館林見晴は、伝説の木まで歩いていく   作:エーアイ

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藤崎詩織は、特別の名前を知らなかった

 

 放課後の教室に、藤崎詩織は一人で残っていた。

 

 机の上には、卒業文集の原稿用紙が置かれている。

 

 もう何度も見直した文章。

 

 何度も書き直した文字。

 

 消しゴムの跡。

 

 鉛筆の薄い線。

 

 窓の外では、部活動の声が少しずつ遠くなっていた。

 

 卒業まで、もう長くない。

 

 そう思うたびに、この教室も、廊下も、校庭も、少しだけ違うものに見える。

 

 今まで当たり前だった場所が、思い出になる準備を始めている。

 

 詩織は、空いた椅子を見た。

 

 少し前まで、そこに達也が座っていた。

 

 佐伯達也。

 

 幼馴染。

 

 小さい頃から知っている男の子。

 

 同じ学校に通い、同じ季節を過ごし、名前を自然に呼べる相手。

 

 近かった。

 

 ずっと近かった。

 

 でも、それが本当に近いということだったのか、今の詩織にはわからなかった。

 

 達也の言葉が、まだ耳に残っている。

 

 詩織のことを、ずっと特別だと思ってた。

 

 でも、その特別が何なのかを、ちゃんと考えないまま三年間来たんだと思う。

 

 その言葉を聞いた時、詩織はすぐには何も言えなかった。

 

 好きだった。

 

 そう言われたわけではない。

 

 好きじゃなかった。

 

 そう言われたわけでもない。

 

 ただ、特別だった、と言われた。

 

 その曖昧な言葉が、思ったよりも深く胸に残っていた。

 

 好きだった、と言われた方が、まだわかりやすかったのかもしれない。

 

 そうすれば、詩織は傷つくことができた。

 

 答えられなかった自分を責めることもできた。

 

 気づいていたのに何もしなかったと、もっとはっきり後悔することもできた。

 

 でも達也は、そう言わなかった。

 

 そして詩織には、その方が正しいとわかってしまった。

 

 好きと呼べば、そうだったのかもしれない。

 

 けれど、詩織たちは、その言葉を使わないまま三年間を過ごした。

 

 幼馴染。

 

 それは、とても便利な言葉だった。

 

 近くにいても、不自然ではない。

 

 名前を呼んでも、特別になりすぎない。

 

 気にかけても、踏み込みすぎない。

 

 一緒にいても、関係を決めなくていい。

 

 幼馴染だから。

 

 昔から知っているから。

 

 今さら改まって言うことでもないから。

 

 その言葉に、詩織は何度も守られていたのだと思う。

 

 達也も、きっとそうだった。

 

 幼馴染だから、近かった。

 

 幼馴染だから、壊さずに済んだ。

 

 幼馴染だから、何も決めなくても隣にいられた。

 

 でも、その安全さが、二人を止めていた。

 

 少しだけ踏み込めば、何かが変わったのかもしれない。

 

 たった一言、聞けばよかったのかもしれない。

 

 達也くんは、私をどう思っているの。

 

 そんな言葉を、詩織は一度も口にしなかった。

 

 達也も言わなかった。

 

 だから、何も変わらなかった。

 

 変えなかった。

 

 詩織は、窓の外を見た。

 

 校舎の向こうに、伝説の木が見える。

 

 卒業式の日、あの木の下で女の子から告白すると、永遠に幸せになれる。

 

 その噂を、詩織はもちろん知っている。

 

 知らないはずがなかった。

 

 誰かが冗談めかして話すたびに、笑って聞き流してきた。

 

 でも、本当は。

 

 本当は、一度も考えなかったわけではない。

 

 達也くんが、もし。

 

 そう思ったことが、なかったわけではない。

 

 けれど、その先を考えるのが怖かった。

 

 彼が来なかったら。

 

 彼が何も言わなかったら。

 

 あるいは、自分が何も言えなかったら。

 

 幼馴染という距離に戻れなくなる。

 

 そう思うと、詩織はいつも、そこで考えるのをやめた。

 

 伝説の木は、誰かが勇気を出す場所だ。

 

 でも詩織は、その勇気を自分のものとして見たことがなかったのかもしれない。

 

 ふと、館林見晴の姿が浮かんだ。

 

 廊下の端にいた少女。

 

 鞄を胸に抱えるように持っていた少女。

 

 プリントを落とし、細い声で礼を言った少女。

 

 ありがとうございます、藤崎さん。

 

 逃げそうで、それでも丁寧な声だった。

 

 館林さんは、遠かった。

 

 達也くんの近くにはいなかった。

 

 名前も呼べなかったのかもしれない。

 

