本屋に入った瞬間、館林見晴の空気が少しだけ変わった。
駅前からここまで歩いてくる間、彼女はずっと緊張していた。
隣を歩く距離。
信号を待つ時間。
こちらが話しかけるまでの沈黙。
その一つ一つに、ほんの少しずつ戸惑っているのが分かった。
それは、悪い意味ではなかったと思う。
館林さんは、逃げていなかった。
隠れてもいなかった。
駅前の時計の下に立っていて。
俺の隣を歩いて。
自分から、本屋へ行きたいと言ってくれた。
それだけで、俺には十分すぎるくらいだった。
けれど、本屋に入った途端、彼女の肩から少しだけ力が抜けた。
大きな店ではない。
駅前の商店街にある、昔からある本屋だ。
入口の近くには雑誌。
奥には文庫と単行本。
壁際には参考書と専門書。
少しだけ古い紙の匂いがする。
学校の図書室とは違う。
でも、静かな場所だった。
館林さんは、入口で一度だけ足を止めた。
それから、ゆっくり店内を見回した。
「ここ、よく来るの?」
俺が聞くと、館林さんは小さく頷いた。
「はい。駅前に来た時は、時々」
「図書室も好きだったって言ってたよな」
「はい」
そこで、館林さんは少しだけ目を伏せた。
「図書室は、学校の中で一番落ち着く場所でした」
「そうなんだ」
「人がいても、静かだから」
そう言ってから、館林さんは少し慌てたように付け加えた。
「あ、でも、人が嫌だったわけではなくて」
「うん」
「ただ、話さなくてもそこにいられる場所だったので」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が痛くなった。
話さなくてもそこにいられる場所。
それは、彼女にとって安心できる場所だったのだと思う。
でも、もしかしたら。
俺が何度も通り過ぎた廊下の端や、校門の少し手前も、彼女にとってはそういう場所だったのかもしれない。
話さなくてもいられる場所。
見つからなくても、見ていられる場所。
俺は、それを知らなかった。
館林さんがどこに立っていたのか。
いつ俺を見ていたのか。
何を思っていたのか。
俺は、何も知らなかった。
伝説の木の下で、彼女は俺に言ってくれた。
ずっと好きでした。
今も、好きです。
その言葉を受け取った時、俺はようやく気づいた。
俺が知らなかった三年間が、彼女の中にはあったのだと。
でも、それは知った気になっていいものではない。
まだ、始まったばかりだった。
俺は、館林さんのことを知らない。
だから、知りたいと思った。
「佐伯くん?」
気づくと、館林さんがこちらを見ていた。
「あ、ごめん。少し考えてた」
「何を、ですか?」
聞かれて、俺は一瞬迷った。
うまく言えない。
でも、何も言わないまま曖昧に笑うのは、もう少し違う気がした。
「館林さんのこと、まだ全然知らないんだなって」
館林さんの目が、少しだけ大きくなった。
「……そう、ですか?」
「うん」
俺は頷いた。
「だから、今日は少し知れたらいいなと思って」
そう言うと、館林さんはすぐには答えなかった。
恥ずかしそうに視線を落とす。
けれど、逃げるように後ろへ下がることはなかった。
「……はい」
小さな声だった。
「少しなら」
その返事が、俺にはとても大きく聞こえた。
館林さんは文庫の棚の前へ歩いていった。
俺もその後ろについていく。
学校の廊下では、彼女はいつも人の流れから少し外れた場所にいたらしい。
俺はそれを知らなかった。
気づけなかった。
けれど、今の館林さんは、本棚の前で自然に立っている。
隠れているわけではない。
目立とうとしているわけでもない。
ただ、そこにいる。
本棚の前の館林さんは、駅前で待っていた時より少しだけ落ち着いて見えた。
指先が、背表紙の文字をゆっくり追っていく。
一冊、手に取る。
裏表紙を見る。
少し考える。
ページを開く。
すぐには決めない。
しばらく見てから、棚に戻す。
また別の本を取る。
その動きは、とても丁寧だった。
「本、選ぶの慎重なんだな」
俺が言うと、館林さんは少しだけ驚いたようにこちらを見た。
「そう、見えますか?」
