館林見晴は、伝説の木まで歩いていく   作:エーアイ

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藤崎詩織は、視線の行き先を見る

 

 藤崎詩織は、放課後の教室に残っていた。

 

 机の上には、卒業文集の原稿用紙が数枚。

 

 鉛筆。

 

 消しゴム。

 

 何度も書き直された跡。

 

 窓の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。

 

 卒業まで、もう長くない。

 

 そう思うたびに、校舎の中の景色が少しだけ違って見える。

 

 何度も通った廊下も。

 

 何度も座った教室も。

 

 何度も見た窓の外も。

 

 もうすぐ、思い出になる。

 

 詩織は、原稿用紙の端を指でなぞった。

 

 昨日、達也は言った。

 

 俺、三年間、何を見てたんだろうって思って。

 

 その言葉が、ずっと残っている。

 

 何を見ていたのか。

 

 詩織は、その問いを自分にも向けてみた。

 

 達也くんは、私を見ていた。

 

 それは、たぶんわかっていた。

 

 幼なじみだから。

 

 昔から知っているから。

 

 彼が自分に向ける視線の種類が、他の人と少し違うことくらい、気づいていなかったわけではない。

 

 けれど、詩織はそれをはっきりと受け取らなかった。

 

 受け取ってしまえば、何かが変わる。

 

 変わってしまえば、今までの距離には戻れない。

 

 だから、幼なじみという言葉の中に置いておいた。

 

 達也くんも、同じだったのだと思う。

 

 近い。

 

 でも、踏み込まない。

 

 話せる。

 

 でも、確かめない。

 

 気にかけている。

 

 でも、名前のついた関係にはしない。

 

 そうして三年間が過ぎた。

 

 詩織は静かに息を吐いた。

 

 達也くんは、私を見ていた。

 

 でも。

 

 私は、本当に達也くんを見ていたのだろうか。

 

「詩織?」

 

 声がして、詩織は顔を上げた。

 

 教室の入口に、佐伯達也が立っていた。

 

 手には、昨日の原稿を挟んだファイルを持っている。

 

「ごめん、遅れた」

 

「ううん。私も今来たところ」

 

 嘘ではない。

 

 けれど、考えごとをしていた時間は少し長かった。

 

 達也は机に近づき、いつものように詩織の隣に座った。

 

 その距離は自然だった。

 

 幼なじみとしてなら。

 

 卒業文集の担当としてなら。

 

 でも、その自然さが今日は少しだけ痛かった。

 

「昨日のところ、直してみたんだけど」

 

 達也が原稿を差し出す。

 

「うん、見せて」

 

 詩織は受け取って目を通した。

 

 昨日より少し柔らかい文章になっている。

 

 きちんと考えてくれたのだとわかる。

 

「いいと思う」

 

「本当?」

 

「うん。この方が読みやすい」

 

「よかった」

 

 達也はほっとしたように笑った。

 

 その表情を見て、詩織も笑い返した。

 

 いつもの会話。

 

 いつもの距離。

 

 いつもの放課後。

 

 けれど、少しだけ違うことがあった。

 

 達也の視線が、時々教室の外へ向く。

 

 廊下の方へ。

 

 昇降口へ続く階段の方へ。

 

 誰かを探すように。

 

 本人は、気づいていないのかもしれない。

 

 でも詩織にはわかった。

 

 達也くんは、昨日からずっと、あの子のことを気にしている。

 

「達也くん」

 

「ん?」

 

「また、あの子のこと?」

 

 達也は少しだけ慌てた。

 

「いや、そういうわけじゃないけど」

 

「そう?」

 

「……いや、少しはそうかも」

 

 正直な答えだった。

 

 詩織は小さく笑った。

 

 その笑いは、昨日までと同じようにはできなかった。

 

 少しだけ静かになってしまう。

 

「名前、知りたいの?」

 

 達也は答えに迷った。

 

 鉛筆を指で回し、原稿用紙に視線を落とす。

 

 それから、ゆっくり頷いた。

 

「うん。知らないまま卒業するのは、なんか違う気がする」

 

 詩織の胸の奥が、小さく痛んだ。

 

 知らないから、知りたい。

 

 その言葉は、まっすぐだった。

 

 だから、少しだけ痛かった。

 

 達也くんは、私のことを知っていると思っていたのだろう。

 

 私も、達也くんのことを知っていると思っていた。

 

 幼なじみだから。

 

 昔から一緒だったから。

 

 名前を呼べるから。

 

 挨拶ができるから。

 

 一緒に卒業文集の作業ができるから。

 

 でも、それは本当に知っていることだったのだろうか。

 

 知っているつもりで、止まっていただけではなかったのか。

 

 達也は続けた。

 

「何度もぶつかってたかもしれないんだ。なのに、名前も知らない。そういうの、なんか……嫌だなって」

 

「……そう」

 

 詩織は短く答えた。

 

