定できない。
「ごめん」
彼が言った。
その後、少しだけ首をかしげた。
「あれ、前にも……」
見晴の心臓が止まりそうになった。
覚えていた。
完全ではないにしても。
彼の中に、少しだけ残っていた。
何度かぶつかった、知らない女の子として。
それだけでも嬉しかった。
でも、同時に怖かった。
知られる。
見つかる。
自分がずっと見ていたことまで、全部知られてしまう気がした。
「す、すみません」
見晴はそれだけ言って、逃げた。
名前は言えなかった。
彼の名前も。
自分の名前も。
その日、家に帰ってから、見晴は何度も思い出した。
あれ、前にも。
彼はそう言った。
佐伯達也の中に、自分は少しだけいた。
でも、それは名前のない記憶だった。
名前のない誰か。
よくぶつかる少女。
すぐに逃げる子。
それだけ。
それだけなのに、見晴は嬉しかった。
嬉しくなってしまった。
だから、嫌だった。
自分が少しだけ、嫌だった。
最初は、偶然だった。
一年の春は、本当に偶然だった。
でも、二年の冬には、会えるかもしれないと思っていた。
三年の秋には、彼が通ると知っていた。
少しずつ、偶然ではなくなっていった。
それでも見晴は、偶然のふりをした。
そうしなければ、話しかける勇気のなかった自分を、どう扱えばいいのかわからなかった。
今、三年生の廊下で、佐伯くんは藤崎さんと話している。
藤崎さんは彼の名前を呼ぶ。
佐伯くんはそれに返事をする。
とても自然に。
その自然さが、見晴には遠かった。
名前を呼ぶというのは、関係がある人に許されたことなのだと思った。
見晴は佐伯達也の名前を知っている。
でも、佐伯達也は館林見晴を知らない。
いや。
正確には、知らないわけではない。
本に書かれた名前を一度読んだことはある。
何度かぶつかった相手として、覚えているかもしれない。
けれど、それは見晴が望んでいた「知っている」ではなかった。
佐伯達也の中に、館林見晴という人間はいない。
いるのは、名前のない気配だけ。
廊下の端。
曲がり角。
落ちたプリント。
落ちた本。
すみません、と言って逃げる少女。
それだけだった。
「今日も、言えない」
見晴は小さく呟いた。
誰にも聞こえない声だった。
言うなら、今かもしれない。
卒業式まで、もう長くない。
同じ校舎ですれ違える日も、あと少ししかない。
明日がある。
そう思って逃げられる時間は、もう終わりに近づいている。
それなのに、足は動かなかった。
声も出なかった。
佐伯くん。
たった一言。
心の中では、何千回でも呼べる。
でも、本人を前にすると、呼べない。
名前を呼んだら、彼が振り向く。
振り向かれたら、自分を見られる。
見られたら、もう見ているだけではいられない。
それが怖かった。
ずっと見ていたことを知られるのも怖い。
知られないまま終わるのも怖い。
どちらも怖い。
だから見晴は、今日も廊下の端に立っている。
動けないまま。
呼べないまま。
三年間、そうしてきたように。
「達也くん、これでいいかな」
藤崎さんの声がした。
佐伯くんが用紙を覗き込む。
二人の距離は近い。
近いのに、当たり前みたいだった。
見晴は目を伏せた。
藤崎さんが羨ましい。
そう思った。
けれど、嫌いにはなれなかった。
藤崎さんは悪くない。
佐伯くんの隣に自然に立てることも。
名前を自然に呼べることも。
悪いことではない。
呼べない自分が、ただそこにいるだけだった。
放課後を告げるチャイムが鳴った。
廊下の空気が少し動く。
生徒たちが帰り支度を始める。
佐伯くんと藤崎さんも、用紙をまとめて歩き出した。
見晴は反射的に身を引いた。
見つからないように。
気づかれないように。
いつものように。
佐伯くんが廊下を歩いてくる。
見晴の前を通り過ぎる。
その瞬間、彼が少しだけこちらを見た。
目が合った。
ような気がした。
見晴は息を止めた。
佐伯くんは、ほんの少し首を傾げた。
何かを思い出そうとするように。
見晴は耐えられなかった。
「すみません」
そう言って、頭を下げた。
誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。
彼に。
藤崎さんに。
三年間の自分に。
それとも、今日も名前を呼べなかったことに。
見晴はそのまま、廊下の反対側へ歩き出した。
逃げた。
また逃げた。
足音が遠ざかる。
背中に、佐伯くんの視線が少しだけ残っている気がした。
でも、振り返らなかった。
振り返れば、今度こそ呼ばなければならない気がしたから。
校舎の階段を下りながら、見晴は胸の前で手を握った。
佐伯くん。
心の中で呼ぶ。
返事はない。
あるはずがない。
心の中で呼んでいるだけなのだから。
それでも、呼んだ。
佐伯くん。
佐伯達也くん。
達也くん。
何度呼んでも、声にはならない。
下駄箱の前まで来て、見晴は立ち止まった。
窓の外に、伝説の木が見えた。
卒業式の日。
あの木の下で告白すると、永遠に幸せになれる。
そんな噂を、知らない生徒はいない。
見晴も知っている。
でも、その噂の中に、自分がいるとは思えなかった。
伝説の木は、藤崎さんのような人が立つ場所だと思っていた。
みんなに知られていて。
名前を呼ばれていて。
自然に彼の隣へ立てる人が。
自分は違う。
自分は廊下の端にいる。
曲がり角にいる。
少し離れた場所から見ている。
名前を呼べないまま、三年間を終えようとしている。
「……でも」
見晴は、窓の外を見た。
伝説の木は遠かった。
とても遠かった。
校舎から見れば、すぐそこにあるはずなのに。
見晴には、そこまでの道が果てしなく遠く見えた。
それでも。
今日、佐伯くんは少しだけこちらを見た。
何かを思い出そうとしていた。
名前のない誰かを。
何度もぶつかった少女を。
すぐに逃げる子を。
そこに、館林見晴という名前が届く日は来るのだろうか。
届かせることはできるのだろうか。
見晴には、まだわからなかった。
ただ、一つだけわかっていることがあった。
このままでは、終わってしまう。
見ているだけでは、何も届かない。
名前を知っているだけでは、彼の中に自分はいない。
「佐伯くん」
今度は、ほんの少しだけ声になった。
でも、誰にも届かない。
見晴は唇を噛んだ。
今日も呼べなかった。
本人の前では。
それでも、明日がある。
そう思いかけて、見晴は小さく首を振った。
明日は、もう何度も使った言い訳だった。
卒業式まで、残りの日は少ない。
彼とぶつかれる廊下も。
彼の背中を見られる放課後も。
彼の名前を心の中だけで呼んでいられる時間も。
少しずつ、終わっていく。
館林見晴は、下駄箱から靴を取り出した。
そしてもう一度、窓の外の伝説の木を見た。
遠い。
けれど、見える。
まだ、見える。
見晴は今日も名前を呼ばなかった。
佐伯達也の前で。
それでも、心のどこかで初めて思った。
呼べないままでは、終わりたくない。