雨音の迷宮   作:P-PEN

3 / 4
終章 いつかその日の為に

 

 

 

 ――キィン、と。

 

 あの日、地下暗渠の底で鼓膜の裏に焼き付いたバルムンクの残響が、今も焦燥の火種となって御伽ヒメの胸を焦がし続けている。

 

 環境庁神祇部・境界対策課、特葬班専用訓練場。深夜の冷徹な空気の中、人工光に照らされたコンクリートの床に、ヒメは荒い息を吐きながら片膝を突いていた。

 

 「……もう一回、お願い」

 

 乱れた前髪の隙間から、不屈の、しかし確実に余裕を失いつつある瞳が対峙する相手を睨み据える。

 

 そこに立っているのは、特葬班創立時からエースを務める少女――九鬼鼎。青い眼の黒髪の少女は、流石にかなり贔屓目に見ても高校生程度の年齢にしか見えない。だが、彼女が身に纏うのは、真っ白な境対製の重装狩衣。通常のものとは異なり、各種穢れに対する封印や内部の加護出力を抑制するリミッターが組み込まれた特別製だ。

 

 何より異様なのは、タクティカル祓魔師としての装備ラックが一つも設けられていないこと。常に祭具を両手で保持しなくてはならないその両手には、不吉な黒い篭手がはめられている。通常の黒不浄すら三本も“喰って”破壊してしまったがゆえに、通常の祭具に頼らず、自らの穢れの力だけで祓滅を行うことを義務付けられた、歩く不条理。

 

 ヒメの戦術直感は、彼女の輪郭の周囲に陽炎のように揺らめく、黒い恒星のような気配を敏感に察知していた。影の形を取って蠢く鴉たちの残滓。地獄の劫火の温度。しかしそれを統御する本質的な鼎の気配は、あの『漏水する甍』の檻の中で、ヒメの前に音もなく現れた黒瀬澄――九鬼儚が纏っていた、あの馨しい死の気配と酷似していると感じていた。受ける印象は全く違うものの、よく見れば、背丈や顔立ちも似ているように感じる。

 

 (どうして二人は、似た気配を纏ってるの……?)

 

 今のヒメには、そしてこの場の誰も、二人の間に横たわる、儚から鼎への狂信的なまでの妄執や絶対の忠誠という歪な関係性を知る由はなかった。ただ、九鬼という血筋が持つ不可解な深淵の繋がりだけが、不気味な既視感としてヒメの脳裏を過る。

 

 「いいわ、ヒメ。気が済むまで、付き合うわ」

 

 鼎は柔らい声で応じる。しかし、その構えには一切の隙がない。彼女の両手を包む漆黒の篭手『屠羿(とげい)』と『戮封豨(りくほうき)』が、彼女の身体強度という絶大な説得力を伴って、訓練場に重苦しい圧力を充満させていた。

 

 「はぁぁぁッ!!」

 

 ヒメは床を蹴った。

 竜殺しの再演術式を脳内で限界まで発動し、現在の肉体が許す最高速度の最適解を導き出す。バルムンクが、空気を切り裂く鋭い風切り音を立てて鼎の死角へと殺到した。

 

 一撃目は牽制、二撃目は本命、三撃目で体勢を崩す――脳内で完璧に組み上がった三連撃の戦術マップ。

 

 ガギィィィンッ!!!

 

 しかし、その完璧な最適解は、鼎の放った超反応からの一撃によって文字通り粉砕された。術式による精密な軌道制御など、初めから無視している。鼎はただ、圧倒的な質量とパワーのままに、射日神話の鴉が宿す穢れを乗せた重い一振りを、ヒメの刃へと正面から叩きつけたのだ。

 

 「く、っあ……!?」

 

 凄まじい衝撃がヒメの両腕を駆け抜け、脳天へと突き抜ける。コンクリートの床ごと界異を破壊するという、封印状態にあってなお怪物じみた近接暴力。ヒメのバルムンクは凄絶な音を立てて弾き飛ばされ、彼女の身体は無様に床へと転がった。質量操作による衝撃力の増加は、見かけ上では全く分からないのにこの威力。

 

 「ハァ……ハァ……ハァ……っ!」

 

 まただ。また、届かない。

 

 相性が悪い事は分かっている。しかしそれを加味した上でも、どんなに頭脳で戦術を組み立てても、自らの技術がただの浅い模倣のように切って落とされていく――何せ鼎はまだ変身すらしていないのだ。井戸の底で、暗渠の底で、自分を救った黒瀬澄の背中が、鼎の無慈悲なストイックさと重なって脳裏にフラッシュバックする。

 

 床を叩き、悔しさに唇を噛み締めながら、ヒメは消え入りそうな声で問いかけた。

 