 それ以上を言うと、別の痛みまで言葉になってしまいそうだった。

 

 自分たちもそうだったのかもしれない。

 

 何度も近くにいた。

 

 何度も名前を呼んだ。

 

 でも、肝心なことは何も知らないまま。

 

 知らないままというより、知っているつもりのまま。

 

 その方が、もしかしたらずっと厄介なのかもしれない。

 

「探してみる?」

 

 詩織が聞くと、達也は少し困った顔をした。

 

「探すって言っても、手がかりがほとんどないし」

 

「何度かぶつかったんでしょう?」

 

「うん」

 

「じゃあ、少なくとも同じ学校の人だよね」

 

「それはそうだけど」

 

「卒業前だから、文集の提出物とか、進路関係の書類とか、いろいろあるし。名前くらいなら、どこかでわかるかもしれないよ」

 

 言ってから、詩織は自分の言葉に少し驚いた。

 

 背中を押している。

 

 達也が、自分ではない誰かを探すことを。

 

 でも、不思議と止めたいとは思わなかった。

 

 ただ、胸の奥に小さな痛みだけがあった。

 

 痛みを理解する。

 

 でも、飲み込む。

 

 それくらいなら、自分にもできると思った。

 

「詩織は優しいな」

 

 達也が言った。

 

 詩織は首を横に振った。

 

「優しいわけじゃないよ」

 

「そう?」

 

「うん。ただ……知らないまま終わるのは、少し寂しいと思っただけ」

 

 それは達也に向けた言葉だった。

 

 同時に、自分に向けた言葉でもあった。

 

 作業はいつもより少し早く終わった。

 

 二人で原稿をまとめ、職員室へ届けに行く。

 

 廊下へ出ると、放課後の空気が薄く広がっていた。

 

 生徒の声。

 

 足音。

 

 窓から入る夕方の光。

 

 その中で、達也の視線がまた動いた。

 

 廊下の端へ。

 

 曲がり角へ。

 

 昇降口へ続く方へ。

 

 詩織はその視線の行き先を見る。

 

 そこには、誰もいない。

 

 少なくとも、今は。

 

 けれど達也は、確かに誰かを探していた。

 

 以前、達也の視線はもっとわかりやすかった。

 

 詩織の方を見る。

 

 それから、見ないふりをする。

 

 気づかれないように、でも気づいてほしいように。

 

 そういう視線を、詩織は知っていた。

 

 けれど今の達也は違う。

 

 誰かを探している。

 

 名前のわからない誰かを。

 

 自分の高校生活の中にいたのに、見落としていた誰かを。

 

 詩織はその変化を、静かに見ていた。

 

 職員室に原稿を届けた帰り。

 

 階段の近くで、詩織は一人の女子生徒とすれ違った。

 

 小柄で、目立たない。

 

 鞄を胸に抱えるように持っている。

 

 廊下の端を歩く癖があるのか、人の流れから少しだけ外れていた。

 

 その子は、詩織に気づくと、軽く会釈した。

 

 詩織も会釈を返した。

 

 それだけだった。

 

 言葉はなかった。

 

 けれど詩織は、ふとその子の手元を見た。

 

 何枚かのプリント。

 

 卒業文集のアンケート用紙だろうか。

 

 その一枚が、鞄の間から少しだけずれていた。

 

 次の瞬間、プリントが床に落ちた。

 

「あ」

 

 その子が小さく声を上げる。

 

 詩織は反射的にかがんで、プリントを拾った。

 

 用紙の上に、名前が書かれていた。

 

 館林見晴。

 

 詩織は、その名前を目で追った。

 

 館林見晴。

 

 聞き覚えがあるような、ないような名前だった。

 

 同じ学年なら、どこかで見たことがあっても不思議ではない。

 

 でも、詩織がその名前を意識したのは初めてだった。

 

「はい」

 

 詩織はプリントを差し出した。

 

 その子、館林見晴は、両手で受け取った。

 

「ありがとうございます、藤崎さん」

 

 細い声だった。

 

 今にも逃げてしまいそうで、それでも丁寧な声。

 

 詩織は、その声を初めて聞いた気がした。

 

「どういたしまして」

 

 そう答えると、館林さんはもう一度小さく会釈した。

 

 そして、行ってしまう。

 

 歩き方まで、どこか逃げるようだった。

 

 詩織はその背中を見送った。

 

 その時、廊下の向こうから達也が歩いてくるのが見えた。

 

 職員室前で少し先生に呼び止められていたのだろう。

 

 達也は詩織の方へ戻ってくる途中だった。

 

 館林さんは、それに気づいていない。

 

 いや、気づいていないように見えた。

 

 けれど次の瞬間、彼女の足が止まった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 顔を上げる。

 

 視線が、達也へ向く。

 

 詩織は、その視線を見た。

 

 静かな視線だった。

 

 けれど、ただ見ているだけではない。

 

 遠くから、ずっと何かを大事にしているような視線。

 

