卒業式が終わった。
体育館の外には、生徒たちの声があふれていた。
泣いている人がいた。
笑っている人がいた。
先生を囲んで写真を撮っている人がいた。
また会おうね、と言っている人がいた。
もう会えないかもしれないね、と笑いながら言えないでいる人もいた。
三年間が、校舎のあちこちで少しずつ終わっていく。
館林見晴は、その流れの外側に立っていた。
体育館の壁際。
人が少し途切れる場所。
誰かの写真に映り込まない場所。
いつもの場所だった。
見晴は、いつもそういう場所にいた。
廊下の端。
曲がり角。
校門の少し手前。
下駄箱の影。
佐伯達也を見られるけれど、自分は見つからない場所。
でも、今日は少しだけ違っていた。
彼女はもう、佐伯達也に名前を呼ばれていた。
館林さん。
図書室前の廊下で、彼はそう呼んだ。
紙に書かれた名前ではなく。
落とし物の確認でもなく。
見晴を見て。
見晴に向けて。
館林さん、と。
その声が、まだ胸の奥に残っている。
卒業までに、少しだけ話せたら嬉しい。
佐伯くんは、そう言った。
けれど、卒業式はもう終わった。
もう「卒業まで」はほとんど残っていない。
このあと生徒たちは帰っていく。
教室も、廊下も、校庭も、少しずつ空になっていく。
明日になれば、同じ制服でこの学校に来ることはもうない。
同じ廊下で、偶然のふりをしてぶつかることもできない。
下駄箱で彼の靴を探すことも。
校門へ向かう背中を見送ることも。
放課後の教室から、遠くの声を聞くことも。
全部、終わってしまう。
「今、話さなければ」
見晴は小さく呟いた。
誰にも聞こえない声だった。
「もう、本当に終わる」
その言葉に、自分で少し震えた。
終わる。
三年間、見ていただけの時間が。
三年間、名前を呼べなかった時間が。
三年間、届かなかった気持ちが。
このまま何も言わなければ、本当に終わる。
見晴は人の流れの中に、佐伯達也の姿を探した。
今までも、見てはいた。
佐伯くんを探すことなら、三年間ずっとしてきた。
けれど、それは違った。
隠れて見るために探していた。
近づかないために、遠くから見つけていた。
今日は違う。
話すために探している。
それだけで、足元が頼りなくなった。
体育館の外。
いない。
校門の方。
いない。
下駄箱。
いない。
三年生の教室。
いない。
図書室前。
いない。
昨日、名前を呼ばれた場所の前で、見晴は立ち止まった。
館林さん。
その声を思い出す。
ここで彼は、自分を見て名前を呼んでくれた。
ここで自分は、逃げなかった。
ほんの少しだけ。
立ち止まることができた。
それなのに、今日は見つからない。
もう帰ってしまったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が冷たくなった。
間に合わなかったのかもしれない。
また、自分は間に合わなかったのかもしれない。
一年の春も。
二年の冬も。
三年の秋も。
何度も近くにいたのに、何も言えなかった。
昨日、ようやく名前を呼ばれたのに。
今日も、また。
見晴は廊下の窓から外を見た。
校庭の向こう。
卒業式の後のざわめきの先。
そこに、伝説の木が立っていた。
何度も見た木だった。
あの木の下で告白すると、永遠に幸せになれる。
そんな噂を、見晴も知っている。
知っていたけれど、自分のための場所だと思ったことはなかった。
伝説の木は、藤崎さんのような人が立つ場所だと思っていた。
みんなに知られていて。
名前を自然に呼ばれていて。
佐伯くんの隣に自然に立てる人が向かう場所。
自分は違う。
そう思っていた。
でも、今は少しだけ違った。
もし佐伯くんがいるとしたら。
そう考えた。
けれど、それは約束があるからではなかった。
佐伯くんは、伝説の木で待っているとは言わなかった。
そこへ来てほしいとも言わなかった。
卒業までに、少しだけ話せたら嬉しい。
彼が言ったのは、それだけだった。
だから、これは待ち合わせではない。
誰かに導かれた道でもない。
それでも見晴は、思ってしまった。
あそこで話したい。
ずっと、自分の場所ではないと思っていた場所。
遠いと思っていた場所。
伝説の木の下。
そこまで歩けたなら。
自分は、少しだけ変われるのかもしれない。
その頃、佐伯達也は、伝説の木の近くに立っていた。
彼は誰かを待っているつもりではなかった。
少なくとも、最初は。
木を見上げながら、達也は自分の三年間を思っていた。
ずっと、この木の下に立つなら詩織なのだと思っていた。
卒業式の日。
伝説の木。
告白。
そんな言葉を聞くたびに、自然と詩織の顔が浮かんだ。
幼馴染で。
近くて。
特別で。
でも、その特別が何なのかを、達也は三年間考えないままにしていた。
何も言わなかった。
何も確かめなかった。
何も変えなかった。
それを誰かのせいにはできない。
詩織のせいではない。
好雄のせいでもない。
時間がなかったからでもない。
ただ、自分が始めなかった。
それもまた、三年間の答えなのだと思った。
関係を進めなかった。
名前をつけなかった。
壊さずにいた。
