「どうして……ここに」
ヒメの喉から漏れたのは、喘ぎ声に近い掠れた、しかし力強い疑問だった。
ここは、あの『漏水する甍』が展開した、生存者を隔離するための絶対の次元迷宮だ。境界対策課の資料が正しければ、外からの救助など絶対に届かない。それなのに、目の前の民間祓魔師は平然とここにいる。
黒瀬澄は、その問いには答えなかった。ただ無言で、ヒメが死守していた戦術ライトをその手から静かに受け取り、近くの段差へと置いた。それから、ヒメの折れかけた身体を軽々と抱え上げ、わずかに水位の届かない、コンクリートの狭い足場へと彼女を座らせる。
――彼女がここに来られた理由。それは、この界異が展開する『うつしよの水葬』という次元結界が持つ特性、絶対のルールゆえだった。結界は生きている人間を感知して発動し、それを閉じ込める。だが、黒瀬澄=九鬼儚という少女は――すでに常世の門をくぐり、そこから大部分が再構成される形で還ってきた存在。霊的因果のシステムにおいて、彼女は既に死んでいる存在として処理されている。
生存者しか弾かない入場制限にとって、彼女はただの影でしかなかった。だからこそ、何の抵抗もなく、この絶望のデッドスペースへと侵入することができたのだ。しかし、それは同時にがそれほど人間の側から遠ざかってしまっているかという、残酷な事実証明に他ならない。
「竜殺しの再演術式が切れてる。ジークフリートの護りを焼き切る程のバルムンクの過負荷が原因」
黒瀬は一切の動揺を見せず、淡々とヒメの負傷具合を点検していく。光の消えた紅紫の瞳が、ヒメの胸元や口元の血をなぞり、それでもなお、敵を屠ろうとギラギラと輝いているヒメの瞳と視線を交わした。生者と死者の眼が重なり合う。ヒメの眼に水鏡の様に澄んだ眼が映り、その中に自分の眼が輝いていた。
「……少し手荒な治療になるわ。まだ戦うつもりなら、耐えて」
黒瀬は濡れた黒いコートの裏に手をやると、飾り気のない軍用デザインの、簡易抗呪テーピングのロールを引き抜いた。
「痛むわ」
とヒメが答えた瞬間、彼女はヒメの衣服の上から、折れた肋骨を固定するための胸帯を巻き付け始めた。
「う、ぐ、ぅぅっ……!!」
ヒメの口から、押し殺した悲鳴が漏れる。容赦のない、しかし完璧な力加減と速度。骨がこれ以上ズレないよう、ギリギリの強さで胸元が締め上げられていく。激痛に意識が飛びそうになりながらも、ヒメは黒瀬のコートの襟元をガチガチと震える手で強く掴み、その冷たい胸に顔を押し付けるようにして耐えた。
冷たい、と思った。
衣服を通り抜けて伝わってくる彼女の体温は、この周囲を流れる冷徹な雨水と、ほとんど変わらない。すべての代謝を、機能を維持するためだけに最低限で消費しているかのような、湖水の冷たさ。
(こんなに冷たいのに……どうして、そんなに温かい目をして、わたしを見るの)
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ」
激しく息を荒げるヒメ。その胸元にテーピングの端を圧着させ、黒瀬が手を離した、その瞬間だった。
――ズズ、ズズズ……。
折り畳まれた空間の奥。暗渠の闇の向こうから、濡れた重い瓦が擦れ合うような、不快な金属音が響き渡った。