「うん。ちゃんと考えてる感じがする」
「……迷っているだけかもしれません」
「それも、ちゃんと考えてるってことじゃない?」
館林さんは答えに困ったように瞬きをした。
それから、少しだけ笑った。
「そう、かもしれません」
その笑い方は、学校で見た彼女の笑顔とは少し違っていた。
いや。
正確には、俺は学校で彼女の笑顔をどれだけ見ていたのだろう。
すれ違ったことはある。
ぶつかったこともある。
名前を呼んだこともある。
けれど、その時の俺は、どれだけ館林さんを見ていたのだろう。
ぶつかった少女。
何度か見かけた人。
名前を知った相手。
卒業式の日に、伝説の木まで歩いてきた女の子。
それだけで、知ったことにはならない。
館林さんは、一冊の文庫を手に取った。
今度は、少し長く表紙を見ている。
「それ、好きな本?」
聞くと、館林さんは小さく頷いた。
「はい。前に読んだことがあります」
「もう読んだ本を買うの?」
「はい。時々」
「どうして?」
聞いた後で、少し踏み込みすぎたかと思った。
でも、館林さんは嫌そうな顔をしなかった。
むしろ、本を見たまま、少しだけ言葉を探しているようだった。
「図書室で借りて読んだ本でも、手元に置いておきたくなることがあって」
「うん」
「何度も読むかどうかは、分からないんです。でも、持っているだけで安心する本があります」
「安心する本」
「はい」
館林さんは、文庫の表紙をそっと撫でるように指で触れた。
「その時に読んだ気持ちを、少し残しておける気がするので」
俺は、その言葉をすぐには返せなかった。
館林さんの声は、普段よりほんの少しだけ長く続いた。
好きなものの話をしている時、彼女は少しだけ言葉が増える。
それに気づいた。
学校では、彼女の声をこんなふうに聞いたことがなかった。
いや。
聞こうとしていなかっただけかもしれない。
「館林さん、こういう本が好きなんだ」
俺が言うと、館林さんはまた少し驚いた。
そして、恥ずかしそうに頷いた。
「はい。……少しだけ」
「少しだけ?」
「はい」
館林さんは本を胸元に寄せかけて、でもすぐに少し下ろした。
「たくさん知っているわけではないので」
「でも、好きなんだろ?」
「……はい」
今度は、少しだけはっきり頷いた。
「好きです」
その言葉に、俺は不意に息を止めそうになった。
もちろん、本の話だ。
分かっている。
分かっているのに、その言い方がとてもまっすぐで、伝説の木の下で聞いた声を少し思い出した。
ずっと好きでした。
今も、好きです。
あの時の声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
今、本を好きだと言った声も、少しだけ同じだった。
自分の中にあるものを、外へ出す声。
俺は、その声をもっと聞きたいと思った。
「少しずつ教えて」
そう言うと、館林さんは本を持ったまま、こちらを見た。
「え?」
「館林さんの好きな本とか、好きな場所とか、そういうの」
言ってから、少しだけ照れくさくなった。
でも、言葉を引っ込める気にはならなかった。
「俺、まだ知らないから」
館林さんは、しばらく黙っていた。
本屋の中は静かだった。
ページをめくる音。
誰かが棚の前を歩く音。
店員がカウンターで紙袋を用意する音。
その中で、館林さんはゆっくり頷いた。
「……はい」
小さな返事だった。
でも、聞き逃したくない返事だった。
「少しずつなら」
「うん」
「うまく話せないかもしれませんけど」
「それでもいいよ」
俺がそう言うと、館林さんはほっとしたように目を伏せた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うことじゃないと思うけど」
「でも」
館林さんは少しだけ考えた。
「待ってくれるのは、嬉しいので」
胸の奥が、少し熱くなった。
俺は今まで、彼女を待たせていた。
知らないまま。
気づかないまま。
彼女が俺を見ていた時間を、俺は知らなかった。
だから、今度は俺が待ちたいと思った。
彼女が話してくれるまで。
