館林見晴。
佐伯達也は、その名前を何度も心の中で繰り返していた。
館林見晴。
何度もぶつかった少女の名前。
何度も謝って逃げた少女の名前。
自分が、知らないまま卒業したくないと思った少女の名前。
名前を知った。
それだけで、昨日までぼんやりしていた輪郭が、少しだけ形を持った気がした。
廊下の端にいた子。
図書室の近くで本を落とした子。
文化祭の後、紙テープの残る廊下でぶつかった子。
昇降口で声をかけようとしたら、逃げてしまった子。
それらが、全部一人の人間につながっていく。
館林見晴。
けれど、達也はすぐに思い直した。
名前を知っただけだ。
それで、彼女を知ったことにはならない。
どんな声で笑うのかも知らない。
何が好きなのかも知らない。
どの教室にいるのかも、どうしていつも逃げるのかも知らない。
三年間、どんなふうに過ごしていたのかも知らない。
名前を知った。
でも、まだ何も知らない。
そのことが、達也の中で妙に重かった。
「達也くん」
声をかけられて、達也は顔を上げた。
教室の入口に詩織が立っていた。
卒業文集のファイルを胸に抱えている。
いつも通りの姿だった。
けれど、昨日、館林見晴という名前を教えてくれた時の声を、達也はまだ覚えていた。
穏やかで。
でも、何かを飲み込んだような声だった。
「文集の確認、先生がもう少しだけ見たいって」
「ああ、わかった」
達也は立ち上がりかけて、ふと足を止めた。
言わなければならないことがあった。
「詩織」
「何?」
「昨日、名前を教えてくれてありがとう」
詩織は少しだけ目を伏せた。
短い間だった。
けれど、その間に言葉を選んでいるのがわかった。
「私が教えてよかったのかは、まだわからないけど」
達也は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し重くなった。
そうだ。
自分は、館林さん本人から名前を聞いたわけではない。
詩織から聞いた。
そのことに、少し後ろめたさがあった。
館林さんが自分で名乗る前に、自分は彼女の名前を知ってしまった。
それは、たぶん正しい順番ではない。
「ちゃんと本人に聞くよ」
達也は言った。
詩織が顔を上げる。
「詩織から聞いた名前で終わらせない」
自分で言いながら、達也はそれが約束に近いものだと感じた。
誰に対する約束なのかは、はっきりしない。
詩織に対してか。
館林さんに対してか。
それとも、三年間何も始められなかった自分に対してか。
「それなら、いいと思う」
詩織は小さく頷いた。
けれど、その表情は少しだけ寂しそうにも見えた。
達也は言葉を探した。
今、言っておかなければ、また何かを曖昧にしてしまう気がした。
「詩織」
「うん」
「俺、館林さんに何かを期待してるわけじゃないんだと思う」
詩織は黙って聞いていた。
「可愛いからとか、気になるからとか、そういうのとは少し違う。少なくとも、今は」
そこまで言って、達也は少しだけ苦笑した。
言い訳みたいだと思った。
けれど、言っておくべきだった。
「ただ、知らないまま卒業したくないだけなんだと思う」
詩織は、静かに瞬きをした。
達也は続けた。
「詩織のことを、ずっと特別だと思ってた」
その言葉を口にした瞬間、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
達也は詩織を見た。
詩織は驚いた顔をしなかった。
ただ、静かに受け止めていた。
もしかしたら、ずっと知っていたのかもしれない。
知っていて、何も言わなかったのかもしれない。
達也と同じように。
「でも、その特別が何なのかを、ちゃんと考えないまま三年間来たんだと思う」
達也は言った。
「幼なじみだから、近くにいるから、そのうち何か変わるんじゃないかって」
詩織は何も言わなかった。
けれど、逃げずに聞いてくれていた。
そのことに、達也は少し救われた。
「でも、何も変わらなかった。変えなかったんだ、俺が」
言葉にすると、胸が痛かった。
好きだった。
そう言えば、簡単だったのかもしれない。
けれど、その言葉を使うには、達也と詩織の三年間は曖昧すぎた。
幼なじみで。
近くて。
遠くて。
特別で。
でも、何も決めなかった。
何も確かめなかった。
その関係を、いきなり一つの言葉でまとめてしまうのは、違う気がした。
「館林さんを知りたいと思うことは、詩織との時間を否定することじゃないと思う」
言いながら、達也は自分でもその言葉を確かめていた。
本当にそうなのか。
まだわからない。
でも、そうであってほしいと思った。
「むしろ、自分が何も見ていなかった三年間を、初めてちゃんと見ることなのかもしれない」
それは、館林さんに対してだけの言葉ではなかった。
詩織に対しても。
自分自身に対しても。
三年間、詩織を見ていた。
でも、何も始められなかった。
その間に、何度も自分の近くにいた少女がいた。
彼女まで見なかったことにしたら、自分は本当に何も見ていなかったことになる。
そう思った。
詩織はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「達也くんは、ちゃんと考えてるね」
「そうかな」
「うん。少なくとも、今は」
その言い方に、少しだけ昔の詩織らしさがあった。
優しくて。
少しだけ、手厳しい。
達也は苦笑した。
「今さらだけどな」
「今さらでも、考えないよりはいいと思う」
詩織はそう言った。
その言葉が、達也の胸に残った。
今さらでも。
考えないよりはいい。
「ありがとう」
達也が言うと、詩織は首を横に振った。
「私は、名前を知っていただけだから」
「それでも」
「うん」
短い会話だった。
それ以上は、どちらも踏み込まなかった。
踏み込まないことに慣れすぎている。
そう思って、達也は少しだけ苦くなった。
でも、今日はそれでいいのだと思った。
今までの三年間を、たった一日で別のものにはできない。
そういうことも、少しずつわかってきた。
文集の確認を終えた後、達也は一人で廊下を歩いていた。
詩織とは職員室の前で別れた。
彼女は先生に呼ばれたらしい。
達也は、昇降口へ向かおうとして、ふと足を止めた。
図書室前の廊下。
そこを通り過ぎようとして、二年の冬のことを思い出した。
寒い日だった。
本が床に落ちた。
貸出票を見て、自分は言った。
これ、館林さんの?
