雨音の迷宮   作:P-PEN

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一章 デッドスペース

 

 

 

 ――キーン、と。鼓膜の裏側を、極低温の針で直接突き刺すような金属音が、もう長いこと鳴り響き続けている。御伽(おとぎ)ヒメの視界は、先ほどからずっと、泥水を混ぜ込んだようなセピア色の闇に閉ざされていた。

 

 「ハァ、ッ……、ごほ……」

 

 喉の奥からせり上がってきたのは、自らの内臓の温かさを帯びた不快な鉄の味だ。それをコンクリートの床へと吐き捨てる。パチャ、と頼りない音が、冷たい水面に跳ね返った。地上は、激しい豪雨に見舞われているはずだった。

 

 始まりは、境界対策課の日常的な任務の一つに過ぎなかった。ある地方都市の地下を網の目のように這い回る、巨大な暗渠(あんきょ)――その一角に発生した低級界異の掃討戦。他班への出向サポートとして駆り出されたヒメにとって、それは危なげのない任務の範疇であるはずだった。

 

 出向先の職員たちは、お世辞にも一流とは言えない凡庸な祓魔師ばかりだったが、ヒメの的確な戦術アドバイスと、殿(しんがり)を担うだけの突出した個人戦闘能力があれば、戦況が泥沼化する要素などどこにもない。実際、予定されていたエリアの処理は、予定時刻よりも早く、極めて順調に完了していたのだ。

 

 すべてを処理し、任務完了として引き揚げようとした、その時だった。

 

 暗渠の遥か奥。近代的な土木技術の管理から零れ落ち、遥か昔の時代から地図の闇に置き去りにされてきた、歴史に忘れ去られた古い空洞。その暗黒の亀裂から、じっとこちらを覗き込むような、悍ましい気配の胎動をヒメの感知能力が捉えてしまった。

 

 この時点で引き返していれば、あるいは違ったのかもしれない。だが、それが何であるのか、どれほどの規模の危険であるのかが霧に包まれていた。退路確保班と別れ、戦闘班の全員で様子を確かめるべく、闇の奥へと足を踏み入れたのが、すべての分岐点だった。

 

 そこにいたのはかつては神とあがめられ、永き眠りについていた恐るべき界異だった。ヒメはその存在を研究資料の中に偶々見たことがあった。陰湿で、泥臭い死の塊――特殊Ⅳ号級『漏水する甍(ろうすいするいるか)』。

 

 遭遇戦は、一瞬で地獄へと変わった。

 

 同行していた職員たちの遠距離術式や銃撃は、怪物の放つ空間の歪みに射線をねじ曲げられ、何一つ通用しなかった。それどころか、ただそこに存在しているだけで周囲の水を腐らせるヘドロの呪詛を浴び、衣服を焼かれ、肉を壊死させられていく。

 

 『みんな、退きなさい――ッ!!』

 

 ヒメがそう叫び、バルムンクを引き抜いたのは半ば本能だった。凡庸な彼らでは、この怪物の前では一秒と持たずに肉の苗床にされる。再演術式“竜殺し”での補正を持つヒメは、幸いにもこの“足切り”ともいうべき能力を跳ね返す事が出来た。

 

 だが、その代償はあまりにも重かった。

 

 たった一人で相手取ってよい相手ではない格上の界異。他の職員たちを逃がすために使った分不相応な出力、未完成の術式。バルムンクに紡いだ再演術式を無理に限界突破させて祟った結果、確かに怪物の肉をいくらか削ぎ落としたが、同時にヒメ自身の霊的回路を内側から木っ端微塵に焼き切った。

 

 それだけではない。界異は、傷つき、のたうち回りながらも、その無数の溺死体の顔から、粘つくような歓喜の視線をヒメへと注いだのだ。この場にいる誰よりも、傷つきながらも最も強く生きようとしている生命の炎。それこそが、この暗渠の底に潜む獣にとって、何よりも芳醇で、美味なる餌だった。

 

 

 何とか距離を離し、自分も撤退を開始したヒメだったが、出口が一向に見当たらないどころか、自分の居る場所が何処かすら分からなくなってしまった。そして、幸か不幸か界異の情報を知るヒメは、この現象を知っていた。 

 

