三秒先の未来   作:ロデオT

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風の女神の咆哮

高層マンションの廊下を埋め尽くした黒煙の中、萩原研二の救急搬送は一刻を争う形で行われた。

榊凱(さかき がい)自身も、爆風による打撲と

右腕の裂傷、熱風での火傷を負っていたが、

救急車のシートで意識を失った萩原の命の灯が消えぬよう、その無骨な手でずっと同期の冷えかけた手を握り締め続けていた。搬送先は、米花総合美術病院。

緊急手術室の赤いランプが点灯し、

萩原が運び込まれてから、どれほどの時間が経っただろうか。

廊下のパイプ椅子には、顔の煤を拭うことも忘れた

松田陣平が、祈るように両手を組んで俯いている。

榊もまた、応急処置の包帯を右腕に巻かれただけのボロボロの突入服姿で、壁に深く背を預けていた。

消毒液の匂いと、行き交う警察関係者の騒然とした足音。

その重苦しい静寂を切り裂いたのは、激しく回廊を響かせる、重いブーツの足音だった。

「研二……っ! 研二はどこだッ!!」

息を切らし、狂おしいほどの叫び声を上げて廊下の角から現れたのは、萩原千速だった。

神奈川から白バイを文字通り限界まで飛ばして駆けつけたのだろう。

ヘルメットを左手に握りしめた彼女の長い髪は激しく乱れ、革のライダースジャケットからは、まだ外の冷たい風の匂いが強く残っている。

「千速……」

松田が弾かれたように顔を上げた。

千速は松田を一瞥し、そして、手術室のドアの前に立ち尽くす大柄な男――榊の存在に気づくと、一歩、また一歩と、猛烈な気迫で詰め寄ってきた。

大柄な榊の胸ぐらを、千速の両手が容赦なく掴み取る。

革手袋越しでも、彼女の手が小刻みに、しかし壊れるほどの強さで震えているのが榊には分かった。

「……なんで、もっと早く研二を連れ出さなかったんだッ!」

千速の声が、怒りと、それ以上の底知れぬ恐怖で激しく震える。

「あいつはバカだ! 防護服も着ずに、お調子者で、詰めが甘くて……! あんたが現場の突入班なら、同期なら……! なんであいつの頭を殴ってでも、もっと早く連れ出してくれなかったんだよ……っ!!」

掴まれた胸ぐら。激しい言葉。

だが、千速の大きな瞳からは、大粒の涙がボロボロと溢れ、榊の汚れた黒い突入服に次々と暗い染みを作っていった。それは八つ当たりだった。

千速自身、それが理不尽な怒りだと分かっていた。

だが、そうでもしなければ、張り裂けそうな心を保てなかったのだ。

たった一人の、大切な弟の命が今、扉の向こうで消えかかっている。榊は、胸ぐらを掴まれたまま、表情ひとつ変えなかった。

千速の手を振り払うこともしなければ、言い訳もしない。

ただ、夜の海のように深い両目で、泣き崩れそうな彼女の顔をじっと見つめていた。

やがて、榊はぶっきらぼうに、しかし確かな強さを持った声で言った。

「悪かった。俺の足が、あと三秒早ければ無傷で済んだ」

「っ……」

「だがな、萩原の姉貴」

榊はそっと、千速の震える両手の上に、自分の泥と血に汚れた大きな手を重ねた。

凍えるように冷たくなっていた彼女の手を、榊の熱い手のひらが包み込む。

「あいつは生きてる。心臓は動いてる。……俺たちが、意地でも地獄のフチから引っ張り戻した。だから、あいつは絶対に死なせない」

力強い言葉だった。その瞳には、自分の任務に対する、

そして「同期を絶対に死なせない」という、狂気にも似た執念が宿っていた。

「……松田がな、中でボロ雑巾みたいに泣きそうな顔してあいつの手を握ってんだ。だから、姉貴さんくらいは、しゃんとしてやってくれ」

榊が少しだけ困ったように目元を緩め、そっと千速の手を胸ぐらから離した。

千速は、涙で滲む視界の中で、目の前の男の顔を焼き付けるように見つめた。

煤まみれで、口が悪くて、不器用極まりない警視庁の男。

けれど、その胸の奥にある、決して折れない鉄のような芯の強さと、弟を救ってくれた圧倒的な熱量が、千速の凍りついた心を一瞬で溶かしていくのが分かった。

「……千速だ」

千速は涙を手の甲で手荒に拭うと、榊の目を真っ直ぐに見返した。

「姉貴さんじゃない。萩原千速だ。……榊、と言ったな。研二を……私のたった一人の弟を、生かして帰してくれて、ありがとう」

手術室の赤いランプを見上げる千速の横顔を、榊は静かに見つめていた。

これが、後に神奈川県警の「風の女神」と呼ばれる女刑事と、警視庁最強のSITネゴシエーターの、最悪で、最高の始まりの瞬間だった。

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