その時は、何も考えていなかった。
紙に書かれた名前を読んだだけだった。
目の前の彼女を、館林さんという一人の人間として見たわけではなかった。
そのことが、今になって妙に引っかかる。
図書室の扉が開いた。
達也は顔を上げた。
一人の女子生徒が出てくる。
小柄で、鞄を胸に抱えるように持っている。
少し俯き気味に歩く。
見覚えのある姿。
館林見晴。
達也は一瞬、声をかけるべきか迷った。
怖がらせるかもしれない。
また逃げるかもしれない。
自分は名前を、本人以外から聞いた。
そのことをまず謝らなければならない。
けれど、このまま何も言わなければ、また同じになる。
近くにいたのに、見なかったことになる。
達也は、ゆっくり息を吸った。
「館林さん」
その声は、思ったより静かに廊下へ落ちた。
彼女の足が止まった。
ぴたりと。
まるで、名前そのものに体をつかまれたみたいだった。
達也は、動かなかった。
近づきすぎないように。
逃げ道を塞がないように。
館林さんは、ゆっくり振り返った。
その顔には、驚きがあった。
怖さもあった。
それから、泣きそうな何かも。
達也は、その表情を見て、胸が痛くなった。
名前を呼んだだけで、こんな顔をさせてしまうのか。
いや。
名前を呼んだだけではない。
三年間、自分はその名前を知らなかった。
その重さが、彼女の顔に出ているのかもしれない。
館林さんは口を開きかけた。
「す……」
たぶん、すみません、と言おうとしたのだと思う。
達也は静かに首を振った。
「怖がらせたいわけじゃない」
彼女の言葉が止まる。
達也は続けた。
「ただ、名前を知ったから」
館林さんの肩が小さく震えた。
「ちゃんと呼びたかった」
その言葉を言った瞬間、達也は二年の冬を思い出した。
同じ図書室前。
同じ呼び名。
館林さん。
けれど、あの時とは違う。
あの時は、紙に書かれた名前を読んだだけだった。
今は、彼女を見て呼んでいる。
「ごめん」
達也は頭を下げた。
「名前、詩織から聞いた」
館林さんの目がわずかに揺れた。
傷つけた。
そう思った。
自分で名乗る前に、知られてしまった名前。
それは彼女にとって、きっと軽いものではなかった。
達也は続けた。
「勝手に知って、ごめん」
館林さんは何か言おうとして、言えないまま目を伏せた。
それから、小さく首を横に振った。
「いえ」
細い声だった。
今にも消えそうな声。
でも、逃げなかった。
達也はそのことに気づいた。
彼女は、今ここに立っている。
逃げずに。
「でも」
達也は慎重に言葉を選んだ。
「ちゃんと本人に聞きたいと思った」
館林さんが、少しだけ顔を上げる。
「館林見晴さんで、合ってる?」
一瞬、廊下の音が遠くなった気がした。
館林さんは、両手で鞄を握りしめていた。
それから、本当に小さく頷いた。
「……はい」
その一言だけだった。
けれど達也には、それが大きな返事に聞こえた。
名前を聞けた。
いや、正確には、名前を認めてもらえた。
詩織から聞いた名前ではなく、彼女自身が頷いた名前になった。
「ありがとう」
達也が言うと、館林さんは少しだけ戸惑ったような顔をした。
礼を言われると思っていなかったのかもしれない。
達也も、自分で少し不思議だった。
でも、そう言いたかった。
「前にも、会ったよな」
達也が聞くと、館林さんは視線を落とした。
しばらく沈黙があった。
達也は待った。
急かさないように。
逃げ出したくなったら逃げられるように。
けれど、館林さんは逃げなかった。
「……ぶつかりました」
小さな声だった。
達也は少しだけ目を見開いた。
言葉の選び方が、あまりにも彼女らしい気がした。
会った。
ではなく。
ぶつかった。
「何度も?」
聞くと、館林さんはまた小さく頷いた。
「……はい」
達也は笑わなかった。
責める気にもならなかった。
むしろ、胸の奥にあった曖昧な記憶が、ようやく相手の言葉で形になった気がした。
「覚えててよかった」
そう言うと、館林さんが顔を上げた。
泣きそうな顔だった。
どうしてそんな顔をするのか、達也にはまだわからない。
でも、笑ったり、軽く流したりしてはいけないことだけはわかった。
この子にとって、ぶつかったことはただの偶然ではなかったのかもしれない。