 会話もできなかったのかもしれない。

 

 達也くんが振り向けば、目を伏せる。

 

 声をかけられれば、逃げてしまう。

 

 詩織から見れば、ひどく遠い場所にいた。

 

 けれど。

 

 館林さんは、達也くんを見ていた。

 

 遠くから。

 

 長い時間をかけて。

 

 詩織が幼馴染として隣にいた時も。

 

 卒業文集の作業をしていた時も。

 

 達也くんが、自分でも気づかないまま誰かとぶつかっていた時も。

 

 館林さんは、見ていたのかもしれない。

 

 詩織の知らない達也くんを。

 

 詩織が当たり前だと思って見過ごしていた達也くんを。

 

 図書室の前で本を拾う達也くん。

 

 文化祭の後、少し疲れた顔で廊下を歩く達也くん。

 

 誰かに大丈夫、と声をかける達也くん。

 

 そういう一つ一つを、館林さんは大事に見ていたのかもしれない。

 

 私たちは近すぎて、何も確かめなかった。

 

 館林さんは遠すぎて、何も言えなかった。

 

 でも、今歩き出そうとしているのは、館林さんの方なのかもしれない。

 

 そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。

 

 悔しい、とは少し違う。

 

 悲しい、だけでもない。

 

 寂しい。

 

 たぶん、それが一番近かった。

 

 達也くんが館林さんを探そうとしていることが寂しいのではない。

 

 自分たちが、探す必要のない距離にいたこと。

 

 それなのに、何も見つけられなかったこと。

 

 そのことが、寂しかった。

 

 詩織は、机の上の原稿用紙をそろえた。

 

 卒業文集。

 

 三年間を振り返るためのもの。

 

 そこに書けることはいくらでもある。

 

 行事。

 

 部活。

 

 勉強。

 

 進路。

 

 友人。

 

 けれど、本当に大事だったことほど、文章にはしにくい。

 

 達也くんとの距離。

 

 幼馴染という言葉の便利さ。

 

 特別だったのに、名前をつけなかった関係。

 

 それを、卒業文集に書くことはできない。

 

 でも、なかったことにもできない。

 

 詩織は、そっと目を閉じた。

 

 達也くんは、館林さんに何かを期待しているわけではないと言った。

 

 ただ、知らないまま卒業したくないのだと言った。

 

 それは、たぶん本当だ。

 

 達也くんは、まだ館林さんを好きだと言ったわけではない。

 

 館林さんのことを知っているわけでもない。

 

 ただ、名前のないまま終わらせたくないと思っている。

 

 それは、詩織には少し眩しかった。

 

 今さらでも。

 

 考えないよりはいい。

 

 自分でそう言った。

 

 その言葉は、達也に向けたものだった。

 

 でも、今は自分にも返ってきている。

 

 今さらでも。

 

 見ないよりはいい。

 

 今さらでも。

 

 わからないまま終わらせるよりはいい。

 

 館林さんは、きっと怖いのだと思う。

 

 名前を呼ばれることも。

 

 前に出ることも。

 

 自分が見ていたことを知られることも。

 

 達也くんの前に立つことも。

 

 詩織には、その怖さが少しだけわかる気がした。

 

 種類は違う。

 

 詩織は遠くから見ていたわけではない。

 

 名前を呼べなかったわけでもない。

 

 でも、踏み込むことが怖かった。

 

 関係に名前をつけることが怖かった。

 

 だから、何も決めないまま来てしまった。

 

 もし館林さんが歩くなら。

 

 自分が怖がって踏み出さなかった一歩を、彼女が踏み出すのなら。

 

 詩織は、それを否定できない。

 

 否定したくなかった。

 

 祝福、と呼ぶには、まだ少し痛かった。

 

 心から笑って送り出せるほど、詩織は綺麗ではなかった。

 

 それでも。

 

 邪魔はしない。

 

 そう思った。

 

 窓の外の伝説の木が、夕方の光の中に立っている。

 

 いつもと同じ木。

 

 でも今日は、少し違って見えた。

 

 あの木の下に立つことだけが、物語のすべてではないのかもしれない。

 

 その外に立つ人にも。

 

 そこまで歩いていく人にも。

 

 それぞれの三年間がある。

 

 詩織は立ち上がった。

 

 原稿用紙をファイルに入れ、机を整える。

 

 教室を出る前に、もう一度だけ窓の外を見た。

 

 館林さん。

 

 声には出さなかった。

 

 ただ、心の中でその名前を呼んだ。

 

 もし、あなたが歩くなら。

 

 藤崎詩織は、その一歩を否定しない。

 

 自分たちが踏み出さなかった一歩だからこそ。

 

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