 「……何が、足りないの……。わたしは完璧に動けているはず。術式も、体術も、誰よりも早く最適解を導き出しているのに……! 黒瀬さんも、あなたも、何を見て戦っているんですか……っ!」

 

 それは、天才として生まれ、常に一流の回答を出し続けてきた御伽ヒメという祓魔師の、初めての、あるいは剥き出しの敗北宣言だった。

 

 訓練場の人工光の下、鼎は衣服の乱れ一つなく、静かに佇んでいた。彼女は弾き飛ばされたバルムンクを拾い上げることもせず、ただ、その年齢に見合わない慈悲の瞳でヒメを見下ろし、その薄い唇を開いた。

 

 「私やあなたは産まれながらの天才よ、ヒメ。でも、その天才性が私達の欠点なの」

 

 ヒメは一瞬、息を止めた。誰よりも優秀であることを自負し、それを証明することでしか境界に立つ資格を得られなかった自分たちへの、あまりにも突飛で意味不明の断定だった。

 

 「欠点?」

 

 「そう。天才とは欠点なのよ」

 

 鼎は静かに歩を進め、その白い狩衣の裾を揺らしながら、訓練場の空気に言葉を落としていく。

 

 「どんな技でもすぐに飲み込んでしまう程の天才は、その本質を知らぬままできると思い込んでしまう。でも、凡人は最初から全くできないから、何回も何百回も何万回もできるまでやるわ」

 

 その言葉が、ヒメの脳髄を直接突き刺す。すぐに理解し、すぐに実践できてしまうからこそ、その手前にある泥臭い地平を見ていない。そう指摘しているのだ。

 

 「するとある時、鋭い蹴りが標的に入る。握りしめた拳が標的の向こうへ突き抜ける。これが“蹴る”ということなのか、これが“打つ”ということなのか」

 

 鼎の声は、硬質で、それでいてどこか遠くの記憶を辿るように響いていた。幼少期から蔵に幽閉され、己の中に巣食う鴉の穢れと、ただ孤独に、狂気的なまでの回数を向き合ってきた者だけが持つ、凄絶な説得力。

 

 「何万回もやってある時 それができるようになる。その感動を凡人は忘れない。ずっと覚えてるわ。結局の所、戦いのための技術だの、速さだのはその後のこと。限界を超えて強くなる本質は――その感動があるかないか」

 

 ヒメの脳裏に、黒瀬澄の昏い眼が浮かぶ。民間祓魔師故にヒメのバルムンクに匹敵するような特殊で高価な祭具を持たない。だからこそ、ただ愚直に、肉体が擦り切れるほどの繰り返しの果てに、あの泥臭くも凄絶なな、死神の格闘術を掴み取ったのだ。

 

 「そして限界に突き当たり、迷ったなら稽古なさい。繰り返し、 繰り返し、繰り返し――」

 

 鼎はヒメの前にそっとしゃがみ込み、その華奢な手を、ヒメの震える肩へと優しく置いた。その手のひらは、あの地下暗渠で握った黒瀬の指先と同じように、どこか静かで、何処か冷たかった。

 

 「その稽古がいつか、ヒメ。貴方を救うわ」

 

 頭脳による最適解の算出ではない。限界の壁に突き当たった時、魂を支えるのは、かつて凡人が流した血と汗、そして「できた」というあの瞬間の震えるような感動の蓄積だけなのだと、特葬班の切り札は静かに告げていた。

 

 「……本質、の、感動……」

 

 ヒメがその言葉を噛み締めるように呟くと、鼎は満足したように小さく微笑み、それ以上は何も言わずに立ち上がった。

 

 「私は此処までにするわ。スマホの使い方、また明日教えてね」

 

 いつもの世間知らずな少女のトーンに戻った鼎は、軽い足取りで訓練場を去っていく。重い扉が閉まり、残されたのは、静まり返った空間と、ヒメの荒い呼吸の音だけ。

 

 ヒメは、床に転がったバルムンクをじっと見つめた。脳内マップで導き出す美しくスマートな戦術ではない。肉体が擦り切れるほどの、泥臭い「繰り返し」の地平へ。黒瀬澄という、死の底から還ってきたあの人の執念に、いつか生者のままで追いつくために。

 

 「……繰り返し、繰り返し……」

 

 御伽ヒメは傷だらけの手を伸ばし、泥を親しむようにして、再び武器の柄を強く握り直した。

 

 一回。

 二回。

 三回――。

 

 再演術式を完全にオフにしたその肉体で、ただ愚直に、基本の型を繰り返し振り下ろす。深夜の訓練場、静寂を切り裂く地味で泥臭い「稽古」の音が、少女の決意と共に、夜の底へと響き始めようとしていた。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。