卒業式から、数日が過ぎた。
制服を着ない朝は、まだ少し落ち着かなかった。
いつもの時間に目が覚めても、きらめき高校へ向かう必要はない。
下駄箱もない。
三年生の教室もない。
図書室前の廊下も、もう毎日通る場所ではない。
それなのに、館林見晴はいつもより早く家を出た。
待ち合わせの時間には、まだかなり余裕があった。
早すぎる。
自分でもそう思った。
けれど、家にいることができなかった。
落ち着かないまま時計を見ているより、待ち合わせ場所に向かってしまった方がいい。
そう思って、見晴は駅前まで来た。
駅前の時計の下。
そこが、今日の待ち合わせ場所だった。
佐伯達也と。
約束をして。
待ち合わせをして。
そこで会う。
それだけのことが、見晴にはまだ信じられなかった。
三年間、彼を待ったことは何度もある。
下駄箱の近くで。
廊下の端で。
校門の少し手前で。
彼が通るかもしれない場所で。
けれど、それは待ち合わせではなかった。
彼に見つけてもらうためではなかった。
むしろ、見つからないために待っていた。
彼を見るために。
でも、彼に見られないために。
今日の見晴は違う。
見つけてもらうために、ここにいる。
そう思った瞬間、胸が落ち着かなくなった。
駅前には、人の流れがあった。
買い物へ向かう人。
友人と待ち合わせている人。
改札から出てくる人。
誰かを探している人。
見晴は、時計の下に立っていた。
けれど、少しすると足が自然に横へ動いた。
駅前の柱の影。
人の流れから少し外れる場所。
そこに立てば、落ち着く。
見られにくい。
目立たない。
いつもの自分の場所に近い。
見晴はそこへ一歩寄りかけて、止まった。
そこでは、佐伯くんから見つけにくい。
そう気づいた。
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
今日は、隠れるために来たのではない。
約束したから、ここにいる。
見晴は、小さく息を吸った。
そして、時計の下へ戻った。
たった一歩。
それだけなのに、また伝説の木まで歩いた時のことを思い出した。
遠い。
怖い。
でも、歩いた。
あの日、見晴は伝説の木まで歩いた。
佐伯くんの前に立って、自分の言葉で告げた。
ずっと好きでした。
今も、好きです。
その声が、自分のものだったことを、今でも少し信じられない。
佐伯くんは、すぐに同じ言葉を返したわけではなかった。
けれど、逃げなかった。
目を逸らさなかった。
そして言ってくれた。
館林さんのことを知りたい。
これから俺に、館林さんのことを教えてほしい。
その言葉を思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
怖い。
でも、嬉しい。
その両方が、まだ見晴の中にあった。
「館林さん」
声がした。
見晴は、はっと顔を上げた。
佐伯達也が、少し息を切らして立っていた。
「ごめん、待った?」
その言葉に、見晴は反射的に首を横に振った。
「いえ。私も、今来たところです」
言ってから、少しだけ目を逸らした。
本当は、かなり前からいた。
駅前に着いて、時計を見て、柱の影に寄りそうになって、戻って。
その全部を言うのは恥ずかしかった。
達也は、少しだけ見晴を見た。
それから、困ったように笑った。
「……本当は、少し前からいた?」
見晴は固まった。
「え」
「いや、なんとなく」
「……少しだけです」
「そっか」
達也はそれ以上、からかわなかった。
それがありがたかった。
見晴は、胸の前で両手を握りそうになって、途中でやめた。
今日は鞄を胸に抱えていない。
隠れるものがない。
だから、手の置き場に困る。
達也も、少しだけ落ち着かない様子だった。
二人とも、まだ慣れていない。
それがわかって、見晴は少しだけ安心した。
「館林さん」
もう一度、名前を呼ばれた。
「はい、佐伯くん」
返事をした。
駅前のざわめきの中で、その名前の往復は、伝説の木の下の時よりもずっと日常的に聞こえた。
けれど、見晴には同じくらい大きかった。
伝説の木の下だけではない。
駅前でも。
学校ではない場所でも。
卒業式が終わった後でも。
佐伯くんは、自分を館林さんと呼んでくれる。
自分も、佐伯くんと呼べる。
それだけのことが、まだ奇跡のように思えた。
「今日は、どうしようか」
達也が聞いた。
「え?」
「どこか行きたいところ、ある?」
見晴は、すぐに答えられなかった。
行きたいところ。
そう聞かれるとは思っていたはずなのに、いざ聞かれると頭が真っ白になる。
今まで、佐伯くんがどこへ行くかを見ることには慣れていた。
どの廊下を通るか。
どの時間に下駄箱へ来るか。
校門を出た後、どちらへ歩くか。
そういうことは、覚えていた。
でも、自分がどこへ行きたいかを、佐伯くんに言うことには慣れていない。
自分の行きたい場所を、彼に伝える。
それは、思ったよりも難しかった。
「無理に決めなくてもいいよ」
達也が言った。
「適当に歩いてもいいし、どこかでお茶でもいいし」
その言い方は、急かしていなかった。
答えを求めているのではなく、待ってくれている。
見晴は、少しだけ息を吸った。
伝説の木まで歩いた時も、最初の一歩が一番怖かった。
今も同じだ。
「少し」
