藤崎さんは、見たのだろうか。
プリントに書かれていた、自分の名前を。
館林見晴。
その文字を。
見晴は、そのことばかり考えていた。
昨日の放課後。
廊下で落とした卒業文集のアンケート用紙。
拾ってくれたのは、藤崎さんだった。
「ありがとうございます、藤崎さん」
そう言うだけで精一杯だった。
本当は、もっと別のことを気にしていた。
藤崎さんは、名前を見ただろうか。
見ていないかもしれない。
ただ拾って渡してくれただけかもしれない。
でも、もし見ていたら。
もし、館林見晴という名前を知ってしまっていたら。
見晴は、机の上に置いた手を握りしめた。
名前。
それはただの情報ではなかった。
三年間、佐伯くんに届かなかったものだった。
佐伯達也という名前を、見晴は知っている。
何度も心の中で呼んだ。
佐伯くん。
佐伯達也くん。
達也くん。
けれど、自分の名前は彼に届いていない。
二年の冬に、本の貸出票を見て「館林さん」と読まれたことはある。
でも、それは見晴を見て呼ばれた名前ではなかった。
落とし物の持ち主を確認する声だった。
館林見晴という人間を、佐伯くんが知ったわけではなかった。
だから、その名前はずっと、見晴の中に閉じ込められていた。
三年間。
声にできないまま。
差し出せないまま。
それを、藤崎さんが知ったかもしれない。
藤崎さん。
佐伯くんの隣に自然に立てる人。
佐伯くんの名前を自然に呼べる人。
佐伯くんに一番近い場所にいる人。
その人が、自分の名前を知った。
それは見晴にとって、ただ名前を知られたというだけではなかった。
自分と佐伯くんの間に、道ができてしまうかもしれないということだった。
細くて、怖くて、逃げたくなるような道が。
翌日の放課後。
見晴は、三年生の教室が並ぶ廊下に立っていた。
用事はない。
昨日もそうだった。
一昨日も、たぶんそうだった。
用事がなくても、そこに来てしまう。
佐伯くんがいるから。
それだけで、足が勝手に向かってしまう。
廊下の向こうに、藤崎さんがいた。
佐伯くんと並んで、卒業文集の用紙を見ている。
いつもの光景だった。
何も変わっていない。
藤崎さんはいつも通り綺麗に立っている。
佐伯くんは少し困ったように笑っている。
二人の距離は、昨日と同じように自然だった。
けれど、見晴には少し違って見えた。
藤崎さんは、私の名前を知っているかもしれない。
その一点だけで、廊下の空気が変わった。
藤崎さんは、ただ佐伯くんの近くにいる人ではなくなってしまった。
自分を佐伯くんへつなげられる人になってしまった。
それが怖かった。
つなげてほしい。
そう願っていたはずだった。
何度も。
何度も。
佐伯くんに気づいてほしいと思っていた。
名前を呼んでほしいと思っていた。
自分を見てほしいと思っていた。
でも、本当にその道が見えた瞬間、見晴は怖くなった。
見つけてほしかった。
でも、見つけられる準備なんて、少しもできていなかった。
「達也くん、昨日の子のことだけど」
藤崎さんの声が聞こえた。
見晴は思わず足を止めた。
廊下の角。
少しだけ開いた教室の扉。
自分がそこにいることは、二人からは見えていないはずだった。
見てはいけない。
聞いてはいけない。
そう思った。
けれど、動けなかった。
佐伯くんの声がした。
「昨日の子、やっぱり気になるんだ」
心臓が鳴った。
佐伯くんが、自分のことを話している。
たぶん。
いや、きっと。
「名前がわかったら、ちゃんと話してみたい」
見晴は息を止めた。
名前。
ちゃんと話してみたい。
その言葉が、胸の奥にそのまま落ちてきた。
嬉しかった。
あまりにも嬉しかった。
三年間、声にならなかったものが、少しだけ報われた気がした。
佐伯くんが、自分を探してくれている。
名前を知りたいと思ってくれている。
ちゃんと話したいと思ってくれている。
そんなことを、ずっと望んでいた。
望んでいたはずだった。
けれど、同時に怖かった。
名前を知られたら、もう逃げられない。
名前を呼ばれたら、振り向かなければならない。
振り向いたら、言わなければならない。
