館林見晴は、伝説の木まで歩いていく   作:エーアイ

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エピローグの詩織視点の補完エピソードです。


藤崎詩織は、隣を歩く二人を見送る

 

 卒業式から、数日が過ぎた。

 

 制服を着ない朝にも、少しずつ慣れてきた。

 

 けれど、慣れたからといって、きらめき高校で過ごした三年間が遠くなったわけではない。

 

 通学路ではない道を歩いていても、ふとした瞬間に思い出すことがある。

 

 教室のざわめき。

 

 廊下の窓から見えた校庭。

 

 放課後の図書室。

 

 卒業式の日の体育館。

 

 そして、伝説の木。

 

 藤崎詩織は、駅前の横断歩道で信号を待ちながら、そんなことを考えていた。

 

 今日は、特別な用事があるわけではなかった。

 

 少し買い物をして、家に帰る。

 

 それだけの日。

 

 卒業してからの時間は、思ったよりも静かだった。

 

 学校へ行く必要がない。

 

 同じ教室へ向かう必要がない。

 

 毎朝、誰かに挨拶をして、同じ席に座る必要がない。

 

 それは自由でもあり、少しだけ心細くもあった。

 

 けれど、その心細さを誰かに見せるほど、詩織はまだ素直ではなかった。

 

 駅前には、人の流れがあった。

 

 買い物袋を持った人。

 

 友人と待ち合わせている人。

 

 改札へ急ぐ人。

 

 春休みらしい、少し緩んだ空気。

 

 その中で、詩織はふと向こう側に目を留めた。

 

 見覚えのある二人がいた。

 

 佐伯達也。

 

 そして、館林見晴。

 

 二人は並んで歩いていた。

 

 詩織は、ほんの少しだけ息を止めた。

 

 館林さんは、佐伯くんの後ろにいるのではなかった。

 

 少し離れた場所から見ているのでもなかった。

 

 柱の陰に隠れているのでもなかった。

 

 人の流れから逃げるように外れているのでもなかった。

 

 佐伯くんの隣を歩いていた。

 

 もちろん、完全に慣れているようには見えない。

 

 歩幅はまだ少しぎこちない。

 

 距離も、近すぎず、離れすぎず。

 

 会話が続いているのか、途切れているのかは、こちらからは分からない。

 

 それでも、館林さんはそこにいた。

 

 自分の足で。

 

 佐伯くんの隣に。

 

 詩織は、その姿を見て思った。

 

 館林さんは、本当に歩いたんだ。

 

 卒業式の日。

 

 伝説の木まで。

 

 自分の言葉を持って。

 

 自分の足で。

 

 あの日のことを、詩織は今でもよく覚えている。

 

 伝説の木の少し外側。

 

 そこに立っていた自分。

 

 佐伯くんがいて。

 

 館林さんがいて。

 

 誰かが誰かを待つ場所で、館林さんはもう待つだけではいなかった。

 

 隠れることもできたはずだった。

 

 見送ることもできたはずだった。

 

 名前を呼ばれないまま、卒業してしまうこともできたはずだった。

 

 けれど、彼女は歩いた。

 

 伝説の木まで。

 

 詩織は、その場にいた。

 

 見ていた。

 

 それだけだった。

 

 それだけだったはずなのに、あの日の光景は、今も胸の奥に残っている。

 

 自分は、伝説の木に一番近いと思われていた。

 

 そういう噂を、何度も聞いた。

 

 藤崎さんなら似合う。

 

 詩織なら、きっと。

 

 伝説の木の下に立つなら、藤崎詩織。

 

 そんな言葉を、軽い冗談のように。

 

 あるいは、当然のことのように。

 

 何度も聞いてきた。

 

 嫌だったわけではない。

 

 少なくとも、嫌なだけではなかった。

 

 自分がそう見られていることを、詩織は知っていた。

 

 そして、知らないふりをしていた。

 

 伝説の木に近い自分。

 

 誰かが目指す先にいる自分。

 

 選ばれる側にいるように見える自分。

 

 その位置が、少し重かった。

 

 けれど、少し誇らしくもあった。

 

 だから、あの日。

 

 伝説の木まで歩いたのが自分ではなかったことを、何も思わなかったと言えば嘘になる。

 

 悔しくなかったと言えば、嘘になる。

 

 寂しくなかったと言えば、きっとそれも嘘になる。

 

 自分が立つと思われていた場所へ、館林さんが歩いていった。

 

 それを見て、胸がまったく揺れなかったわけではない。

 

 けれど。

 

 それは、悔しさだけではなかった。

 

 館林さんは、奪いに来たのではない。

 

 勝ち誇るために歩いたのでもない。

 

 誰かに見せつけるために、伝説の木まで行ったのでもない。

 

 彼女は、ただ。

 

 自分の中にあった三年間を、終わらせないために歩いた。

 

 名前を呼ばれるために。

 

 見つけられるために。

 

 でも、見つけられるのを待つだけではなく、自分からそこへ行くために。

 

 詩織には、それが分かった。

 

 だから、否定できなかった。

 

 否定したくなかった。

 

 藤崎詩織に似合うと言われた場所へ、館林見晴が歩いていった。

 

 その事実は、少しだけ痛かった。

 

 けれど同時に、とても正しいことのようにも見えた。

 

 信号の向こうで、館林さんが少し顔を上げた。

 

 詩織に気づいたらしい。

 

