「達也くん、ここの文章だけど」
詩織の声がした。
佐伯達也は、卒業文集の原稿用紙から顔を上げた。
放課後の教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。
進路の話をしている者。
部活の後輩に呼ばれている者。
卒業式のあとに何をするか相談している者。
それぞれが、残り少ない高校生活を少しずつ片付けているようだった。
達也と詩織は、窓際の机を二つ並べて、卒業文集の作業をしていた。
好雄に押しつけられた、という言い方は少し違う。
推薦された、と言えば聞こえはいい。
ただ、好雄が何を考えていたのかは、達也にも何となくわかっていた。
卒業前に、せめて少しは詩織と話せ。
そういうことなのだろう。
「どこ?」
達也が尋ねると、詩織は原稿用紙の一行を指さした。
「ここ。少し言い回しが硬いかなって」
「えっと……確かに、硬いかもな」
「でしょう?」
詩織は小さく笑った。
その笑顔は、昔から見慣れているはずだった。
幼なじみ。
その言葉は便利だった。
達也と詩織の関係を説明するには、たぶん一番わかりやすい。
家が近かった。
小さい頃から顔を知っていた。
同じ学校に通っていた。
挨拶をすれば、普通に返ってくる。
困ったことがあれば、詩織は気にかけてくれる。
嫌われているわけではない。
むしろ、特別に扱われている部分もあったのだと思う。
それでも、近かったかと聞かれると、達也はうまく答えられなかった。
近い。
でも、遠い。
子供の頃なら、何も考えずに隣を歩けた。
けれど、高校生になってからの詩織は、いつの間にか学園の中心にいた。
成績もいい。
運動もできる。
誰に対しても自然で、誰からも見られている。
藤崎詩織。
その名前には、達也が思っている以上の重さがあった。
詩織は変わっていない。
そう思いたかった。
でも、変わっていなかったのは詩織ではなく、達也の見方だったのかもしれない。
幼なじみだから話せる。
幼なじみだから笑ってくれる。
幼なじみだから隣に立てる。
そう思っていた。
でも、その関係を少しでも違うものにしようとした時、達也はいつも立ち止まった。
壊れるのが怖かった。
幼なじみという言葉で保たれている距離を、自分の都合で変えてしまうのが怖かった。
詩織が特別すぎて、軽く踏み込めなかった。
たぶん、詩織もそれに気づいていた。
気づいていて、踏み込まなかった。
達也が何も言わないから。
詩織も何も言わない。
そうして三年間が過ぎた。
部活も、勉強も、学校生活も、それなりに頑張った。
まったく何もしなかったわけではない。
テスト前には勉強した。
体育祭では走った。
文化祭では準備も片付けもした。
卒業できるだけの毎日は、ちゃんと送ってきた。
けれど、何かを成し遂げた実感はなかった。
胸を張って、これが自分の高校生活だったと言えるものがなかった。
ただ、詩織を好きだった。
それだけで、終わろうとしている。
そう思った時、達也は原稿用紙の白い余白が妙に広く見えた。
「達也くん?」
詩織が首をかしげる。
「あ、ごめん。ちょっと考えてた」
「疲れた?」
「いや、大丈夫」
達也は笑ってごまかした。
詩織はそれ以上、深く聞かなかった。
そういうところが、詩織らしかった。
気にかけてくれる。
でも、踏み込みすぎない。
達也にとっては優しさだった。
同時に、停滞でもあった。
「ここの文章、少し柔らかくするか」
「うん。その方がいいと思う」
詩織が頷く。
達也は鉛筆を持ち直した。
けれど、文字を書こうとして、ふと手が止まった。
頭の中に、さっきの廊下が残っていた。
廊下の端。
壁際に立っていた女子生徒。
目が合ったような気がした瞬間、彼女は頭を下げた。
「すみません」
そう言って、逃げるように行ってしまった。
それだけなら、気にするほどのことではない。
でも、引っかかっていた。
前にも見た気がする。
そう思った。
いや、見たというより、ぶつかった気がする。
一年の春。
プリントが落ちた廊下。
二年の冬。
図書室近くで、本が床に散らばった時。
三年の秋。
文化祭の片付けが終わった後。
全部が同じ子だったのかは、わからない。
けれど、さっきの女子生徒を見た瞬間、その記憶が少しずつつながりそうになった。
すぐに謝る子。
すぐに逃げる子。
こちらを見ていたような気がするのに、目が合うと消えてしまう子。
「あれ、前にも……」
三年の秋、自分はそう言った気がする。
その言葉を言われた時、彼女はひどく驚いた顔をした。
その顔を、達也は今になって思い出していた。
「どうしたの?」