三年間、見ていたこと。
何度もぶつかったこと。
偶然のふりをしたこと。
逃げたこと。
好きだったこと。
全部が、心の中だけのものではなくなってしまう。
片想いは、ずっと自分の中にあった。
自分の中だけにあった。
だから壊れなかった。
だから傷つかなかった。
だから、三年間持っていられた。
それが外に出る。
佐伯くんの前に出る。
藤崎さんにも知られる。
現実になる。
怖い。
嬉しいのに、怖い。
逃げたい。
見つけてほしいのに、逃げたい。
見晴は、胸の前で両手を握った。
指先が冷たかった。
「知らないまま卒業したくないから」
佐伯くんはそう言った。
その言葉で、見晴はもう立っていられなくなりそうだった。
知らないまま卒業したくない。
それは、見晴も同じだった。
知られないまま卒業したくない。
でも、知られるのも怖い。
同じ言葉のはずなのに、見晴の中では二つに裂けていた。
「そう」
藤崎さんの声は静かだった。
「じゃあ、ちゃんと聞いてあげてね」
「何を?」
「その子のこと」
見晴は、廊下の壁に背中をつけた。
その子。
自分のことだ。
たぶん。
でも、まだ名前は出ていない。
まだ、館林見晴ではない。
佐伯くんの中では、まだ名前のない少女。
何度もぶつかった子。
逃げてしまう子。
そのままでいたいわけではない。
でも、名前を持った瞬間、もう戻れない。
見晴はその場を離れた。
足音を立てないように。
逃げるように。
けれど今度の逃げ方は、いつもより苦しかった。
ただ怖くて逃げたのではない。
嬉しいから逃げた。
そのことが、余計に苦しかった。
昇降口へ向かおうとした時、後ろから声がした。
「館林さん」
見晴の足が止まった。
藤崎さんの声だった。
名前を呼ばれた。
館林さん。
その呼び方は丁寧で、何もおかしくない。
同じ学校の同級生を呼ぶ声。
それだけのはずだった。
けれど、見晴にはそれだけではなかった。
藤崎さんは、自分の名前を知っていた。
やっぱり見ていた。
昨日のプリントを。
館林見晴という文字を。
それだけで、逃げたくなった。
見晴はゆっくり振り返った。
藤崎さんは、一人で立っていた。
佐伯くんはまだ教室の中にいるのか、近くにはいなかった。
「昨日のプリント、落とさないようにね」
藤崎さんはそう言った。
ただそれだけだった。
責める声ではない。
探る声でもない。
秘密を暴くような言い方でもない。
普通の言葉だった。
普通の、優しい注意だった。
「……はい」
見晴は小さく答えた。
「ありがとうございます」
藤崎さんは少しだけ微笑んだ。
その笑顔も、いつも通りだった。
でも、見晴にはわかってしまった。
この人は、知っている。
少なくとも、自分の名前を。
もしかしたら、もっと別のことも。
自分が佐伯くんを見ていること。
佐伯くんが自分を探していること。
その間にある距離。
それを、藤崎さんは見てしまったのかもしれない。
見晴は、もう一度頭を下げた。
そして歩き出した。
逃げないように、歩いたつもりだった。
けれど、自分でもわかっていた。
それはやっぱり、逃げている歩き方だった。
放課後の校舎は、卒業前のざわめきを残していた。
階段を下り、昇降口へ向かう。
少しでも早く外に出たかった。
誰にも見られない場所へ行きたかった。
けれど、昇降口の手前で、見晴はまた足を止めた。
前方に、佐伯くんがいた。
靴箱の近くで、何かを探すように周囲を見ている。
見晴は、とっさに身を引こうとした。
でも、遅かった。
佐伯くんがこちらを見た。
目が合った。
今度は、はっきりと。
「……あ」
佐伯くんが小さく声を出した。
見晴の心臓が跳ねた。
逃げなきゃ。
そう思った。
でも、足が動かなかった。
佐伯くんが一歩近づく。
「あの、待って」
声が届いた。
待って。
その言葉を、見晴は初めて自分に向けられたものとして聞いた気がした。
いつもなら、もう逃げていた。
すみません、と言って。
頭を下げて。
足早に通り過ぎていた。
でも今日は、止まってしまった。
佐伯くんが、もう一歩近づく。
近い。
近すぎる。
「前にも、会ったよな」