 隣の佐伯くんも、こちらを見た。

 

 信号が変わる。

 

 人の流れが動き出す。

 

 詩織も歩き出した。

 

 二人との距離が近づいていく。

 

 館林さんは、少しだけ緊張したように見えた。

 

 でも、逃げなかった。

 

 佐伯くんの後ろへ下がることもなかった。

 

 その場に、立っていた。

 

 詩織はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

「こんにちは、館林さん。佐伯くん」

 

 自然に、館林さんの名前が先に出た。

 

 自分でも少しだけ不思議だった。

 

 でも、そう呼びたかった。

 

 彼女は、もう誰かの後ろにいるだけの人ではない。

 

 佐伯くんの物語の端にいるだけの人でもない。

 

 館林見晴。

 

 自分の名前を持って、伝説の木まで歩いた人。

 

「こんにちは、藤崎さん」

 

 館林さんが小さく頭を下げた。

 

 声は控えめだった。

 

 でも、届いた。

 

 卒業式の日とは違う。

 

 伝説の木の下ではない。

 

 駅前の横断歩道。

 

 人の流れの中。

 

 なんでもない日常の場所。

 

 それでも、館林さんの声は、ちゃんとそこにあった。

 

「詩織、こんにちは」

 

 佐伯くんも言った。

 

 その声も、少しだけ変わって聞こえた。

 

 以前と同じようで、少し違う。

 

 隣にいる人を意識している声。

 

 誰かを置いていかないようにしている声。

 

 そんなふうに聞こえた。

 

 詩織は、二人を見た。

 

 聞きたいことは、いくつかあった。

 

 どこへ行くの。

 

 もう慣れた?

 

 佐伯くんは、ちゃんと館林さんを見ている?

 

 館林さんは、もう隠れないでいられる?

 

 けれど、そのどれも口にはしなかった。

 

 今、余計な言葉はいらない気がした。

 

 二人はまだ始まったばかりなのだ。

 

 歩幅も、距離も、会話の量も、きっとこれから少しずつ決めていく。

 

 外から言葉を足しすぎる必要はない。

 

 詩織は、少しだけ微笑んだ。

 

「気をつけてね」

 

 それだけ言った。

 

 短い言葉だった。

 

 でも、その中には、思っていたよりも多くのものが入っていた。

 

 転ばないでね。

 

 急ぎすぎないでね。

 

 無理に歩幅を合わせすぎないでね。

 

 でも、止まらないでね。

 

 せっかく歩いたのだから。

 

 せっかく隣にいるのだから。

 

 どうか、そのまま。

 

 少しずつでいいから。

 

「はい」

 

 館林さんが答えた。

 

 その返事に、詩織は頷いた。

 

「じゃあ、また」

 

 そう言って、二人の横を通り過ぎる。

 

 すれ違う一瞬、館林さんが本当に少しだけこちらを見た気がした。

 

 詩織は振り返らなかった。

 

 すぐには。

 

 けれど、数歩進んでから、どうしても気になって振り返った。

 

 二人は、横断歩道を渡り終えていた。

 

 佐伯くんが何かを言っている。

 

 館林さんが少し考えて、頷いている。

 

 まだぎこちない。

 

 まだ、普通の恋人同士のようには見えない。

 

 でも、そこが良かった。

 

 完成されていないからこそ、本当に始まったのだと思えた。

 

 館林さんは、遠くから見ているだけではなかった。

 

 佐伯くんも、見つけて終わりにはしていなかった。

 

 二人は、まだうまくないまま、隣を歩いている。

 

 詩織は、その背中を見送った。

 

 胸の中に、小さな痛みはあった。

 

 それは消えない。

 

 消さなくていいと思った。

 

 自分が伝説の木に一番近いと思われていたこと。

 

 そこへ歩いたのが自分ではなかったこと。

 

 それを少しだけ悔しいと思ったこと。

 

 全部、なかったことにはしなくていい。

 

 でも、それだけではない。

 

 館林さんが歩いたことを、詩織は認めている。

 

 隠れていた彼女が、隠れずに名前を呼ばれていることを。

 

 見ているだけだった彼女が、隣を歩いていることを。

 

 その一歩を、ちゃんと祝福したいと思っていることを。

 

 詩織は、自分の胸の中で静かに確かめた。

 

 藤崎詩織は、伝説の木に一番近いと言われていた。

 

 けれど、あの日、伝説の木まで歩いたのは館林見晴だった。

 

 そのことが、少し悔しい。

 

 そのことが、少し眩しい。

 

 そして、その眩しさを綺麗だと思える自分がいる。

 

 駅前の人の流れの中で、詩織はもう一度だけ、二人の背中を見た。

 

 佐伯くんの隣を、館林さんが歩いている。

 

 少しぎこちなく。

 

 けれど、確かに。

 

 その姿が角を曲がって見えなくなるまで、詩織はそこに立っていた。

 

 やがて、二人の姿が人波の向こうに消える。

 

 詩織は小さく息を吐いた。

 

「……気をつけてね」

 

 もう一度、誰にも聞こえない声で言った。

 

 それは忠告ではなかった。

 

 引き止める言葉でもなかった。

 

 藤崎詩織なりの、祝福だった。

 

 そして詩織も、ゆっくり歩き出した。

 

 二人とは別の道を。

 

 けれど、立ち止まったままではなく。

 

 春の駅前を、前へ。

 

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