それは間違いだったと、簡単に言えるものではない。
ただ、その選択には、その選択のまま迎える卒業式がある。
達也は、そのことをこの木の前で一度見ておきたかった。
詩織を待っているわけではない。
館林さんを待っているわけでもない。
ただ、自分の三年間に、区切りをつけに来た。
そう思っていた。
少し離れた場所に、藤崎詩織がいた。
伝説の木の下ではない。
校舎から木へ向かう道の、少し外側。
卒業式を終えた生徒たちの流れから、たまたま外れた場所だった。
先生に挨拶をして。
クラスメイトに呼び止められて。
写真を撮って。
その流れの先で、詩織はそこに立っていた。
そして、見てしまった。
達也が、伝説の木の近くにいるところを。
館林見晴が、校舎の出口で立ち止まり、伝説の木を見ているところを。
詩織は、すぐには動かなかった。
木の下へ行こうとも思わなかった。
背を向けて去ろうとも思わなかった。
ただ、足が止まった。
幕間の教室で思ったことが、静かに胸に戻ってくる。
もし館林さんが歩くなら、その一歩を否定しない。
それは、何かを大げさに決意した言葉ではなかった。
けれど今、その言葉が、詩織をその場に留めていた。
見てしまった。
だから、目を逸らさなかった。
それだけだった。
見晴は、校舎の出口に立っていた。
伝説の木の近くに、佐伯くんがいる。
見つけた。
そう思った瞬間、足が動かなくなった。
遠い。
けれど、今までの「遠い」とは違った。
距離としては、そこまで遠くない。
歩けば届く。
声を出せば、きっと届く。
それなのに、怖さとしては、今までで一番遠かった。
一歩を踏み出したら、もう戻れない。
遠くから見ていた自分には戻れない。
名前を呼べなかった自分にも戻れない。
「すみません」と言って逃げるだけの自分ではいられない。
それでも。
見晴は、一歩を踏み出した。
一年の春。
廊下でぶつかった。
プリントが落ちた。
「ごめん、大丈夫?」
そう言ってくれた声が、ずっと残った。
二年の冬。
図書室前で本を落とした。
貸出票を見て、彼は言った。
「これ、館林さんの?」
あの時は、紙に書かれた名前だった。
でも、その声を何度も思い出した。
三年の秋。
文化祭の片付けの後、またぶつかった。
「あれ、前にも……」
そう言われて、怖くなって逃げた。
昨日。
図書室前。
彼は自分を見て呼んだ。
「館林さん」
そして言った。
卒業までに、少し話せたら嬉しい。
その言葉が、背中を押す。
一歩。
また一歩。
見晴は歩いた。
走らない。
逃げない。
隠れない。
ただ、歩く。
校庭の空気が冷たく感じた。
卒業式の日の空は、少し白く霞んでいた。
人の声が遠くなる。
自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
詩織の姿が視界の端に入った。
少し外側に立っている。
藤崎さん。
見晴は一瞬、足を止めそうになった。
けれど、詩織は何も言わなかった。
ただ、見ていた。
責めている目ではなかった。
譲っている目でもなかった。
祝福と呼ぶには、少し静かすぎる。
でも、否定ではなかった。
見晴は小さく頭を下げた。
詩織も、ほんの少しだけ頷いた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
見晴は、また歩いた。
伝説の木が近づく。
佐伯くんが近づく。
もう少し。
もう少しで、声が届く。
見晴は息を吸った。
三年間、心の中で何度も呼んだ名前。
朝に。
昼休みに。
放課後に。
家に帰ってから。
眠る前に。
けれど本人の前では、一度も言えなかった名前。
その名前を、初めて声にした。
「佐伯くん」
声は震えていた。
でも、届いた。
達也が振り向いた。
驚いたように目を開く。
それから、見晴を見た。
逃げ道を塞がない距離で。
でも、ちゃんと見て。
「館林さん」
その声で呼ばれた瞬間、見晴は泣きそうになった。
名前の往復。
それだけだった。
でも、三年間の距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
「来てくれたんだ」
達也が言った。
見晴は小さく首を横に振った。
違う。
来た、というより。
歩いてきた。
でも、その言葉はまだうまく出なかった。
「私」
見晴は鞄を握りしめた。
「私、ずっと見ていました」
達也は何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
見晴は続けた。
「何度もぶつかって、ごめんなさい」
声が震える。
でも、止めなかった。
「一年の春は、偶然でした」
あの日は、本当に偶然だった。
何も知らなかった。
ただ、廊下でぶつかった。
そして、彼の声が残った。
「でも、二年の冬は……会えるかもしれないと思っていました」
達也の表情が少し変わる。
見晴は目を伏せた。
「三年の秋は、佐伯くんがそこを通ることを知っていました」
言った。
言ってしまった。
胸が痛い。
けれど、これは言わなければならなかった。
自分の恋を、綺麗な偶然だけにしてはいけない。