見晴は、息ができなくなった。
覚えている。
彼が覚えている。
自分は、名前のない気配ではなかった。
完全ではなくても。
はっきりではなくても。
佐伯くんの中に、記憶として残っていた。
一年の春。
二年の冬。
三年の秋。
何度もぶつかって、何度も逃げた自分が。
佐伯くんの中に、少しだけいた。
嬉しかった。
泣きそうになるくらい、嬉しかった。
でも、怖かった。
前にも会ったよな。
その言葉の次に来るものが、わかっていた。
名前を聞かれる。
誰なのか聞かれる。
どうして逃げるのか聞かれる。
そうしたら、答えなければならない。
私は館林見晴です。
一年の春から、あなたを見ていました。
そんなことを、言えるはずがなかった。
見晴は唇を開いた。
何かを言おうとした。
「……す」
すみません。
また、その言葉が出そうになった。
違う。
言いたいのは、それだけではない。
でも、他の言葉が出ない。
佐伯くんが、心配そうに見ている。
「大丈夫?」
一年の春と同じ声だった。
その声が、最後の一押しになった。
見晴は頭を下げた。
「すみません」
そして、逃げた。
昇降口へ。
靴箱の間を抜けて。
人の流れに紛れるように。
背中に、佐伯くんの視線が残っていた。
追いかけてくる足音はなかった。
追いかけてほしいと思った。
追いかけないでほしいとも思った。
どちらも本当だった。
校舎の外へ出ると、夕方の風が頬に当たった。
見晴は校門の近くまで来て、ようやく足を止めた。
息が苦しい。
走ったわけではない。
それなのに、胸が痛かった。
逃げた。
また逃げた。
けれど今度は、逃げたことが前よりもずっと苦しかった。
佐伯くんは覚えていた。
前にも会ったと言ってくれた。
大丈夫と聞いてくれた。
なのに、自分はまた「すみません」しか言えなかった。
見晴は、校舎を振り返った。
窓の向こうに、伝説の木が見えた。
卒業式の日。
あの木の下で女の子から告白すると、永遠に幸せになれる。
その噂を、何度も聞いた。
けれど、見晴はずっと思っていた。
あそこは、自分の立つ場所ではない。
藤崎さんのような人が立つ場所。
佐伯くんの隣に自然に立てる人が向かう場所。
自分は違う。
自分は廊下の端にいて、曲がり角にいて、遠くから見ているだけの人間だ。
そう思っていた。
でも、今は少しだけ違った。
佐伯くんは、私を探している。
その事実は、嬉しかった。
怖かった。
そして、もう見ているだけではいられないことを、見晴に教えていた。
伝説の木は、やっぱり遠い。
でも、前より少しだけ、遠い理由がわかった。
遠いのは、木ではない。
そこまで歩こうとしなかった、自分だった。
見晴は、胸の前で手を握った。
まだ、歩けない。
今日も逃げた。
それでも、もう何も知らなかった頃には戻れない。
佐伯くんが自分を探していることを、知ってしまった。
藤崎さんが自分の名前を知っていることも、知ってしまった。
そして、自分が逃げているだけでは終われないことも。
見晴はもう一度、伝説の木を見た。
遠い。
でも、見える。
その頃、校舎の中で、佐伯達也は昇降口の前に立っていた。
彼女はまた逃げてしまった。
声はかけられた。
前にも会ったよな、と言えた。
けれど、名前は聞けなかった。
「やっぱり、聞けなかった」
ぽつりと呟くと、後ろから足音がした。
振り返ると、詩織が立っていた。
彼女は少しだけ迷うように、達也を見ていた。
それから、静かに言った。
「館林さん」
達也は瞬きをした。
「え?」
「たぶん、館林見晴さん」
詩織の声は、穏やかだった。
でも、その穏やかさの奥に、何かを飲み込んだような響きがあった。
「さっきの子の名前」
達也は、その名前を心の中で繰り返した。
館林見晴。
何度もぶつかった少女。
何度も謝って逃げた少女。
知らないまま卒業したくないと思った少女。
その名前が、ようやく届いた。
校門の近くで、館林見晴はまだ知らなかった。
自分が三年間、声にできなかった名前。
自分が三年間、届けられなかった名前。
館林見晴というその名前が、とうとう佐伯達也に届いたことを。