詩織が聞いた。
「いや……さっきの子」
「さっきの子?」
「廊下で、すれ違ったっていうか。こっち見てたような、そうじゃないような」
詩織は少し考えるように瞬きをした。
「もしかして、さっき謝って行っちゃった子?」
「ああ」
「知り合い?」
「いや、たぶん違う」
そこまで言って、達也は少しだけ言葉に迷った。
知り合いではない。
それは確かだ。
名前も知らない。
クラスも知らない。
話したことも、ほとんどない。
でも、本当に知らないと言い切れるのか。
何度もぶつかっていたとしたら。
何度も同じ廊下ですれ違っていたとしたら。
その子は、達也の高校生活のどこかに、ずっといたのではないか。
そう思うと、知らないという言葉が少しだけ引っかかった。
「たぶん違うんだけどさ」
達也は原稿用紙の端を見ながら言った。
「前にも会った気がするんだ」
「会った?」
「ぶつかった、の方が近いかな。廊下で何度か」
「何度か?」
「一年の頃だったと思う。プリント落として。二年の時は、本だったかな。あと文化祭の片付けの後にも……」
口に出してみると、思ったより覚えていた。
達也自身が驚いた。
忘れていたわけではなかった。
ただ、名前のない出来事として、どこかにしまい込んでいた。
詩織は黙って聞いていた。
その横顔は穏やかだったけれど、少しだけ考えているようにも見えた。
「同じ人だったの?」
「わからない」
「でも、気になるんだ」
気になる。
そう言われると、少し違う気もした。
恋愛感情のようなものではない。
少なくとも今は、そんなふうには思っていない。
ただ、引っかかっている。
自分の三年間の中に、名前のないまま残っている誰か。
それを知らないまま卒業することに、急に落ち着かなくなった。
「なんかさ」
達也は苦笑した。
「俺、三年間、何を見てたんだろうって思って」
詩織の指が、原稿用紙の上で止まった。
「何を?」
「うん」
達也は窓の外を見た。
校庭の向こうに、伝説の木が見える。
卒業式の日、あの木の下で告白すると、永遠に幸せになれる。
そんな噂を知らない生徒はいない。
達也だって、もちろん知っている。
その噂を聞くたびに、詩織のことを思い浮かべなかったと言えば嘘になる。
でも、思い浮かべるだけだった。
いつか。
そのうち。
卒業までには。
そんな言葉で、三年間を先送りしてきた。
「詩織のこと、ずっと見てた気がする」
達也は言った。
言ってから、少しだけ後悔した。
思ったより直接的な言葉になってしまった。
詩織がこちらを見る。
達也は視線を合わせられなかった。
「でも、見てただけだったんだよな。何も言わなかったし、何も変えられなかった」
「達也くん……」
「それで今さら、別の誰かのことを思い出してる。何度も近くにいたのに、名前も知らない子のことを」
自分でも、何を言っているのかわからなくなってきた。
詩織にこんな話をするのは、ずるい気がした。
でも、卒業文集の作業をしているこの時間が、妙に本音を引き出してしまう。
高校生活を振り返る文章を作っているからだろうか。
自分が何をして、何をしなかったのか。
そんなことばかり考えてしまう。
「俺、自分で思ってたより、何も見てなかったのかもしれない」
教室が少し静かになった。
窓の外から、運動部の声がかすかに聞こえる。
詩織はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「気になるなら、探してみたら?」
達也は顔を上げた。
「探す?」
「うん。名前を知りたいなら」
詩織の声は穏やかだった。
責めるようでも、からかうようでもない。
本当に、自然な提案だった。
「卒業したら、もう会えなくなるかもしれないでしょう?」
その言葉が、達也の胸に残った。
卒業したら、もう会えなくなる。
当たり前のことだった。
でも、当たり前すぎて、考えないようにしていた。
詩織とも。
好雄とも。
クラスメイトとも。
そして、名前も知らないあの少女とも。
「探すって言ってもな。名前もクラスも知らないし」
「でも、何度かぶつかったんでしょう?」
「うん」
「なら、まったく知らない人じゃないのかもしれないよ」
詩織はそう言った。
その言葉は優しかった。
優しいのに、少しだけ痛かった。
まったく知らない人じゃない。
本当にそうだろうか。
達也は彼女の名前を知らない。
彼女がどんな声で笑うのかも知らない。
何が好きなのかも知らない。
なぜいつも逃げるように謝るのかも知らない。
それなのに、何度も近くにいた。
近くにいたのに、知らなかった。