黒瀬が施した応急処置、誠実に命を繋ごうとするその手際。そしてヒメが絶対に生き延びると燃やし続けた生命の熱量。それらが噛み合って熱源が生まれた瞬間、この広大な迷宮を這い回って獲物を捜索していた『漏水する甍』が、その明確な座標を完全に補足したのだ。
ザー、ザー、という偽りの雨音が、急激にその周波数を変えていく。水面を激しく叩く、無数の手足の音。怪物の本体が、正解のルートを突き止め、猛烈な速度でこちらへ殺到してくる。
「……見つかった」
黒瀬は静かに立ち上がった。膝下まで達した濁流の中に、その黒いスニーカーを迷いなく沈める。足場は最悪。スペースは狭く、天井も低い。あの井戸と似ている状況だが、此処ではより機動力を活かした闘いは難しい。
彼女はオーバーサイズの黒コートの袖を、少しだけ乱暴に捲り上げた。現れたのは、華奢な、しかし引き締まった少女の細腕。
「ヒメ。動かないで。……ライトで、私の影を照らして」
ヒメは痛む胸を押さえながら、迷わず床の戦術ライトを拾い上げ、その光を黒瀬の背中へと照射した。
「ええ――死なせない。あなたも、わたしも!」
闇の向こうから、凄まじい水飛沫を上げて「それ」が躍り出てきた。
チカ、チカと明滅を繰り返すヒメの戦術ライトが、暗闇を暴力的に切り裂き、一瞬だけその悍ましい輪郭を捉える。漏水する甍が放った眷属だ。
無数の人間の溺死体が幾重にも折り重なり、古い日本家屋の瓦や泥壁のように固まった、巨大な蠢く肉塊。その中心核からムカデの足のように生えた無数の手足が、水底のヘドロを狂ったように掻き乱し、まっすぐに突進してくる。
黒瀬澄は、あえてその視覚を捨てた。
怪物が放つ音響欺瞞のノイズが耳を塞ぎ、全方位から迫るような錯覚を植え付けようとも、彼女の感覚は、足元の濁流に生じる微かな波紋の乱れだけを正確に捉えている。
突進のエネルギーが、押し寄せる水を不自然に歪めた。その物理的な波が黒瀬の脚に触れた瞬間、彼女の身体は爆発的な踏み込みを見せた。膝下まで達した、滑りやすく足場の悪い水底。しかし黒瀬は、その流れる水の滑りやすさを逆に重力移動の潤滑油として利用し、限界まで低い姿勢で怪物の懐へと滑り込む。
「捕捉」
迷いなく伸ばされた両手が、怪物の最前方に集中する「人間の手足が集束した部位」――すなわち、物理的な関節が存在する座標を完璧に掴み取った。
ズゥン!! と、狭い暗渠内に鼓膜を震わせる衝撃音が轟く。
黒瀬は、水を吸って数百キロの質量と化した怪物の突進速度を、正面から自らの肉体で受け止めはしなかった。相手の持つ強大な慣性と水流の勢いをそのまま自身の旋回運動の軸へと転化し、洗練された技術で怪物の巨体を強引に振り回す。
一本背負い。
ドガァァンッ!!!
怪物の頭部が、暗渠の強固なコンクリート壁へと強烈に叩きつけられた。甍を模した肉の殻がバキバキと音を立てて爆ぜ、濁った体液が水面に飛び散る。
すかさず、黒瀬はその巨体の上へと躍り出た。と暴れ狂う怪物の無数の手足を、自らの膝と体重で冷徹に踏みつぶし、床に固定する。至近距離で本体から噴出されるヘドロの外套――霊的防御障壁を中和し、衣服を急激に壊死させる黒い粘水が黒瀬のコートを侵食していくが、彼女の昏い眼は、瞬き一つしない。
バキ、キチ、と、純粋な肉体の力と体重移動だけで、怪物の頸椎にあたる部位の関節を極め、無慈悲にねじ切る。
だが、これは所詮使い魔に過ぎない。一体の機能を引き裂いても、折り畳まれた空間の死角から、さらなる肉塊の残滓たちが水面を割って凶悪に躍りかかってくる。
