萩原研二がICU(集中治療室)を出て、一般病棟の個室へと移ったのは、あの爆発から一週間が過ぎた頃だった。
体中に巻かれた包帯と、いくつもの医療機器の
コード。
それでも、面会謝絶が解けた初日に榊凱(さかき がい)が病室のドアを開けると、ベッドの上の男は鼻に酸素吸入のチューブをつけたまま、いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべてみせた。
「いや〜、凱ちゃん。お見舞いに来るなら、もっと可愛い看護師さんでも連れてきて欲しかったなぁ」
「軽口を叩けるなら問題ないな。……死に損ないが」
榊はぶっきらぼうに言い捨て、パイプ椅子を
引き寄せて腰掛けた。
右腕に巻かれた自分の包帯を隠すように、私服の上からコートを羽織っている。
「ひどいなぁ。でも、本当にありがとう、凱ちゃん。陣平ちゃんから聞いたよ。機動隊の制止を振り切って、あんな無茶な突入してくれたんだって?」
研二が少しだけ真面目な目になり、動く方の左手をゆっくりと榊に向けた。
榊はその手を無言で見つめ、それには応えず、代わりに持参したお見舞いのスポーツドリンクの
ペットボトルをベッドの脇に置いた。
「俺は規律を破った。近々、上層部から正式な処分が
下る。……お前の個人的な尻拭いをしたわけじゃない」
「あはは、相変わらず堅物。そういうところ、本当にブレないよねぇ」
研二が苦笑した、その時。バタン、と音を立てて病室のドアが開いた。
入ってきたのは、お盆に載った温かいスープと、果物の皿を持った萩原千速だった。
「こら研二! 看護師さんにまだお喋りは控えるように言われただろ! ……あ」
榊と目が合い、千速の動きがピタリと止まる。
あの緊迫した夜、病院の廊下で榊の胸ぐらを掴んで泣き崩れて以来の再会だった。
今日の千速は警察の制服ではなく、柔らかなニットにロングスカートという私服姿で、長い髪も綺麗に一つにまとめられている。
廊下の街灯の下では気づかなかったが、その瞳は驚くほど澄んだ琥珀色をしていた。
「……榊。あんた、怪我はもういいのか?」
千速が少しだけ決まずそうに、けれど真っ直ぐに榊を見つめた。
「問題ない。ただの擦り傷だ」
「そうか……。あの時は、その、理不尽に怒鳴り散らして悪かった。研二を助けてもらったのに、私っ
たら……」
千速が顔を伏せ、耳の裏までほんのりと赤く染める。
男勝りで豪快な「風の女神」の面影はどこへやら、いま目の前にいるのは、ただただ不器用にお礼を
伝えようとしている一人の女性だった。
「気にしていない。あんたの怒りは当然だ。……萩原が生きている、それがすべてだ」
榊が能面のようなツラで淡々と返すと、千速は少しだけ目元を緩め、
「……千速だ、って言ったろ」と
小さく呟いた。
ベッドの上で、その様子をじっと眺めていた研二の目が、ニヤニヤとした意地の悪い光を帯び始め
る。
「おや〜? 姉ちゃん、凱ちゃんの前だと随分しおらしいじゃん。いつもは俺のこと『研二ィ!』って怒鳴
り散らす猛獣のクセにさぁ」
「研二ィ!! あんたは黙ってそのスープを飲みなッ!!」
千速が顔を真っ赤にし、スープの詰まったスプーンを研二の口に強引に突き刺した。
「あふっ、熱い熱い!」
と悶絶する弟を無視して、千速は榊の方を振り返る。
「榊、あんた、飯はちゃんと食ってるのか? 突入班なんて過酷な仕事、身体が資本なんだ。……
ほら、これ、研二の残りだけど食べなよ。林檎、剥いてあるから」
千速が、不揃いだがウサギの形にカットされた林檎の皿を
榊の前に突き出してきた。
「……いや、俺は」
と断ろうとした榊だが、千速の「食べなさい」という有無を言わせぬ強い視線に圧され、生まれて初めて
「ネゴシエーション(交渉)」という名の思考を放棄して、大人しくウサギの林檎を口へと運んだ。
シャキ、と静かな音が病室に響く。
「……美味いな」
「だろ? 私が剥いたんだ。……また、作ってきてやろうか?」
千速が少しだけ期待を込めた目で榊を見つめる。
榊はいつものポーカーフェイスのまま、「……配慮処置(善処)する」と、不器用極まりない警察用語
で答えた。
それを見て、研二がスープで火傷した口を押さえながら、「あーあ、凱ちゃん、完全に姉ちゃんに手綱握られちゃってるよ……」と、
嬉しそうに、そして心底楽しそうに未来の
「義兄さん」になるかもしれない同期の受難を予感
して笑うのだった。