それは、詩織との関係にも似ているのかもしれない。
近くにいた。
話せた。
名前も呼ばれた。
それなのに、本当に何かを知ろうとしたことがあっただろうか。
詩織の隣に立つ自信がない。
そう言いながら、達也は詩織のことを、どこかで「知っているもの」として扱っていたのかもしれない。
幼なじみだから。
昔から知っているから。
だから、聞かなくてもわかる。
そんなふうに。
「達也くん?」
詩織が呼ぶ。
その声に、達也は現実へ戻された。
「いや、何でもない」
「無理しないでね」
「うん」
達也は笑った。
詩織も小さく笑う。
その笑顔に、達也は胸が少し痛くなった。
詩織は優しい。
いつもそうだった。
近くにいるようで、遠い。
遠いようで、気にかけてくれる。
その距離に甘えて、達也は三年間を過ごしてきた。
「とりあえず、文集の作業を終わらせよう」
「そうだね」
達也は鉛筆を動かした。
文字を書きながらも、さっきの言葉が残っていた。
気になるなら、探してみたら。
卒業したら、もう会えなくなるかもしれない。
探す。
名前を知る。
それだけのことが、今の達也には妙に大きく感じられた。
それからしばらくして、作業は一区切りついた。
教室の外は、すでに夕方の色になっていた。
窓から差し込む光が、机の上の原稿用紙を赤く染めている。
「今日はここまでかな」
詩織が用紙をそろえながら言った。
「だな。結構進んだと思う」
「うん。ありがとう、達也くん」
「こっちこそ」
二人で原稿をまとめ、職員室へ届けた。
その帰り道。
廊下を歩きながら、達也は無意識に周囲を見ていた。
誰かを探すつもりはなかった。
そう思っていた。
でも、自分の視線が廊下の端や曲がり角を追っていることに気づいた。
詩織がそれに気づいたかどうかはわからない。
職員室の前で詩織と別れた。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
詩織はそう言って、手を振った。
達也も軽く手を上げた。
また明日。
その言葉も、もう何回使えるのだろう。
卒業まで、残りの日は少ない。
達也は昇降口へ向かった。
校舎の中は、放課後のざわめきが少しずつ薄くなっていた。
部活へ向かう生徒の足音。
帰宅する生徒の声。
階段の踊り場から差し込む夕日。
その中で、達也はふと足を止めた。
昇降口の手前。
廊下の向こう。
一人の女子生徒が歩いていた。
少しだけ俯き気味で。
鞄を胸に抱えるようにして。
人の流れから少し外れるように。
達也の中で、何かがつながった。
あの子だ。
そう思った。
さっき廊下で謝って逃げた子。
文化祭の後にぶつかった子。
本を落とした子。
プリントを落とした子。
全部が本当に同じ子なのかは、まだわからない。
けれど、達也はそう感じた。
「あの」
声をかけようとした。
その瞬間、彼女が振り返った。
目が合った。
今度は、気のせいではなかった。
彼女の目が、大きく揺れた。
驚き。
不安。
それから、怖さ。
達也が一歩踏み出す前に、彼女は頭を下げた。
「すみません」
また、その言葉だった。
そして彼女は、逃げるように昇降口へ向かっていった。
達也は追いかけなかった。
追いかければ、たぶん怖がらせる。
そう思った。
いや、そう思ったのは言い訳かもしれない。
本当は、追いかけるほどの勇気がまだなかっただけかもしれない。
達也はその場に立ち尽くした。
彼女の背中が、人の流れの中に消えていく。
あれほど近くにいたのに。
また、名前を聞けなかった。
廊下に夕日が差し込んでいる。
その光の中で、達也は小さく息を吐いた。
やっぱり、前にも会っている。
それだけは、もう確信に近かった。
でも、名前がわからない。
クラスもわからない。
何を考えているのかもわからない。
なぜ、いつも謝って逃げるのかもわからない。
何度もぶつかったのに。
何度も近くにいたのに。
知らない。
その事実が、妙に重かった。
達也は、昇降口の先を見た。
彼女の姿はもう見えない。
それでも、胸の奥に引っかかりだけが残っていた。
名前を知らないまま、卒業したくない。
初めて、はっきりとそう思った。
それは恋ではなかった。
少なくとも、まだ。
ただ、自分の高校生活の中に確かにいた誰かを、名前のないまま終わらせたくなかった。
詩織を見ていた三年間。
何も始められなかった三年間。
その中で、自分は別の誰かを見落としていた。
あの子は、誰なんだろう。
達也はもう一度、彼女が消えた方を見た。
そして、心の中で呟いた。
次に会ったら、今度こそ聞こう。
名前を。
その人自身を。
知らないままでは、終われない。