「黒瀬さん、右、十三度の位置に、次の塊っ……!」
段差の上から、ヒメの声が響いた。黒瀬と界異の使い達との戦闘の余波で、激しい耳鳴りの残響の中、ヒメの頭脳は、暗渠の構造と界異の放つ音響欺瞞の周波数を、脳内で解析し始めていた。
ザーザーと鼓膜を惑わせるノイズの裏側にある、本物の駆動音、肉の擦れ合う音。敵の接近や、闇の中での待ち伏せのインパルスが、ヒメの頭の中で正確な戦術マップとしてリアルタイムに組み上がっていく。
ヒメは痛む胸を押さえながら、壊れかけた戦術ライトを動かし、解析した座標へピンポイントで細い光条を放った。
光が走る。
その灯りが作った、暗渠の壁の巨大な黒瀬の影。
黒瀬澄は、その影の動きだけで、背後から迫る異形の位置と間合いを完璧に補足した。
ノールック。
迫りくる二体目の腕を、振り返りざまに脇に抱え込み、自身の身体を反転させながらコンクリートの床へと完璧な軌道で叩き落とす。払い腰。床に激突し、怪物の気流が乱れた瞬間に、黒瀬はコートの袖から引き抜いた鏢を、怪物の脳天へと正確無比に突き立てた。
至近距離での物理的な格闘運動を術式の儀式とし、内側の霊的回路を直接引き裂き止めを刺す。
ヒメの執念の音響ナビゲートとライトの光、柔軟に戦術を切り替える黒瀬の音もなき影のような体術が、最悪の水底で完璧に噛み合っていく。次々と水底へ落とされ、物言わぬ肉塊へと変えられていく異形たち。
しかし、ついに迷宮の最奥から、それらすべての残滓を統べる『漏水する甍』の本尊が、暗渠の天井と壁のすべてを埋め尽くすほどの絶望的な質量となって、泥水を爆発させながら這い出てきた。
水位はすでに二人の腰元に迫ろうとしている。退避する場所も時間もない。踏みとどまる以外の選択肢はなく、そして長期戦で水位が上昇すれば勝ち目がない。
「……ヒメ、止めは任せる」
黒瀬は、津波のように突進してくる巨大な本体の肘にあたる歪んだ骨を、正面から両手で掴み取った。凄まじい質量が彼女の華奢な身体を押し潰そうと圧をかけるが、黒瀬の足元に、蓄積されてきた加護出力の幾何学模様が鮮やかに浮かび上がる。
身体を美しく翻し、全霊の力で怪物の巨体を暗渠のコンクリート壁に向かって投げつけた。
本来ならば、その凄まじい衝撃でコンクリートの壁が粉砕され、怪物は瓦礫の向こうへと埋もれるはずの物理運動。だが、そこには、怪物自身が展開した異様に強固な次元迷宮の壁が存在していた。
ドオォォォンッ!!!
怪物の巨体は、自らが作り出した絶対の結界に激突し、その強固すぎる反発作用によって、逃げ場のない破壊エネルギーをそのまま自らの肉体に受けて、凄まじい速度で弾き返されてくる。
その軌道を、ヒメは最初から信じて、待っていた。
「これでお終いよっ!!」
ヒメは折れた肋骨の激痛を、生きる執念の咆哮でねじ伏せた。黒瀬が稼いだわずかな時間。その間に、自らの霊的回路の残滓を力尽くで繋ぎ直し、一度は焼き切れた体内の加護出力を強引に再駆動させていたのだ。
左手で戦術ライトの光を真っ直ぐに照射し、弾き返されてくる怪物の頭部を完全にそのスポットライトの中へ固定する。右手には、輝きを取り戻した銀色の刃。
バルムンク。
怪物が自らの結界の反発で突っ込んでくる慣性速度、そのすべてをカウンターの威力として上乗せする形で、ヒメは渾身の力でバルムンクを振り抜いた。
キィィィン――ッ!!