彼女が隣を歩けるまで。
彼女が自分の好きなものを、少しずつ教えてくれるまで。
待つことは、何もしないことではない。
今、初めてそう思った。
「他には、どういう本読むの?」
俺が聞くと、館林さんは棚へ視線を戻した。
「えっと……」
少し迷ってから、彼女は別の棚を指した。
「日常のお話が好きです」
「日常?」
「はい。大きな事件が起きる話も読みますけど、普通の日が少しずつ変わっていく話が好きで」
「普通の日が変わっていく話」
「はい」
館林さんは、少しだけ照れたように言った。
「昨日までと同じように見えるのに、少しだけ違っている話」
それを聞いて、俺は館林さんを見た。
今日のことだと思った。
駅前で待ち合わせた。
本屋に来た。
好きな本の話を聞いた。
たぶん、他の誰かから見れば、それだけの日だ。
特別な事件なんて起きていない。
伝説の木もない。
卒業式もない。
けれど、俺にとっては昨日までとは違う日だった。
館林さんも、そう思っているのだろうか。
「じゃあ、今日もそういう日かな」
思わずそう言うと、館林さんがこちらを見た。
「今日、ですか?」
「うん。普通の日に見えるけど、少し違う日」
館林さんは、最初は驚いていた。
それから、ゆっくりと表情を柔らかくした。
「……はい」
とても小さく、でも嬉しそうに言った。
「そうかもしれません」
館林さんは、さっきの文庫をもう一度見た。
そして、棚に戻さなかった。
そのまま持って、レジの方へ少し歩き出す。
「それにするの?」
「はい」
「好きな本?」
「はい。好きな本です」
今度は、さっきより少しだけ言い方が自然だった。
俺はそれが嬉しかった。
レジで会計を済ませる間、館林さんは少し緊張していた。
けれど、本を紙袋に入れてもらうと、嬉しそうに受け取った。
店を出ると、外の空気が少し冷たかった。
春は近い。
でも、まだ冬の名残がある。
卒業式の日と似ているようで、少し違う。
制服ではない。
学校でもない。
伝説の木の下でもない。
それでも、館林さんは俺の隣にいた。
「このあと、お茶でいい?」
俺が聞くと、館林さんは本の入った紙袋を胸元に抱えた。
「はい。行きたいです」
少しだけ早く返ってきた返事に、俺は笑った。
「じゃあ、行こう」
「はい」
二人で歩き出す。
館林さんは、本の入った袋を胸に抱えていた。
その姿を見て、俺はふと思う。
きっと、前は鞄を抱えていたのだろう。
自分を隠すために。
人の視線から少し逃げるために。
話しかけられても、すぐに小さくなれるように。
でも今、彼女が抱えているのは、自分の好きな本だった。
隠れるための鞄ではない。
自分の好きなもの。
自分が選んだもの。
自分が、好きだと言えたもの。
その本を抱えて、館林さんは俺の隣を歩いている。
「佐伯くん」
隣から声がした。
「うん?」
館林さんは少し迷ってから、言った。
「今度、佐伯くんの好きな本も教えてください」
俺は少し驚いた。
今度。
その言葉が、自然に出てきたことが嬉しかった。
「うん。教える」
「はい」
「でも、俺の好きな本、館林さんほどちゃんと説明できないかも」
そう言うと、館林さんは小さく笑った。
「それでも、知りたいです」
その言葉に、俺は頷いた。
「じゃあ、少しずつ」
「はい。少しずつ」
商店街の人の流れの中を、二人で歩く。
まだ歩幅は完全には合っていない。
会話も、時々途切れる。
沈黙になると、少しだけ緊張する。
でも、その沈黙は嫌ではなかった。
館林さんがそこにいる。
俺の隣にいる。
俺は、そのことをちゃんと見ている。
館林見晴がどこに立っていたのかを、俺はまだ知らない。
館林見晴がどれだけ長く俺を見ていたのかも、まだ知らない。
でも今日、俺は一つだけ知った。
彼女には、好きな本がある。
好きな場所がある。
普通の日が少しずつ変わっていく話が好きだと言う。
そして、そのことを、少しずつなら教えてくれる。
それだけで、今日という日は十分だった。
佐伯達也は、館林見晴の好きな本を知った。
まだ、一冊だけ。
けれどその一冊を抱えて、彼女は隣を歩いていた。