萩原研二が一般病棟へ移って数日が経った午後。病室には、千速が剥いてくれたウサギの林檎を
淡々と口に運ぶ榊凱(さかき がい)と、それを嬉しそうに見つめる千速、そしてベッドの上でニヤニヤ
と2人を観察する研二の三人がいた。
「――おい」
前触れもなく、不機嫌そうな低い声と共に病室のドアが乱暴に開いた。
入ってきたのは、黒いスーツのネクタイを緩め、頭に包帯を巻いた松田陣平だった。その腕には、およそ
お見舞いには不釣り合いな、網に入った特大の
高級メロンが抱えられている。
「陣平ちゃん! お見舞い来てくれたんだ」
研二が嬉しそうに声をかけるが、松田はフンと鼻を鳴らし、抱えていたメロンをベッドの足元にドサリ
と無造作に放り出した。
「ハギ、お前がいつまでも死に損ないみたいなツラ
して寝てっから、機動隊の連中がうるさくて敵わ
ねぇんだよ。
……ほら、これ。班長(伊達)と、公安のあいつら(降谷・諸伏)からのカンパで買ったメロンだ。さっさと食って退院しやがれ」
「あはは、陣平ちゃんこそ頭の包帯、まだ取れてないじゃん」
松田は研二の軽い口調に呆れたようにため息をつくと、ベッドの柵に寄りかかり、ポケットからタバコ
を取り出そうとした。しかし、千速の
「陣平、ここは病院だよ」という鋭い視線に気づき、舌打ちをしながら渋々手を引っ込める。
そして、松田は視線を隣のパイプ椅子に座る榊へと移した。
「……榊」
松田の目が、いつになく真剣なものに変わる。彼は榊の前に一歩歩み寄ると、ぶっきらぼうにその大きな右手を差し出してきた。
「今回のヤマ、お前が機動隊の制止をハネのけて突っ込んでこなきゃ、俺は一生、後悔と復讐で頭
がいかれてたところだ。……ありがとな」
普段はプライドが高く、他人に頭を下げることなど滅多にない松田陣平が、真っ直ぐに榊の目を見て
感謝を口にしていた。
榊は差し出された手を数秒間見つめた後、自身の包帯が巻かれた右手を伸ばし、その手を一度だ
け強く握り返した。能面のようなポーカーフェイスは崩さない。
「礼には及ばない。俺は、警察学校時代の連帯責任のペナルティ(草むしり)を、もう二度と食らいたく
なかっただけだ」
「ハッ! 言うじゃねぇか、堅物ネゴシエーター」
松田はニカッと白い歯を見せて笑い、ようやく肩の力を抜いた。
その様子を見ていた研二が、ベッドの上で小さく
笑う。
「ねぇ、陣平ちゃん。凱ちゃんさ、そうやっていつも冷たいこと言う割にね、さっきから姉ちゃんが剥い
たウサギの林檎、文句も言わずに大人しく全部食べてるんだよ?」
「あ? ……あー、なるほどな」
松田が千速と榊を交互に見やり、すぐにニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべた。
「へぇー。榊、お前、犯人の心理を読むのはプロのクセに、千速の『圧力』にはあっさり
無条件降伏(交渉放棄)かよ。分かりやすくて可愛いじゃねぇか」
「陣平、あんたまで研二のバカに付き合ってからかう気かッ!?」
千速が顔を真っ赤にして松田の頭をパンッと叩く。
「いってぇ! 痛てぇよ千速! 病人に免じて俺の頭の包帯も労ってくれよ!」
と松田が声を上げる。
「うるさい、あんたたち二人とも、静かにしなさい! 凱の怪我に障るだろ!」
千速の口から出た「凱」という呼び捨てのワードに、病室の時間が一瞬だけ止まった。
千速自身、無意識に口走ってしまったことに気づき、顔から火が出そうなほど真っ赤になって口元を
押さえる。
「……お、お、お。今『凱』って言ったよね? 姉ちゃん、ついに名前で呼んじゃったよ!」
研二がベッドの上で大はしゃぎし、松田も
「おい榊、お前もう萩原家に引き取られるの確定だな。諦めて手綱握られろよ」
と、腹を抱えて笑っている。
「……業務外の、不条理なからかいには応じない」
榊はいつもの鉄壁のポーカーフェイスを必死に維持しながら、ウーロン茶を喉の奥へ流し込んだ。し
かし、その耳の裏は、病室の誰よりも真っ赤に染まっていた。