暗渠の底に、この日一番の、そして最も美しい神話の残響が鳴り響く。切り裂かれたのは、肉だけではない。
世界を閉じ込めていた隔離次元の因果そのものが、ヒメの放った一閃によって真っ二つに両断された。
――世界が、白濁した光の泡となって爆ぜた。
直後、鼓膜を容赦なく圧迫していた重苦しい水圧のような気配が、パチンと音を立てて弾け飛ぶ。折り畳まれていた空間の因果が、ヒメの放ったバルムンクの執念の一閃によって解かれ、元の形へと急速に復元していく感覚。視界を遮っていた、あの泥水を混ぜたような歪んだセピア色の闇が引き裂かれ、暗渠の奥へと吸い込まれるように消え去っていく。
ドサリ、と。
水を限界まで吸った泥壁が崩れるような、重く虚しい音が地下空間に響き渡り、『漏水する甍』の本体が濁流へと没していった。人間の溺死体を模していた肉の瓦は、核を完全に断ち切られたことで、ただの腐ったヘドロへと還る。隔離次元の迷宮は、その崩壊の波を水面に広げながら、静かに、しかし完全に消滅した。
「……ぁ、……は、ぁ……っ」
ヒメの口から、張り詰めていた糸が文字通り切れたような、かすれた吐息が漏れる。それと同時に、暗渠を満たしていた「ザー、ザー」という悍ましいノイズ――怪物の放っていた音響欺瞞の残響が、完全に途絶えた。
代わりに鼓膜へ届いたのは、遥か上方の排水口から響いてくる、現実の地上の雨音だ。空間の畳み込みが解除されたことで、天井近くまで達しようとしていた水位の上昇はピタリと止まり、溜まっていた濁流は本来の排水経路へ向かって、ゆるやかに流れ始めていく。
本物の、静寂だった。
ヒメは手の中からバルムンクの出力を落とすと、それ以上の力を維持できず、銀色の刀身をコンクリートの床へとそっと横たえた。過負荷で熱を帯びた刃が、冷たい雨水に触れて微かな白煙を上げている。
「ハァ、ハァ……、っ」
激しい格闘戦を繰り広げていた黒瀬澄は、何も言わずにその場に佇んでいた。オーバーサイズの黒いロングコートの袖口は、怪物の殻と擦れ合ったことでボロボロに引き裂かれ、剥き出しになった華奢な拳の指関節からは、じわりと赤い血が滲み出ている。何百キロという怪物の質量を、肉体一つで受け流し、叩き潰し続けたことによる、確かな物理的代償。
彼女は、その痛むはずの拳を何も言わずにコートの袖の中へと引っ込めると、水底からゆっくりと足を上げ、ヒメのすぐ隣へと無言で腰を下ろした。
チカ……、チカ……。
段差の上に置かれた戦術ライトが、今度こそ完全に寿命を迎えようとして、いよいよ細く、頼りなく明滅している。その消えかける細い光条の中、二人の影が、湿ったコンクリートの壁に寄り添うようにして静かに伸びていた。
誰も来られないはずの絶望の檻に、何の制限も受けずに現れた影。
ヒメは、隣に座る少女の横顔を、激しい息を整えながらじっと見つめた。濡れた黒髪が額に張り付き、その隙間から覗く紅紫の瞳は、光を映さないのままだ。
(黒瀬さん、あなたは――)
なぜ、この結界を抜けてここに来られたのか。その本当の理由を、ヒメの聡明な頭脳はすでに導き出していた。生きている人間しか閉じ込めない水葬の檻。そこに何の抵抗もなく侵入できたということは、彼女がもう、こちらの側の存在ではないという、何よりの証明。
けれど。
ヒメは、何も訊かなかった。ただ、傷だらけになった自分の手を震わせながら伸ばし、コートの袖から微かに覗く、黒瀬の冷え切った指先をそっと包み込むようにして握りしめた。
驚くほど冷たい。けれど、世界の何よりも、今のヒメにとっては確かに、温かかった。黒瀬は拒絶しなかった。握られた手をそのままに、ただ静かに、濡れた長い睫毛を伏せる。
ポツリ、と。
黒瀬の髪から滴り落ちた冷たい水滴が、ヒメの頬を濡らし、こびりついていた血の跡を優しく洗い流していく。
「……救助が来るまで、あと十四分」
黒瀬は、感情の起伏を一切取り払った、硬質で、鈴の鳴るような声で呟いた。結界が解けたことで、地上の境界対策課がこちらの異常に気づき、最速でこの暗渠の底へと到達するまでの正確な計算。
「……それまで、寝ていていい。私が、ここにいるから」
その言葉は、冷たい雨の底で、ヒメの魂にこの上ない安らぎを与えた。
最後まで絶対に諦めないと決めて、泥を這い、そして生き残った。もう、気を張る必要はどこにもない。
「ええ……。少しだけ、おやすみなさい、黒瀬さん……」
ヒメは小さく微笑み、急速に重くなっていく瞼を閉じながら、黒瀬の冷たい、けれど絶対の安心感をくれる肩へと、そっと自分の頭を預けた。
明滅していた戦術ライトが、最期の瞬きをして、完全に消灯する。
深い闇に包まれた地下暗渠の底、現実の雨音だけが二人の境界を優しく満たしていった。