 近づきたいのに、近づけない。

 

 呼びたいのに、呼べない。

 

 見ていることすら、誰にも知られたくない。

 

 そんなふうに見えた。

 

 達也がこちらへ歩いてくる。

 

 館林さんは、それに気づいた途端、目を伏せた。

 

 そして、通り過ぎるように廊下の端へ寄った。

 

 まるで、最初からそこにいなかったことにしたいみたいに。

 

 達也は一瞬、彼女の方を見た。

 

 足が少しだけ止まる。

 

 詩織にはわかった。

 

 達也も気づいている。

 

 あの子だ、と。

 

 けれど、館林さんはすぐに歩き去ってしまった。

 

 達也は追わない。

 

 昨日と同じように。

 

 ただ、その背中を見ている。

 

 詩織は、二人の間にある距離を見た。

 

 近い。

 

 でも、遠い。

 

 自分と達也の距離とは違う。

 

 詩織は達也の近くにいた。

 

 名前を呼べる。

 

 会話もできる。

 

 卒業文集作業も一緒にできる。

 

 好雄くんの推薦があれば、自然に隣に座れる。

 

 でも、それは近いというだけだったのかもしれない。

 

 踏み込んだわけではない。

 

 向き合ったわけでもない。

 

 一方で、館林さんは遠い。

 

 名前も呼べないのかもしれない。

 

 会話もほとんどできないのかもしれない。

 

 達也が振り向けば、すぐに逃げてしまう。

 

 それでも。

 

 あの子は、達也くんを見ている。

 

 詩織はそう思った。

 

 そして、少し遅れて、もう一つの考えが胸に落ちた。

 

 あの子は、私の知らない達也くんを見ていたのかもしれない。

 

 詩織が幼なじみとして知っている達也。

 

 昔から近くにいた達也。

 

 詩織のことを見ている達也。

 

 その達也とは別に。

 

 廊下でぶつかる達也。

 

 本を拾ってくれる達也。

 

 文化祭の後、少し遅れて帰る達也。

 

 誰かに「大丈夫?」と声をかける達也。

 

 館林さんは、そういう達也を見ていたのかもしれない。

 

 自分が知らないわけではない。

 

 でも、意識して見ていなかった達也を。

 

「詩織?」

 

 達也が近づいてきた。

 

「どうした?」

 

「ううん」

 

 詩織は首を横に振った。

 

「何でもない」

 

 本当は、何でもなくはなかった。

 

 でも、ここで言葉にするには早い気がした。

 

 館林さんを追い詰めることになるかもしれない。

 

 達也に、今すぐ名前を渡すこともできる。

 

 館林見晴。

 

 その名前を言えば、達也が探しているものは一つ進む。

 

 でも、それは詩織が決めていいことなのだろうか。

 

 詩織は、館林さんがさっき落としたプリントの文字を思い出した。

 

 きれいに書かれた名前。

 

 館林見晴。

 

 そして、達也の言葉を思い出す。

 

 知らないまま卒業するのは、なんか違う気がする。

 

 詩織は唇を閉じた。

 

 痛みはあった。

 

 達也が、自分ではない誰かを知りたいと思っている痛み。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 あの子の視線を見てしまった。

 

 遠くから、長い時間をかけて、達也を見ていた視線。

 

 それを見てしまった以上、詩織は簡単に否定できなかった。

 

「さっきの子、いた?」

 

 達也が聞いた。

 

 詩織は一瞬、答えに迷った。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「うん」

 

「やっぱり」

 

 達也は廊下の向こうを見た。

 

 もう館林さんの姿はない。

 

「また、行っちゃったな」

 

 その声には、少しだけ残念そうな響きがあった。

 

 詩織は、それに気づいてしまう。

 

 気づいてしまった自分の胸が、また少し痛む。

 

「達也くん」

 

「ん?」

 

「もし、名前がわかったら」

 

 そこまで言って、詩織は言葉を止めた。

 

 達也がこちらを見る。

 

「わかったら?」

 

 詩織は少しだけ笑った。

 

「ちゃんと、聞いてあげてね」

 

「何を?」

 

「その子のこと」

 

 達也は少し驚いた顔をした。

 

 それから、真面目に頷いた。

 

「うん」

 

 その返事で十分だった。

 

 今は、まだ。

 

 詩織は廊下の向こうを見た。

 

 館林さんの姿はもう見えない。

 

 けれど、さっきの視線だけが残っている。

 

 達也くんを見ていた視線。

 

 声にならない名前を、何度も飲み込んできたような視線。

 

 詩織には、まだ何も決められなかった。

 

 達也にその名前を教えるのか。

 

 館林さんに声をかけるのか。

 

 ただ見守るのか。

 

 わからなかった。

 

 でも、一つだけ、もう知らないふりはできないことがある。

 

 館林見晴。

 

 達也くんが探している子の名前を、私は知ってしまった。

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