三秒のペナルティ
「――おいハギ! 門限まであと三分しかねぇぞ! 走れッ!」
松田陣平の怒声が、深夜の米花町の路地裏に響き渡った。
警察学校の寮の消灯後、萩原研二の(大して重要でもない)ナンパの数合わせに付き合わされ、挙句の果てに全員で無断外出を鬼塚教官に察知されそうになった。
それが、今この「泥まみれの全力疾走」
の大元の原因だった。
「待ってよ陣平ちゃん! 姉ちゃんに東京へのお土産頼まれててさぁ!」
「知るかバカ! 降谷と諸伏はもう壁を乗り越えてるぞ!」
伊達航が豪快に笑いながら2人の背中を押し、先頭を走る金髪(降谷零)と黒髪(諸伏景光)が
「教官がそっちの巡回に行ったぞ!」
「裏門へ回り込め!」と暗号のような声を掛け合う。
その狂騒の最後尾を、榊凱(さかき がい)は眉ひとつ動かさずに、しかし最も無駄のないフォームで
駆け抜けていた。
SIT(特殊犯捜査係)を目指す男として、こんなくだらない規律違反に巻き込まれ、
連帯責任のペナルティを食らうのは屈辱以外の何物でもなかった。
「……お前たちの無駄な動きが多すぎるだけだ」
榊は正門の影を滑るようにすり抜け、最後の高いコンクリート壁を一瞬の踏み込みでクリアした。
全員が泥まみれになりながら、それぞれのベッドに滑り込んだのは、門限の秒針がちょうど重なる瞬間だった。
翌朝。
案の定、無断外出の証拠(泥だらけの靴)を見つけ出した
鬼塚教官によって、6人は炎天下のグラウンドで
ペナルティの草むしりを命じられていた。
「あーあ、榊の足があと三秒早けりゃ、
俺たち泥まみれの靴を隠す時間くらいあったのによ。なぁ、ハギ」
松田が愚痴をこぼしながら、引き抜いた雑草を榊の足元に投げつけた。
「そうだね〜。凱ちゃん、いつもは『規律と効率』とか言ってる割に、最後の壁のところで俺の背中を押すの、ちょっと遅かったんじゃない?」
萩原が汗を拭いながら、いつもの人たらしな笑みを榊に向けた。
「下らん。俺が動くのは命令と規律の範囲内だけだ。お前たちの不手際を三秒で埋めてやる義理はない。……次からは、自分の足だけで逃げ切るんだな、萩原」
榊は冷徹に言い捨て、黙々と雑草を毟り続けた。
「冷てぇな〜」
「まぁまぁ、終わったら美味いもんでも食いに行こうぜ」という同期たちの笑い声が、夏のグラウンドに響いていた。
命令と規律の範囲内。警察官として、それが榊の絶対の防壁だった。
――だが、その4年後。
世界を揺るがしたあの11月7日の爆発現場で、デジタルタイマーが『残り三秒』を表示して狂ったよ
うにカウントダウンを再開したあの瞬間。
榊の脳裏に、硝煙の匂いと共にフラッシュバックしたのは、あの日泥まみれで草を毟りながら、松田が漏らした
「あと三秒早けりゃ」という、くだらないあの日の愚痴だった。
「走れ、萩原ッ!!!」
命令も、規律も、自分の防壁さえもすべてぶち破り、榊は黒い防弾ベストを揺らして、崩落しかけるマ
ンションの階段を、獣のような速度で駆け上がっていた――。