 この界異がもつ固有能力『うつしよの水葬』。犠牲者として選択した「たった一人」の因果を座標軸として固定し、周囲の空間を、無限の広さを持つ隔離次元迷宮へと置換する絶望の檻。

 

 「ハァ、ハァ……、っ」

 

 現在。ヒメは、冷たい雨水が激しく流れ込む暗渠の底で、ただ一人、文字通り力尽きかけていた。歩いても、歩いても、どこにも出口はなかった。目の前にあるのは、先ほど見たはずの、ひび割れたコンクリート壁と、赤錆びた鉄梯子。空間が完全に折り畳まれている。

 

 地上からの豪雨は、すべてこの折り畳まれた水槽の底へと引き込まれ、水位はすでにヒメの膝元をかすめようとしていた。時間経過とともに、ここは逃げ場のない完全な水葬の場となる。

 

 バルムンクの過負荷による反動は、今になって肉体を容赦なく破壊し始めていた。肋骨は数本がへし折れ、息を吸うたびに肺が引き裂かれるような激痛が走る。内臓出血のせいで、口の端から絶えず鮮血が零れ落ちていた。

 

 狩衣に装備されている無線機は防水だが、この特殊な次元迷宮の中では「ザ、ザザ……」と不快なノイズを吐き出すだけのただの鉄屑だ。外からの救助など、来るはずがない。この結界は、内部からあの怪物を完全に殺害する以外、解除する方法がないのだから。

 

 「……ザー、ザー……」

 

 暗渠の空洞に、雨音が反響している。

 

 いや、それは本当に雨音だろうか。あの界異には音響欺瞞能力がある。雨音の周波数を自在に操作し、自らが水底を這い回る音を環境音の中に隠蔽する呪詛のノイズ。全方位から、あの無数の手足が迫っているような錯覚。逃げ回れば逃げ回るほど体力を奪われ、動けなくなる。

 

 (それでも――ここで終わるわけにはいかない)

 

 ヒメは、諦めてなどいなかった。視界の端がかすみ、急速に指先の感覚が失われていこうとも、彼女の瞳の奥にある生命の炎は、少しも衰えてはいなかった。右手に握った戦術ライトのスイッチを何度も、血の滲む指で押し込む。

 

 チカ、チカ、と頼りなく明滅する細い光条。それが、水面にゆらゆらと広がる自らの赤い血を冷酷に照らし出す。その限界の光を闇の奥へと向け、ヒメは折れた肋骨の激痛を噛み殺しながら、冷たい這うような呼吸で歪んだ壁を睨み据えていた。

 

 まだ、バルムンクの残響は耳の裏で鳴っている。回路が焼き切れたのなら、もう一度体内の呪力を無理矢理に通して繋ぎ直せばいい。一歩も動けないのなら、怪物がおびき寄せられて目の前に来るその瞬間、このライトの光の最短距離で、その核を直接突き刺して相打ちに持ち込む。

 

 「わたしは……まだ、生きてる……っ!」

 

 ずるり、と身体が水底のヘドロに滑り、濁流の中へと沈み込みそうになる。だが、ヒメは引きちぎれそうな痛みを無視して、コンクリートのわずかな突起に爪を立て、

泥水を傷だらけの手で這ってでも上体を起こし続けた。

 

 その、執念の拒絶の最中だった。

 

 バシャリ。

 

 雨音のノイズを割って、すぐ目の前の水面が揺れた。ヒメは反射的に、明滅する戦術ライトをその歪みへと向けた。消えかける細い光条が、濁流の中から音もなく静かに立ち上がるひとつの影を真っ直ぐに捉える。

 

 光の無い暗渠だというのに、深く被ったパーカーのフード。そこから覗く一切の光を反射しない、底の抜けた深淵のような紅紫の瞳。

 

 「……黒瀬、さん……?」

 

 黒瀬澄――が、そこに立っていた。オーバーサイズの黒いロングコートを冷たい雨に濡らしながら、彼女はヒメの決して諦めていないその眼差しを、ただじっと見つめ返していた。

 

 「見つけた」

 

 硬質で透き通るような声。常と変わらぬ落とし屋の声。黒瀬澄は、泥を這ってでも戦おうとしていたヒメの身体の前に、静かにその膝を突き、息を吐いた。

 

 

 

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