声が小さくなった。
けれど、達也は待っていた。
見晴は、もう一度言った。
「少し、歩きたいです」
達也は頷いた。
「うん。どこまで?」
見晴は考えた。
駅前から商店街まで。
公園まで。
川沿いまで。
どこか具体的な場所を言った方がいいのだろうか。
でも、今の見晴が言いたいのは、場所の名前ではなかった。
「決めていません」
見晴は言った。
「でも、今日は……」
言葉が止まる。
恥ずかしい。
逃げたい。
それでも、逃げるほどの怖さではなかった。
「隣を、歩いてみたいです」
言った後で、顔が熱くなった。
達也は少しだけ驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
「うん」
その一言だけだった。
けれど見晴には、十分だった。
二人は駅前を歩き出した。
最初は、少し距離があった。
隣と言うには、ほんの少し遠い。
肩が触れるほど近くはない。
でも、離れすぎてもいない。
見晴は、自分の歩幅がわからなかった。
早すぎるだろうか。
遅すぎるだろうか。
佐伯くんに合わせた方がいいのだろうか。
でも、合わせようと意識しすぎると、足がぎこちなくなる。
達也が少し歩調を緩めた。
見晴はそれに気づいた。
「すみません」
思わず言ってしまった。
達也がこちらを見る。
「どうして謝るの?」
「歩くのが、遅いかもしれないので」
「遅くないよ」
「でも」
「俺も、ゆっくり歩きたいし」
その言葉が本当かどうか、見晴にはわからない。
でも、達也がそう言ってくれたことが嬉しかった。
「館林さん」
「はい」
「学校以外だと、よくどこに行くの?」
唐突な質問だった。
けれど、見晴は少しだけ笑いそうになった。
知ろうとしてくれている。
本当に。
佐伯くんは、約束通り、自分を知ろうとしてくれている。
「本屋さんに、行くことが多いです」
「本屋?」
「はい。図書室も好きでしたけど、駅前の本屋さんも好きで」
「じゃあ、そこ行く?」
見晴は少し驚いた。
「いいんですか?」
「館林さんが行きたいなら」
その言い方が自然で、見晴は少し困った。
そんなふうに聞かれることに、まだ慣れていない。
「……はい」
見晴は頷いた。
「行きたいです」
言えた。
自分の行きたい場所を。
佐伯くんに。
その小さなことが、見晴にはとても大きかった。
商店街へ向かう途中、二人は駅前の横断歩道で信号を待った。
その時だった。
向こう側から、藤崎詩織が歩いてくるのが見えた。
見晴は、思わず足を止めた。
卒業式の日。
伝説の木の少し外側に立っていた藤崎さん。
自分が歩くのを、否定せずに見ていた人。
その姿を思い出す。
詩織も二人に気づいた。
一瞬だけ目を細める。
それから、いつも通りの穏やかな顔で近づいてきた。
「こんにちは、館林さん。佐伯くん」
見晴は、自分の名前が先に呼ばれたことに少し驚いた。
館林さん。
藤崎さんの声でそう呼ばれると、卒業式の日とはまた違う重さがあった。
自分はもう、藤崎さんにとっても名前のある人間なのだと思った。
「こんにちは、藤崎さん」
見晴は小さく頭を下げた。
達也も言った。
「詩織、こんにちは」
詩織は二人を見た。
余計なことは何も言わなかった。
どうだった、とも。
これからどこへ、とも。
ただ、少しだけ微笑んだ。
「気をつけてね」
それだけだった。
見晴は、ほっとした。
その短さが、ありがたかった。
「はい」
「じゃあ、また」
詩織はそう言って、二人の横を通り過ぎていった。
見晴は、少しだけ振り返った。
詩織の背中は、まっすぐだった。
遠ざかっていく。
でも、消えるわけではない。
藤崎さんは、藤崎さんの道を歩いている。
そう思った。
達也は何も言わなかった。
見晴も、何も聞かなかった。
今は、それでいい気がした。
信号が変わった。
二人は横断歩道を渡る。
佐伯くんの隣を歩く。
まだ少し緊張する。
まだ歩幅はうまく合わない。
話すことも、すぐには出てこない。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「館林さん」
「はい」
「本屋のあと、少しお茶でもする?」
見晴は一瞬迷った。
けれど、今度は前より少しだけ早く答えられた。
「はい。行きたいです」
達也が笑う。
「じゃあ、そうしよう」
そうしよう。
その言葉が、見晴にはあたたかかった。
これからの予定を、一緒に決めている。
今まで、見晴は遠くから見ていただけだった。
佐伯くんがどこへ行くか。
誰と話すか。
何を笑うか。
それを、少し離れた場所から見ていた。
でも今日は違う。
自分も、その予定の中にいる。
隣を歩いている。
見晴は、ほんの少しだけ足元を見た。
自分の靴が、佐伯くんの靴の隣を進んでいる。
それだけの光景に、胸がまた熱くなった。
「どうしたの?」
達也が聞いた。
見晴は首を横に振った。
「いえ」
少し考えてから、続けた。
「歩いているんだなと思って」
達也は不思議そうにした。
でも、すぐに何かを察したように、柔らかく笑った。
「うん」
見晴も、小さく笑った。
館林見晴は、もう遠くから佐伯達也を見ていなかった。
今日は、隣にいた。
まだ少し緊張している。
まだ少し歩幅は合わない。
それでも、見晴は歩いていた。
佐伯達也の隣を。