少なくとも、達也が思っていたよりずっと、大きなことだったのかもしれない。
「すみません」
館林さんが言った。
やっぱり、その言葉だった。
でも今度は、逃げるための「すみません」ではなかった。
そこに立ったままの「すみません」だった。
だから、達也は首を振った。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「俺も、何度も会ってたのに、知らなかった」
館林さんは黙った。
達也は、自分の言葉が少し足りない気がして続けた。
「知らないまま卒業したくないって思ったんだ」
館林さんの指が、鞄の持ち手を強く握る。
「別に、何かを急に聞き出したいわけじゃない」
達也は言った。
「好きなものとか、クラスとか、どうして逃げるのかとか。そういうのを今すぐ全部聞きたいわけじゃない」
そこで一度、言葉を切る。
「ただ、名前のないままにしたくなかった」
館林さんは目を伏せた。
その横顔は、嬉しそうにも、苦しそうにも見えた。
達也は思った。
自分は、まだこの子を知らない。
この一言一言が、彼女にどう届いているのかもわからない。
だから、踏み込みすぎてはいけない。
今ここで、彼女の三年間を全部聞こうとしてはいけない。
それは知ろうとすることではなく、暴くことになってしまう。
「館林さん」
呼ぶと、彼女は小さく肩を震わせた。
でも、逃げなかった。
「卒業までに、少しだけ話せたら嬉しい」
それが、今の達也に言える精一杯だった。
恋だとは言えない。
好意だと断言するのも違う。
けれど、知らないまま終わりたくない。
彼女まで見なかったことにしたくない。
その気持ちは確かだった。
館林さんは、すぐには答えなかった。
長い沈黙があった。
廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえる。
図書室の中で、本棚を閉じる音がした。
卒業までの時間が、少しずつ減っていく。
その中で、館林さんはようやく小さく頷いた。
「……はい」
達也は息を吐いた。
安心したのだと、自分で気づいた。
「ありがとう」
また礼を言うと、館林さんは少しだけ困ったような顔をした。
それから、視線を落として、小さく言った。
「私も」
達也は聞き返しかけて、やめた。
館林さんは続けなかった。
きっと、今はそれでいい。
「じゃあ、また」
達也が言うと、館林さんは小さく会釈した。
そして、今度は走らなかった。
早足でもなかった。
ゆっくりと廊下を歩いていった。
達也は、その背中を見送った。
追いかけなかった。
今日は、それでいいと思った。
彼女は逃げなかった。
自分も、追い詰めなかった。
名前のないままではなくなった。
それだけで、今は十分だった。
館林見晴は、図書室前の廊下を歩いていた。
足が震えていた。
でも、走らなかった。
逃げなかった。
いや、最後には逃げたのかもしれない。
それでも、今までとは違った。
名前を呼ばれた。
館林さん。
二年の冬にも、そう呼ばれた。
あの時は、本の貸出票を見ていただけだった。
紙に書かれた名前だった。
でも、今日は違った。
佐伯くんは、自分を見て呼んだ。
それが嬉しかった。
苦しかった。
怖かった。
そして、少し悔しかった。
自分で名乗れなかった。
藤崎さんから渡った名前を、佐伯くんが呼んだ。
それでも。
それでも、逃げなかった。
返事をした。
はい、と言えた。
前にも会ったよな、と聞かれて、ぶつかりました、と言えた。
何度も、と頷けた。
それだけ。
たったそれだけ。
でも、見晴には、それが三年間で一番遠くまで歩いたように感じられた。
卒業までに、少しだけ話せたら嬉しい。
佐伯くんはそう言った。
見晴は、何を話せばいいのかわからない。
三年間のこと。
名前のこと。
ぶつかったこと。
見ていたこと。
自分の気持ちのこと。
どれも、簡単には言えない。
卒業式の日までに、逃げないでいられる自信もない。
それでも。
見晴は思ってしまった。
話したい。
そう思ってしまった。
窓の外に、伝説の木が見えた。
遠い。
まだ、遠い。
けれど初めて、見晴はその場所を、自分が向かってもいい場所として見てしまった。