「偶然だった時もあります。でも、偶然じゃなかった時もあります」
見晴は、両手を握りしめた。
「見ているだけでした。話しかけられなくて、名前も呼べなくて、逃げてばかりで」
達也は、まだ聞いていた。
責めない。
笑わない。
軽く流さない。
そのことが、見晴を少しだけ支えてくれた。
「でも」
見晴は顔を上げた。
「見ているだけでは、何も届かないって、やっとわかりました」
風が吹いた。
伝説の木の枝が揺れた。
卒業式の日のざわめきが、遠くで波のように聞こえた。
見晴は、もう一度息を吸った。
ここまで歩いた。
ここまで来た。
だから、言う。
「佐伯くんのことが、好きです」
言えた。
でも、それだけでは足りない気がした。
三年間の言葉。
今の言葉。
両方を渡したかった。
「ずっと好きでした」
そこで一度、声が止まった。
けれど見晴は、首を横に振った。
過去だけではない。
終わった気持ちではない。
「でも、それだけじゃなくて」
見晴は、達也を見た。
「今も、好きです」
言った瞬間、涙がこぼれそうになった。
怖かった。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
返事がどうであっても、もう言えた。
自分の声で。
自分の名前で。
自分の足でここまで来て。
達也は、しばらく何も言わなかった。
沈黙があった。
その沈黙は怖かった。
けれど、達也は目を逸らさなかった。
やがて、彼は静かに言った。
「ありがとう」
その最初の言葉に、見晴は小さく頷いた。
達也は言葉を選んでいるようだった。
急いで答えようとしていない。
そのことが、少しだけ怖くて、少しだけ安心した。
「今すぐ、同じ言葉を返せるほど、俺は館林さんを知らない」
胸が、少し痛んだ。
でも、それは嘘ではないと思った。
達也はまだ、自分を知らない。
三年間、見晴は達也を見ていた。
でも、達也は今、初めて見晴を見始めたばかりなのだから。
「でも」
達也は続けた。
「館林さんがここまで歩いてきてくれたことは、ちゃんと受け止めたい」
見晴は唇を噛んだ。
涙が出そうだった。
「俺は、館林さんのことを知りたい」
達也はまっすぐに言った。
「知らないままじゃなくて。これから」
これから。
その言葉が、見晴の中にゆっくり入ってきた。
三年間、見晴は達也を見ていた。
でも、これからは。
これから、達也が自分を知ろうとしてくれる。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
「だから」
達也は少しだけ困ったように笑った。
「これから俺に、館林さんのことを教えてほしい」
見晴は、すぐには答えられなかった。
好きです、と言うより、その言葉に返事をする方が難しい気がした。
教える。
自分のことを。
逃げていたことも。
見ていたことも。
好きなものも。
苦手なことも。
三年間、心の中にしまっていたものを。
少しずつ、外に出していく。
怖い。
でも。
「……はい」
見晴は頷いた。
声は小さかった。
でも、今度は逃げなかった。
「私、話します」
達也が、少しだけ目を細めた。
「うん」
「少しずつでも、いいですか」
「もちろん」
その返事が、見晴にはひどく優しく聞こえた。
少し離れた場所で、藤崎詩織は二人を見ていた。
会話の細部は聞こえない。
けれど、館林さんが歩いたことはわかった。
達也が逃げずに向き合っていることもわかった。
二人が、伝説の木の下にいることも。
館林さんは、歩いた。
詩織はそう思った。
自分たちが踏み出さなかった一歩を。
胸の奥が、少し痛む。
祝福と呼ぶには、まだ少し痛い。
でも、それは否定ではなかった。
館林さんが歩いたことを、詩織は否定しない。
自分たちは、特別に名前をつけなかった。
近すぎて、何も確かめなかった。
それもまた、三年間の形だった。
けれど、館林さんは遠くからここまで歩いてきた。
その一歩を、詩織は見てしまった。
見てしまった以上、目を逸らさなかった。
伝説の木の下で、見晴はまだ達也の前に立っていた。
涙はこぼれていなかった。
でも、少しでも気を抜けば泣いてしまいそうだった。
達也は、無理に笑わせようとしなかった。
急に近づこうともしなかった。
ただ、そこにいた。
見晴の前に。
見晴を見て。
「館林さん」
もう一度、名前を呼ばれた。
見晴は顔を上げた。
「はい」
返事ができた。
それだけで、また少し胸が震えた。
三年間、心の中だけだった名前。
三年間、届かなかった声。
それが今、伝説の木の下で往復している。
佐伯くん。
館林さん。
それだけのことが、こんなにも大きい。
見晴は、伝説の木を見上げた。
あの場所は、自分の立つ場所ではないと思っていた。
藤崎さんのような人が向かう場所だと思っていた。
自分は廊下の端にいて、遠くから見ているだけの人間だと思っていた。
けれど今、見晴はここにいる。
遠くから見ているだけではない。
伝説の木の下で、佐伯達也の前に立っている。
自分の名前で。
自分の声で。
自分の足で。
館林見晴は、伝説の木まで歩いてきた。